夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

ナイチンゲールとヘンダ―ソン②

2007-09-20 07:27:31 | 私と福祉とであいの旅
 昭和50年代初頭はほとんどの病院や特養などの老人福祉施設は、まだ措置といわれていた時代でもあって、収容という言葉どおり、自分で施設を選べるのではなく行政処分の措置されての入所であったし、個室などほとんどなかった時代である。6人部屋から良くて2人部屋である。夕食時間は早いと16:00、遅くても17:00で、おむつ交換は24時間中の4回から多くても6回が一般的。つまり6時間に1回か4時間に1回の計算になる。お年よりのベッドは病院で使われるベッドで看護しやすいように高くて、お年寄りが自分でベッドから移乗するには足も床に届かず高かった。結果としてお年よりはベッドの人となって、いわゆる「寝たきり」(寝かせきり)が生まれていた。必然的にベッドの上が生活行為の場となり、寝たままでの食事、排せつ、睡眠、娯楽(テレビを見る)となった。4割以上の人がオムツを当て、週2回の寝たままで入る特浴といわれる機械入浴をするのである。
 私がもっとも最初に奇異に感じたのは、資格のない寮母がナースキャップをし、看護婦スタイルでいたことである。私も白衣を来て仕事をするように命じられた。白衣(ルパシカ)をきたソーシャルワーカーとナースキャップの寮母が施設内を歩けば、お年よりの中には当然医師と看護婦としてみても止むを得ないような状況で、詐欺でもやっているような雰囲気であった。
 お年よりは必然的に部屋から出ることもなく、行事のある時にだけ集まるくらいであった。動けないお年寄りがナースコールを命綱とするのは止むを得ない手段であり、必然的にナースコールの雨が降った。寮母たちの悲鳴が上がった。
 私は自分自身が責められるような気持ちで、無資格で経験のない寮母さんに対して、まったく初歩的な老人福祉の学習や介護実習を初めからしなければならなかった。これは他施設も同じ状況で、毎年初任者研修などが我が施設にもあてがわれるようになっていた。このために、初めに手にして学んだのが件のナイチンゲールやヘンダ―ソンだった。
 (次のブログに続く)