夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

先輩の入院

2007-09-04 07:08:42 | 私と福祉とであいの旅
 私が東京の障害児施設に就職して間もない1974年(昭和49年)のこと。大学の一年先輩Sさんが私をこの施設に誘ってくれた。Sさんとは学部も違っていたが、当時私は大学で「べ平連」という組織の活動で、デモに参加することがあった。私自身は記憶に残るのは、ベトナム戦争の反対運動と沖縄返還反対闘争での3回程度のデモへの参加しかない。同じサークルの同郷の今は亡きT先輩、青森のS先輩などがその当時この活動のリーダー格であった。沖縄という戦後もアメリカの統治下にあった日本の特殊な地で、本土の植民地化の犠牲となって引き受けた感のある沖縄県のたどった悲しい歴史を学んでいた。
 施設に就職して間もない頃、同じ職場のFさんのご主人がやはり1年先輩で他の施設に就職していたが、奥さんとの交流から歓迎会に招かれたことがある。3人で楽しいお酒を飲んで、美味しい料理をご馳走になった。彼はいつも車を愛しているのかピカピカに磨きぬいた三菱のギャランを駆って格好よく見えた。昭和51年に私が車を購入する時も、三菱の中古ランサーを選び進めてくれたのが彼だ。そんな彼が私と奥さんが夜勤の明け方、事故に遭って脳障害となった。今でもその朝のドタバタを忘れられない。世話してもらった車ランサーで、奥さんを乗せて事故現場に向かった。そして病院に駆けつけたのも、このランサーである。以後彼は奇跡的に回復するが、脳に受けたダメージがひときわ大きく、身体的にも脳卒中並みの歩行状態で大好きな車を二度と運転できる状態にはならなかった。青森を二度ほど彼はその後奥さんとFさん一家で訪問してくれたが、私の恩返しは何もないといってよいかもしれない。
 私が人生のピンチに合って家内の運営するパン工房の整備をするために、無担保無利子の借金を二度も引き受けてくれ、依然としてまだ返せない状態なのに、それを許してくださっているFさんご夫妻に申し訳なさでいっぱいの気持ちである。
 奥さんから久しぶりに残暑見舞いとお中元のお礼の手紙の中に、お盆に彼が下方結腸癌の疑いで腸閉塞となって、手術をして現在も入院中であることを知った。
 驚いて同じく親交の深いKさんに電話をして様子を聞いた。幸いにも手術はうまく行ったらしくて、意識も清明になったという。その入院中の病院も、聞けば私が学園に就職するきっかけ、Kさんの「産休代替職員」となり、以後30年を超える親交をいただくことになった。その時に生まれたKさんの長女Rさんが看護師として勤務する病院だという。なんという因縁なのだろうと思う。
 私は検査結果を確認してから、一度お見舞いに行こうと家内に話していた。