夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

秋晴れが戻った

2007-09-19 08:37:14 | つれづれなるままに
 長く強い雨の日がようやく終止符を終えて、今朝は秋晴れの空が帰ってきた。朝方は17℃で日中は27℃まで上がるらしい。津軽では、水害までは出なくて良かったと思う。これから稲刈りやら果実の収穫など苦労をした結果がそこにあるのだ。県南地方ではこのたびの大水で、相当被害が出ているようだ。苦労して育てた農作物が、収穫を前にして無に帰するのはどんなに残念なことだろう。稲も野菜も、りんごなどの果実も、みなこうした自然との関係性が深いのだ。感謝していただく気持ちを忘れないようにしたい。
 あうんのかぼちゃも昨日収穫して、一回では終えないくらいに数が多く、きょうに持ち越されたらしい。白取農場の野菜畑の豊作に感謝したい。

ナイチンゲールとヘンダ―ソンから学んだこと①

2007-09-19 07:03:49 | 福祉について
 『フローレンス・ナイチンゲール』(1820~1910)
 
  裕福なジェントリの家庭に育ったナイチンゲールは看護師を志し、のちに婦人病院長となる。しかし、クリミア戦争が勃発すると、翌1854年、自ら志願して38名の看護婦を率い従軍した。

スクタリ病院の看護師の総責任者として活躍。後に判明することであるが、着任後に死亡率は上昇(42%)したが、『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転した。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれた。看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来する。夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人」とも呼ばれた。ナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようである。本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られる。

ナイチンゲールは赤十字活動には関わっておらず、むしろボランティアによる救護団体の常時組織の設立には真っ向から反対していた。これはマザー・テレサと同様、“構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない、或いは一般化しない”ということを見抜いていたためである。そして「構成員の奉仕の精神にも頼るが、経済的援助なしにはそれも無力である」と言う考え方の元、マザー・テレサと同じく「自分は資金集めのために広告塔となる」ことを厭わなかった。しかし、内心ではそれを大変忌み嫌っていたようであり、クリミア戦争終結後はむしろ有名人として扱われるのを嫌うようになる。それが昂じて遺言では、墓標にはイニシャルしか記すのを許さなかった。

ナイチンゲールのこうした態度に影響されてか否か、赤十字国際委員会の創設者の一人であるアンリ・デュナンがナイチンゲールの活動を高く評価していたため、委員会が「傷病者や障害者または紛争や災害の犠牲者に対して、偉大な勇気をもって献身的な活躍をした者や、公衆衛生や看護教育の分野で顕著な活動あるいは創造的・先駆的貢献を果たした看護師」(全世界で隔年(西暦で奇数年)で50人以内)に対して贈る記念章に名前を残している。


[編集] 主な業績
専門教育を施した看護師の養成の必要性を説き、ナイチンゲール看護学校を創設した。
クリミア戦争に従軍し、兵舎病院の衛生改善に努力した。
陸軍の衛生改善に協力した。
イギリスにおける統計学の基礎を築いた。
看護にはじめて統計学を持ち込んだ。
著書『 Notes on Nursing(看護覚え書)』は、広く看護教育の場では古典


 『ヴァージニア・ヘンダーソン』(1897年11月30日-1996年3月19日)

ヴァージニア・ヘンダーソン は、アメリカの看護学者。フローレンス・ナイチンゲールに次いで世界でその名を知られている看護教育の指導者。

ミズーリ州のカンザスシティに生まれる。8人の兄弟姉妹の5番目。第一次世界大戦で兄弟たちが従軍したため、自分も何かの役割をとアメリカ陸軍看護学校(1918年開校)に学ぶ。その学校の校長が、学校の創立者で初代校長でもあり、またアメリカ看護の開拓期のアメリカ看護のThe Great Trioの1人、アニー・ウォーバートン・グッドリッチだった。彼女が終生ヘンダーソンの師となる。グッドリッチ自身、コロンビア大学、イェール大学の教授、学部長というキャリアを歩み、ヘンダーソンは常に彼女の後を追って歩いていくというコースをたどることになる。

 彼女は、1921年に、同陸軍看護学校を卒業。訪問看護師、看護学校の助手として活動した後、コロンビア大学ティーチャーズカレッジに学ぶ。のちにコロンビア大学看護学部の教員になる。

 彼女の看護とは何かという定義や、有名な基本的看護ケアの14の構成要素は、人間の基本的なニーズを包括的に網羅したものだと長く理解されてきた。今日では、ナンシー・ローパーらによって、乗り越えられたとはいえ、看護学の教育の歴史に残る業績である。また、彼女は、看護師の対人関係処理能力について、その向上と活用について深い知見を示した。看護過程の全ての構成要素に加え、知的技能、人間関係的技能、技術的技能を兼ね備えていることが、必要と指摘している。

 以上 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 私は1979年4月から1994年3月までの15年間、特別養護老人ホームのソーシャルワーカー(生活指導員)として勤務した。当時の老人ホームは病院的な思想に覆われていて、看護婦(看護師)が寮母に病院の中の職階制を持ち込むという状況下にあった。
病院的な思想というのは何ごとも医師の指示待ちで、責任を全てドクターに委任し、週2回しか来園しない医師の指示を待たないと成り立たない看護体制であった。
 老人福祉は私も初めての経験であり、50人の入所者に対してソーシャルワーカーはたったの1名、それにナースは2名、お年よりの直接介護に当たる寮母は11名(のちに法人単独で2名増員)、ほかには施設長と副施設長、事務員2名、運転手兼用務員1名という構成であった。
 特別養護老人ホームの入所要件は、ADL(日常生活動作能力=歩行・移動、食事動作能力、入浴動作、排せつ動作など)の自立度評価において全部介助が1項目以上1部介助が2項目以上で、もしくは今で言う認知症などによって常時介助を要する65歳以上の方が入所することができた。
 前述のお年寄りにもっとも身近な場所で、日常生活の心身の援助に当たるのが寮母と呼ばれる職名の当時はほとんどが高卒の無資格者であった。看護師は病院経験者で定年を迎えた女性と、ないかで勤務した経験のある準看護師の2名で、医師は嘱託で、週2回定期回診をすればよかった。
 何故標題のナイチンゲールとヘンダ―ソンという白衣の天使といわれた人を紹介したかというと、私が最初にこの老人ホームを医療から生活の場へと変える為に必要だった二人だからである。老人ホームは当時一般的には「養老院」と言わないと、なかなかわかってもらえなかった。それに県内には24番目の施設として私の勤務する特養ができたくらいで、まだまだ認可される特養がこの後続くのである。私が驚いたのは何よりも、特養の建設では何のポリシーもなく、儲かるからやるというと考え方の施設が多く、そのほとんどが病院のコピーであったり、先にできた施設のコピーがやたらと多かった。そのために病院ナイズされた建物環境が生まれたのである。
 (次のブログ)に続く