つながりあそび・うた研究所二本松はじめ

二本松はじめ(ピカリン)の活動予定や活動報告、日頃、考えていることなどを書きます。研究所のお知らせも掲載します。

抱っこ通信1222号 金子みすゞ④

2021年12月10日 | 抱っこ通信
金子みすゞも素敵だが、みすゞを蘇らせた力の方がもっと素敵④
自分自身の主人公として成長したいという子どもたちと、子どもに寄り添う親・先生たちの力が

みすゞの故郷、仙崎に行ったよ
 毎年1月末頃から2週間くらい、九州につながりあそび・うたの旅に出ます。今年も行ってきました。直接、九州に入るのではなく、途中途中で素敵な出会いとつながりあいをつくっていきます。
 今年は、愛知県幸田町で保母さんやお母さんたちが36回も続けているあそぼう会にお邪魔をしたり、広島市中区の親子劇場のお母さんグループ(1回もレッスンに出会ったことがない。いつも一緒に遊んだり食べたり飲んだり踊ったりの素敵なお母さんたちです)「ニギヤカーナ」主催のお座敷コンサート(こんなのをやりたいのだ)と、楽しく車を走らせながら九州に入りました。
 広島から九州に入る時、時間が空いたので、金子みすゞの生まれた仙崎(現在の長門市)に行ってきました。もちろん、金子みすゞ記念館や仙崎の海、みすゞ通りなどもみてきましたよ。考えてみたら4年前にもこの街を通過しているのです。確か九州ツアーの帰りに湯田温泉に泊まり、萩に寄ったときです。その時は金子みすゞに、まだ出会っていなかったのですね。

人間らしく飛び立ちたい
 なぜ、金子みすゞはあのような素敵な作品を生み出すことができたのでしょうか。故郷の仙崎の自然や家族をはじめ、そこに生活する人々の営みが、彼女自身の自分づくりに大きな影響を与えていることはもちろんのこと、それだけではなく、二十歳に引っ越した当時の一大文化経済都市・国際都市下関での生活も大きな要素になっていたと思われます。
 特に、文学少女であった金子みすゞは、書店の店番をしていたこともあり、その時代の最先端の文化・情報を真っ先に享受できる位置にいました。ですから、当時の一定の民主主義を求める大正デモクラシーの影響も受けていたと思われるのですが・・・。
 おそらく金子みすゞ本人が意識するとしないとに関わらず、絶対主義的天皇制のもとでの軍国主義一辺倒の時代、女性であるがゆえに受ける抑圧と差別が強かった時代から受ける大きな制約を突き破ろうとする人間の仕業、人間らしく生きたいと願う思いが、童謡という形で彼女から飛び立っていったのではないでしょうか。

みすゞ探しの旅があったから
 さて、金子みすゞの作品を多くの人が目にするようになるのは、彼女が逝ってから50年以上も経ってからです。それは一人の童謡詩人(矢崎節夫氏)が、学生時代に読んだ岩波文庫の「日本童謡集」の三百篇あまりの童謡の中から、金子みすゞの「大漁」という詩に出会ってからはじまりました。それからが「みすずさがしの旅―みんなちがって、みんないい」(教育出版国語教科書5年下巻に書かれたノンフィクションの題名)のはじまりです。
 彼の情熱と努力の結果、1984年「金子みすゞ全集」(JULA出版局)の出版にこぎつけ、同時に出版された「わたしと小鳥とすずと」(矢崎節夫選JULA出版局)で多くの人に金子みすゞが知られるようになりました。
 最初は、静かなるブームではじまったのでしたが、それがブレークしたのが93年の朝日新聞「天声人語」欄に「童謡詩人金子みすゞの生涯」(矢崎節夫著JULA出版局)を取り上げたころからと言われています。さらに94・95年にはテレビでも取り上げられ、96年からいよいよ教科書(平成8年版)に登場してくるのです。
 失礼な言い方ですが、金子みすゞファンの中には「矢崎節夫氏の童謡は知らないけれど、金子みすゞを蘇らせた矢崎節夫氏なら知っている」人が多いと思います。それだけ矢崎節夫氏の金子みすゞを蘇らせた「みすずさがしの旅」自体が一つのドラマであり、私たちに金子みすゞ作品と同様に素敵なプレゼントを贈ってくれたのです。その意味でも矢崎節夫氏の「金子みすゞ」を蘇らせた情熱と力は素敵なのです。

なぜ教科書に
 教科書に載るようになって、多くの子どもたちが金子みすゞのことを知るようになります。
 教科書がどのような過程を経て出版されてくるかはわかりませんが、戦前は国定教科書、つまり国が決めた教育内容を子どもに伝えるための教科書です。現在は、教科書出版会社の制作で、どの教科書を採用するかも各学校で決められているということが建前となっているようですが、実際は、国(文部省)の教科書検定制度もあり、むしろ教科書出版会社の自主規制も強まり、子どもと時代にあった教科書(教育内容)を選べる範囲はそんなに広くなっていないようです。準国定の体というのが現場の実感ではないでしょうか。
 もちろん、そんな現状の中でも、教材を子どもたちに合わせて準備し、実践している先生たちも多くいますが・・・。金子みすゞ作品を取り上げた教育実践も教科書に載る以前にもあったし、今も採用している教科書に載っていなくても授業化している実践もあるようです。
 さて、なぜ教科書に金子みすゞの作品が載るようになったのでしょうか。国定教科書の時代ではまず考えられないことです。具体的な理由はわかりませんが、真っ先に考えられるのは、金子みすゞ作品(教科書には「わたしと小鳥とすずと」「大漁」「ふしぎ」が掲載されている)が子どもたちの心をとらえる素晴らしい教材というのが一番の理由でしょう。それなら96年版(平和8年)の教科書以前にも掲載されても良かったのですが、金子みすゞが良く知られてきた時期との関係もあるのでしょう。

教育政策の変化
 もう一つ見落とせないのが、当時の文部省の文教政策とも関係があります。96年版の教科書が準備されていた95年は、つい5年前ですが、阪神淡路大震災やオウム事件がありました。しかし、当事者でない限り意識していないと遠い昔の事のように思えてくるのです。世の中のすべてのスピードがものすごく早くなり、短時間に多くのできごとが詰め込まれすぎていたように思えるのです。まさにコンピュータ化された社会の変化のスピードに、人間の心が追いついていけないのです。
 人間の心が追いつけない社会の変化のスピードは、子どもたちにも様々な影響を与え続けています。本来、子どもたち一人ひとりの心に寄り添うことが求められる子育て(保育・教育・家庭・地域等)の場にも、このスピードは持ち込まれ、「新しい荒れ」とか「学級崩壊」と呼ばれる状況を生みだされる原因の一つともなっているのです。人間の社会に人間の心がなくなれば当然の結果ですね。
 そこで、文部省は96年に出された第15期中央教育審議会の答申にも示さている、それまでの「ゆとりと充実」に加えて、「生きる力」を強調しました。「いかに社会が変化しようとも、自分で課題を見つけ、自らが学び、自らが考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とも協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性」を「生きる力」とし、これからの子どもたちに必要と考えたわけです。文章そのものは一応納得できるものだと思っていますが・・・。「個性の尊重」と豊かな「生きる力」を育む教育は、さらに「心の教育」へと引き継がれていくのです。
 このような社会の変化と教育の変化の中の教科書に、金子みすゞが登場するのです。「みんなちがってみんないい」と。まさに金子みすゞはこの時代の教科書の申し子として蘇ってくるのです。一定の民意の反映と言っても良いのでしょうが。

自分自身の主人公として生きる
 でも、それだけでしょうか。子どもたちの心をとらえたのは。中教審でいうところの「変化する社会への適応」するための能力と人格としての「生きる力」を育むためだけの金子みすゞではなかったはずです。
 98年の国連の「子どもの権利審査委員会」の指摘を待つもまでもなく、内申書重視の高度に競争的な教育制度への批判、まして、大人たちがつくった社会が、政治・経済・文化などあらゆる場面で大きく揺らぎ、大人自身も自信や展望を失っている時代に、子どもたち自身が、まず自分自身が自分自身の主人公になるために、さらに社会の変化に適応するだけでなく、社会を創造・変革させる主人公として、自らが育っていくために、ある時は自らが傷つき、ある時は他者をも傷つけながらも「みんなちがって、みんないい」を求めていたのではないでしょうか。
 最近、つながりあそび・うたコンサートで若い親たちに言っていることがあります。それは「子ども自身が本来持っている、自分の責任を自分自身で取る力を弱めないで」ということです。例えば、人間の子どもは生まれた時からお腹が空けば泣いて知らせるとか、大小便をしたら気持ちが悪いと泣いて知らせるとか、そんな自己責任の力を持ち合わせていました。それをある本に書いてあったからといって三時間ごとに授乳しなければならないとか、便利だからといって終始紙オムツにするとかして弱めていませんか、ということです。
 きっと子どもたちは「みんなちがってみんないい」の中に、歴史の主人公としての、自分のことは自分で責任をとりたいから、言葉を変えれば、自分自身の主人公になりたい、という思いを見つけることができるからこそ共感できるのです。そんな子どもたちが金子みすゞを蘇らせたのです。
 そして、そんな子どもたちの心に寄り添って、子育てや教育実践に悪戦苦闘している親たちや先生たちがたくさんいることも金子みすゞを蘇らせる大きな力になったのです。教科書に金子みすゞが蘇ったのは、そんな力が働いたのではないかと、私はひそかに思っているのですが、いや、思いたいのですが。
 実際、金子みすゞは教科書の中にとどまっていなかったのでしょうね。これは当然のことですが・・・。

子どもに寄り添う親と先生が
 「日の丸・君が代」が国民的議論もないまま法制化され、教育現場に半ば強制され、子どもや先生一人ひとりの思想・信条の自由が侵され、ものが自由に言えなくなっています。かって金子みすゞが生きていた時代に後戻りしそうな数の暴力がまかり通る時代にあって、それでよいのかをもう一度金子みすゞをうたう中で問いたいのです。
 そして、金子みすゞの詩も素敵だが、それと同じく金子みすゞを蘇らせた力、一人の童謡詩人だけでなく、何よりも歴史の主人公として人間らしく成長したいと強く願っている子どもたちであり、その子どもたちの心に寄り添ってきた親さんたちと先生たちとの力が素敵なんだよ、ということを金子みすゞをうたうことで広めたいのです。
 ここが小学校の先生たちも『青空 この街』のCDを聞いてもらいたい、広げたい大きな理由の一つなんです。またCDアルバムの中に金子みすゞを取り上げた深い意味なんです。
 もちろん、金子みすゞの歌を聴いた人が、どのように感じ、どのように思うかは、まさに「みんなちがって、みんないい」のですが・・・。

嬉しい実践発見
 最後に、この連載中に嬉しい実践の出会いを紹介します。
 1月のウインター・カレッジの中で京都の小学校先生の中西実さんのレジュメの「ピカ・ゆずソングをわたしの生きがいに」のなかに「金子みすゞの授業をめぐって」の項目と資料として学級通信がありました。
 具体的な実践報告は分科会が違って聞けませんでしたが、「フムフム、なるほど、こうやって授業と学級はつくられていくのか、金子みすゞもこうやって活かされているのか」の一端がわかり嬉しくなりました。 
 金子みすずの詩集を読んだ一人の生徒の素敵な日記から授業がはじまります。学級通信の第46号の見出しには「自分の考えが持てる~すばらしいことだね~」を発見してますます嬉しくなったと同時に、どんな授業だったのか、子どもたちはどんな感想を持ったのか興味を覚えました。赤鉛筆を片手に『手と手と手と』を読まれている中西実先生のことです。いつか実践を含めた原稿を寄せていただけると嬉しいですよね。(終)
【『手と手と手と』第60号 2000年2月25日付より】

(追加)
『手と手と手と』第60号編集後記には
★金子みすゞ作品や背景の資料・研究に興味を持たれた人は「童謡詩人 金子みすゞの生涯」(矢崎節夫著 JULA出版局)と1月に出版された河出書房新社の「文藝別冊 総特集金子みすゞ 没後70年」がお薦めです。授業研究というのならば「感性の人 金子みすゞの詩の授業化」(大越和孝著 明治図書)も参考となると思います。

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抱っこ通信1221号金子みすゞ③

2021年12月09日 | 抱っこ通信
金子みすゞも素敵だが、みすゞを蘇らせた力の方がもっと素敵!③
金子みすゞが生きていた時代と人間のやさしさとしなやかさ

文化は社会的・歴史的制約を突き破る力に
 金子みすゞの作品に魅せられる理由に、作品一つ一つに見られる自然・いのち・弱者の視点とその瑞々しいまなざしと人間らしいやさしさに大いに共感を覚えます。
 さらにもう一つ興味を持つところは、金子みすゞの作品が生み出された金子みすゞが生きていた時代と現代との関連で、金子みすゞ作品のもつ生命力がますます輝きを増しているような気がしているからです。
 本人が意識するとしないとに関わらず、私たちの生活は社会的・歴史的な制約を受けていますが、そこに生み出される文化も当然、社会的・歴史的制約を受けながら展開されています。
 本来、文化の役割は多くの人々にその社会的・歴史的な制約を突き破る力を育んできたように思うのですが、金子みすゞに作品の中にある魅力がどのように生まれ、どのように時代を突き破ってきたか、特に、現在、多くの人々から共感されている事実から何が見えるかが同じ文化に携わるものとして大変興味があるところです。

金子みすゞが生きていた時代は
 金子みすゞは1903年(明治26年)に山口県長門市仙崎に生まれ、1930年(昭和5年)に亡くなるまで512編の童謡を書いています。特に童謡を書き始めたのは1923年(対象12年)だと言われています。
 下関市での生活は、母の再婚先の書店の店番として、一日中大好きな本に囲まれていた幸せな時代です。1918年(大正7年)に創刊された童話童謡雑誌「赤い鳥」以来、この時代、教育・芸術分野においても、時代を先取りするような新しい運動がわき起こりました。日本児童文学とりわけ童謡・童話の世界でも全盛時期でもあり、童話・童謡雑誌も数多く出版され、一番輝いていた時代かもしれません。
 童謡においては、北原白秋が選者の「赤い鳥」、野口雨情が選者の『金の船』、そして金子みすゞも登場する西條八十が選者の「童謡」が三大童謡雑誌として君臨していました。
 その中で、金子みすゞは「童謡」に投稿するようになり、西條八十にその才能を認められるようなり、若き投稿詩人たちの一躍アイドルとなっていったわけですが、残念ながらその数年後には詩作を禁じられ、最後は自らの命を絶ったのです。
 さて、金子みすゞが生きていたこの時代は、お互いにの違いを認め合って「みんなちがってみんないい」というような生き方が可能だった時代でしょうか。「いのちあるものはみんな同じだよ」などが大切にされていた時代だったんでしょうか。

神様(天皇)の赤子として
 「ぼく、大きくなったら何になるの?」「兵隊さんに」と答えることが良いとされていた時代、それが金子みすゞが生きていた時代だったのです。子どもたちは神様の子どもとして育てられていました。
 一つはムラ(共同体)の中心が神社であり(天皇制ともかかわっていますが)、そのムラの子どもとして育てられたのです。子どもがお腹に宿ると岩田帯(犬帯)をしますが、その帯を神社にいってお祓いを受けますよね。丈夫な子どもが生まれますようにと。また、出産するとお宮参り、だんだん大きくなるにつれて七五三のお宮参りと、ムラの子どもとして丈夫に育ったことの報告とお礼、そして、さらに健やかにムラの担い手として育つように神様にお願いしますね。そういう意味での神様の子どもです。子どもを共同体の一員として共同体で育てる意味もありました。
 もう一つの神様の子どもと育てられた意味は、当時、子どもたちは、神様は実際にいると教えられていたのです。現人神と呼ばれて。天皇のことでした。子どもたちは天皇の赤子(子ども)として天皇のために無償の奉仕を求められ、天皇のために、国にために死ぬことを強いられていたのです。1890年にだされた教育勅語を頂点にそういう教育が展開されていたのです。
 絶対主義的天皇制のもとの軍国主義一辺倒の時代には、当然、個人の思いややさしさはおしつぶされ、「みんなちがってみんないい」なんていう思想は到底許されず、個人の「いのちあるものはみんな同じ」はずの「いのち」が、自分のものではなく、天皇のためにあった時代に、それもそんな権力の暴力が増大していった時代に、金子みすゞは生きて、作品を生み出していったのです。そんな時代に生み出されたことも金子みすゞの作品の素晴らしさを伝えたいと思う一つなんです。(次号に続く)
(『手と手と手と』第59号 2000年1月25日付より)
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抱っこ通信1220号 金子みすゞ②

2021年12月08日 | 抱っこ通信
金子みすゞも素敵だが、みすゞを蘇らせた力の方がもっと素敵!②
もっと「自分」を磨くことが大事なのと
金子みすゞを歌いこむことが大事

ひとりの感想から
 さて、「星とたんぽぽ」が自分でも気に入った創作曲になったこともあり、98年はこりゃ一丁金子みすゞ探しの旅(金子みすゞ作品を世に出した矢崎節夫氏の好きな?フレーズ。教科書にも同じ題名の文が掲載されているらしい)にも出かけるかと本屋さんを巡って、童謡集や関連の本を集め読みまくりました。あ、そうそう、その中にはサマー・カレッジに参加している金子みすゞファンの福井県鯖江の保母さんからいただいた「日めくり・金子みすゞの世界 朝焼け小焼けだ 大漁だ」なども入っています。ありがとうございました。
 この中から自分で気になった詩に曲をつけはじめたのが昨年の10月頃からです。CDにも入れた「わたしと小鳥とすずと」「土」の他は「ぬかるみ」「このみち」「積った雪」…。
 ところがショックなことがありました。ショックなことというよりも「これもありかな」と思ったことですが…。

 今年の1月の京都でのたんぽぽサークル主催のコンサートでの感想文の中に、合唱経験もあり、金子みすゞファンの方から「金子みすゞのイメージが壊れるから歌わないで・・・」という感想があったからです。ほとんどの方の感想が好評だった中に一人ですが、このような感想があったのです。
 初演だったこともあり、歌が自分のものになっていなかったことも事実ですし、私自身、うたも表現もあまり上手くはないことも事実です。ですからその人の金子みすゞのイメージを壊してしまったのも事実なのでしょう。
 それはそれぞれの人の感性の問題だからといって「みんなちがってみんないい」とは片付けられないのです。
 
 この方の感想文を通して考えさせられたのは、金子みすゞ作品という完成された詩に、曲をつけるということの意味と難しさです。多くの人が詩を目でよみ、声を出してよみ、読み手自身のイメージと感性で、その作品に共感を寄せている中に、あえてメロディをつけ、リズムをつけ、聴かせて、うたわせて、さらに共感を広げていくという作業、その歌の楽しさというか、うたう必然性というか、私の感性や音楽的力量が真に問われているということです。一生の課題として、いつも肝に銘じているつもりですが…。
 
 それ以上に、感想文に書かれた方が「もっと金子みすゞのことを知って。作品も、彼女自身のことも、その生涯も」ということを伝えたかったのではないかと考えたのです。またまた金子みすゞ探しの旅です。今度は作品集だけでなく「童謡詩人 金子みすゞの生涯」なんてお硬いい本を読んだり、金子みすゞが生きていた時代の社会的文化的背景を、昔、学習した懐かしい硬い本などを取り出して、あれこれ探ったりしたのです。 
 しかし、その中で気づいたことは、「金子みすゞ」を知ることも大事だけれど、もっともっと「自分」を磨くということが大事なのではないか、ということと、もっともっと金子みすゞをうたう、歌いこむということと、みんなに歌ってもらうということでした。
 
 それを気づかせてくれたのは、やっぱり私の金子みすゞ作品を聴いたり歌ってくれた仲間たちでした。「つい口に出てきちゃのよね。♬見えぬけれどもあるんだよ♬のフレーズ」「♬すずと・・・♬のところからの転調するところがいいね。何か明るくなって希望が持てて」「金子みすゞの童謡とつながりあそび・うたと思いが重なるところがあるね」等々の声でした・(次号に続く)
【『手と手と手と』第58号 199年12月20日付より】
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抱っこ通信1219号 金子みすゞ①

2021年12月07日 | 抱っこ通信
金子みすゞも素敵だが、
みすゞを蘇らせた力の方がもっと素敵!①
 『手と手と手と』第55号(99年7月20日付)の中根康則さんの連載「ゆるゆる・ふっくら・根強く」の19回目に、私のCD『青空 この街』に対する私の「意欲と気迫」を数々のデータを基に、しかも的確に紹介していただいています。
 中根さんとは20年以上の付き合いですので、私以上に彼自身が、このCDに思いを寄せていることが伝わってきてほんとうに嬉しかったです。
 さて、文章に最後に、「アルバム『青空 この街』のもう一つの柱は、金子みすゞ作品の三曲が収録されていることです。なぜこれらがこのアルバムに入っているのか、きわめて深い意味がありますが、紙面の都合上、このことについては語れないのが残念です。ぜひ、二本松さんのライブをおききください」と記されています。
 今回、その意味をお教えしましょう。ライブでは語れないことも含めて・・・。
 
売れるため?
 一つは単純に営業的戦略として、です。CDを聴いてもらい、うたい広げてもらうターゲットをある人たちにしぼった結果です。ゆずりんとダブってしまいますが、保母さんだけでなく小学校の先生たちです。明快でしょ? ガッカリした? ショックですか?笑っちゃいますか?
 実際の話は、収録曲が決まってからそんなことを考えつくのですが、CDを制作する以前からそんなことを考えられる能力があったらいいなと思うのです。
 現在、いくつかの教科書に金子みすゞ作品が掲載されています。子どもたちも「わたしと小鳥とすずと」の詩が大好きです。中には暗唱して聞かせてくれる子どもたちにもたくさん出会いました。でも、メロディがついていませんでした。そのために創作したわけではないけれど、もしかしたら、メロディが良ければ、歌ってもらえるかもしれない、手話も取り入れてもらえるかもしれないと思ったわけです。そうしたらもっと金子みすゞの世界が子どもたちに広がっていくのかなとも思ったのです。
 もう一つはCDが平和教育の教材にもならないかと期待しているのです。現場からの要望もあったこともありますが…。

 いきなり「営業的戦略」なんて文字がでてきて愕然としたり、憤慨している方もいらっしゃるかもしれませんが、はっきり言って営業的戦略という観点は冗談では済まされない問題ですし、とても大事なことなんです。この仕事を続けるには、また、つつましくも生活をすることって、綺麗事を並べるだけではだめなんです。もう少し言わせてもらうならば、経営的感覚というのか、よいものを広げていくための保証、将来的約束を財政的な面でも、いかに確実なものにするかをしっかり持たなくてはならないのです。
 残念なのですが、現在はよいものイコール売れる(広がる)とか限らないのです。もちろん、よいものしか広がらないのも事実です。絶対に大赤字を出すわけにはいかないのです。正直すぎるほど正直でしょ。イやと言うほどそういう失敗も見てきているし、自分自身もたくさん失敗を重ねてきているから言えるのかもしれません。
 音楽会やつどいは大成功でも、財政的には大赤字で、その後の活動は休止、または消滅、そして人間関係がズタズタになってしまった例なんかたくさんあります。

 こう書いていてなんだかおかしくなりました。ことお金に関しては無頓着な私だからです。財政的な面での本当のところは、みなさんから支えられて貯えで自主制作するわけですから赤字で良かったのです。いつか広がって赤字からトントンになりさえすればいいのです。5年かかろうが、10年かかろうが。この『青空 この街』は私の遺言の一つのつもりです。私の思いを残しておくことが出版する動機の一つだったんです。だから当初から財政的な問題は度外視していました。
 また、金子みすゞの作品が三曲収録されているからってCDが売れる(広がる)わけでもないのですよね。

金子みすゞ作品との出会い
 さて、本題に入る前にもう一つだけお付き合いしてほしいことがあります。金子みすゞがいますごい人気だそうです。しかも今年は彼女が亡くなって70年目にあたります。(1930年3月10日死去。26歳の時です)
 下関・大阪・東京、そして来年は旭川で「幻の童謡詩人『金子みすゞの世界』展」が開かれます。私も今年1月全国合研のオルグで福岡に入っている時に下関での開催を知り、ぜひ行ってみたいなと思っていたのですが、この8月東京会場へ出かけることができました。知っている小学校の先生にも出会ったり大変な人出でした。
 癒しの時代だからこそ金子みすゞや相田みつをが受けとめられているのだという声もありますが、それだけでなく金子みすゞ作品は、やはり現代人が共感する部分がたくさんあることは間違いないところです。
 私が、初めて金子みすゞ作品に出会ったのは、つい最近のことで97年12月です。ある保育雑誌の編集長と連載の打ち合わせをしている時に、その編集長がその雑誌の特集号を持っていらして、金子みすゞのことが記事になっていました。詩は「星とたんぽぽ」を含めて三編でした。この「星とたんぽぽ」にはなるほど童謡ということであって、その日のうちに曲ができました。それも一発で、です。何回も練り直しをしなくても良かったのです。「見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ」のフレーズがやはり一番気に入りました。
 それまで金子みすゞの名前は知っていても、作品を知らなかった私にはとってもわかりやすく、新鮮な感動を覚えました。後になってこの詩を歌えば歌うほど、詩の持つ意味や深さがじんわりと広がってきたのです。

みんなちがってみんないい?
 教科書に「わたしと小鳥とすずと」が掲載され、「みんなちがってみんないい」というフレーズが子どもたちの心をとらえていると聞かされていても、その詩さえ全文を読んだことはなかったです。
 ちょっと横道にそれますが、その「みんなちがってみんないい」のフレーズが一人歩きしてしまい、何か違うことが良い、と言ことだけが強調されているような風潮がはびこっているような気がして、特に文部省・マスコミが先頭に立って個性の時代という掛け声と相まって、「ちょっと待てよ」と思うところもあって、また、神戸での児童殺傷事件など、子どもだけではないのですが、人権軽視、命軽視に危機感もあって創作したのが『みんな違って』(CD『ラララ・ラッセーラ』に収録)です。「もしかして、からだの大きさや人としての輝きやめぐみ(地球的歴史的役割)はみんな違うけれど、もっと遊びたいとか、わかるようになりたいとか、愛されたいとか、愛したいとか等々、生きていること、そして、より人間らしく生きていきたいという命はみんな同じだよ』ということをうたいたかったのです。違うということも素晴らしいし大切だけど、同じということも素晴らしいし大切だよということも伝えたいです。
 もちろん、後から金子みすゞの「わたしと小鳥とすずと」を読むわけですが、世間で言うような「みんなちがってみんないい」ではない、金子みすゞの「みんなちがってみんないい」の世界はもっと深いところにあるように思いますが…。(次号に続く)
    (『手と手と手と』第57号 1999年11月1日付より)

 
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積った雪(金子みすゞ作品)

2021年12月05日 | 抱っこ通信
本日、Youtube二本松はじめつながりソングチャンネルにアップしました。
『積った雪(金子みすゞ作品)』
 金子みすゞシリーズと言うほどのものではないですが、つながりソングでは、『星とたんぽぽ』『土』『ぬかるみ』に続いて4曲目です。金子みすゞさんの詩は読んでいるうちにメロディが浮かんできます。その浮かんだままのメロディを大事にしています。今週の抱っこ通信には、以前、つながりあそび・うた研究所機関紙『手と手と手と』で金子みすゞにふれていますので転載する予定です。
 
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抱っこ通信1218号 ぶつかれ はじかれ なんどでも

2021年12月04日 | 抱っこ通信
 昨夜は日本平和委員会オンライン学習会「沖縄・緑が丘保育園米軍ヘリ部品落下事件から4年 いま保育園は?普天間基地は? 『チーム緑ヶ丘1207』のみなさんと考えます」に参加しました。大熊啓さん(シンガーソングライター)に誘われて『ぼくらの空の下で~なんでおそらからおちてくるの~』を歌ってビデオで参加したのですが、その後の保育園の子どもたちや保育を知る良い機会だったので最初から視聴しました。ビデオ演奏の後に発言を求められてビックリしましたが、つながりあそびを広げることと平和を求め広げる活動は子どもたちの笑顔のための両輪であることを話したかな?
 1年生と3年生の保護者の話で、緑ヶ丘保育園の卒園児が通う小学校も普天間基地そばで、最近、外来機の飛来が増えたこと、離発着の訓練が増していること等々危険や不安がますます膨らんできていることが聞けました。また、先月30日、深浦町に三沢基地の米軍機燃料タンク投機事故では、青森県平和委員会の人の日本中が危険にさらされていると話していました。沖縄にいる米軍海兵隊は日本防衛のために存在するのではなく他国への攻撃のために存在していること、今の現実は日米地位協定などによるものであること、この現実は戦時中では、と言った声もありました。そういう中でも、だれ一人とあきらめずことなく、事故の根源に迫ろうとしている姿勢が印象的でした。日頃、私自身があまり深く考えていないことが恥ずかしかったですし、もっと知らなければ、知らせなければと思いました。

 さて、『ぼくらの空の下で~なんでおそらからおちてくるの~』には、大熊さんのビデオ編集により大熊ファミリーも演奏に加わり、子どもたちのうたごえやファミリーが醸し出す雰囲気が、この歌のおもいを引き立ててくれていました。ありがとう。

今週のつながりソング動画、つながりあそび動画の譜面です。

【28日つながりソング
『ヤーレンソーラン!舟を出せ!』】
 先週の『笑う門には福来る』に続く和風ソングです。こういう感じの歌が好きです。民踊が好きだった親父の血でしょうか。昭和の人間だからでしょうか。
 昔、NHKTVで「ぐるっと海道3万キロ」という番組(1985~87年度放送)で、小さな入り江の奥の小さな浜から小さな舟で漁に出る光景が映し出されていました。家族総出で、村総出で、押し寄せては戻る、をくり返す波の中で「この波」というのをつかんで、小舟をみんなで海に押し出す光景でした。その土地に住む、暮らす人々が、何代も掛けて、何度も何度も海に、波に挑戦して、やっと舟を押し出すことを獲得してきたのでしょうね。家族みんなが呼吸を合せなければ、村が一つにならなければ、舟を沖に繰り出すことができなかったのですね。暮らしていけなかったのですね。きっと、日本中にそんな光景がたくさん見られたのでしょうね。テレビを見ていて涙がこみ上げてきました。人間っていいな、家族っていいな、美しいなと。
 もっと遡れば、いのちたちが海から陸に上がる時どれだけの挑戦があったのでしょうか。「ぶつかれ はじかれ なんどでも」の想像を絶する大事業だったのでしょうね。何百万年も、何十億年もかけて。なんだか今、この歌を歌いたくなりました。
 曲のアレンジ(シモシュ)とダンスの振付(西村明子さん)が新鮮だったことを思い出します。ダンスDVD『ラララ・ラッセーラ』(音楽センター発行)に収録されています。

 先の総選挙の結果、市民と(立憲)野党の共闘は、大きなスパンで見れば決して負けたとか、後退したとか、停滞したとかではないと私は思います。大海に向かってやっと一滴がこぼれた、しみだしてきたという感覚でしょうか。大海とは言いませんが、漁に押し出すためのこの波をやっと捉えたというところでしょうか。「諦めない」と一言で言ってはそれまでですが、今までも、今も、これからも様々な波が寄せてくるでしょうが、今回、捉えた波のあり方や法則をみんなのものにしていくことが求められているのでしょうね。そんな思いがあふれてきたので『ヤーレンソーラン!舟を出せ!』を歌いたくなったのです。

ヤーレンソ―ラン!舟を出せ!
     作詞・作曲 二本松はじめ
声を出せ 力の限り 夢はでかいぞ
自分の力で 引き寄せろ ソレソレソレソレ 引き寄せろ
ぶつかれはじかれ なんどでも ぶつかれはじかれ なんどでも
夢を必ず 引き寄せよう
ヤーレンソーラン ヤーレンソーラン 舟を出せ

汗を出せ 心の限り 波は高いぞ
自分の力で 乗り越えろ ソレソレソレソレ 乗り越えろ
ぶつかれはじかれ なんどでも ぶつかれはじかれ なんどでも
波を必ず 乗り越えよう
ヤーレンソーラン ヤーレンソーラン 舟を出せ

好きになれ 自分の限り 愛は強いぞ
自分の力で 抱きしめろ ソレソレソレソレ 抱きしめろ
ぶつかれはじかれ なんどでも ぶつかれはじかれ なんどでも
愛を必ず 抱きしめよう
ヤーレンソーラン ヤーレンソーラン 舟を出せ

花咲かせ いのちの限り 未来は近いぞ
仲間の力で 咲かせよう ソレソレソレソレ 咲かせよう
ぶつかれはじかれ なんどでも ぶつかれはじかれ なんどでも
いのち必ず 咲かせよう
ヤーレンソーラン ヤーレンソーラン 舟を出せ

【3日つながりあそび№216『でんしゃにのってゴーゴーゴー!』】
 動かない動画シリーズなんてないのですが、今回も歌だけですが、子どもたちの大好きな「電車ごっこ」です。すでに電車ごっこでは、『でんしゃにのって』『ぞうさん列車』『ロボット機関車』『ニコニコ列車』などをアップしてありますが、この『でんしゃにのってゴーゴーゴー!』が自分の中では、電車ごっこからの遊びの応用が一番できる歌です。例えば、ホールで遊んだ後に、子どもたちが各部屋に戻る時は、♬でんしゃにのってバイバイバイ♬と歌えばいいだけですからね。
 遊び方では一番オーソドックスな、走るスピードを速めていくパターン+運転士交代と色オニパターンを紹介しています。散歩の時に歌うとかリーダー(機関士役)が次々に友だちを誘って連結していくとか、いろいろ現場では楽しまれています。
 CDブックに書いた【ピカリンメール】を紹介します。
 子どもはただ走り回っているだけでも楽しそうですね。走れることそのものが嬉しいし、楽しいのでしょうね、また、いろいろなことを想像しながら楽しんでいるのかもしれません。だから、友だちとつながってのでんしゃごっこはその楽しさをもっと大きくしてくれているのでしょう。中には友だちに引っ張られている、引きずられているなんていう光景も見られますが、それでも楽しそうです。やはり、仲間の中でひとりじゃないということを感じているのでしょうか。
 コロナ禍の保育現場ではなかなか友だちの肩などに摑まって電車ごっこを楽しむというのは難しいのでしょうね。子どもたちの電車がホールを走り回る時、風が巻き起こる経験、楽しさ、素晴らしさを早く知ってもらいたいです。毎朝、小さな保育園の子どもたちが避難車や誘導リングにつながって近くの公園にやってきますが、公園に着いたら、先生が電車ごっこのつもりで、歌いながら公園内を一周するくらいの余裕があったらいいのになあ、無理かな。

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でんしゃにのってゴーゴーゴー!

2021年12月03日 | 抱っこ通信
本日(3日)、Youtube二本松はじめつながりあそびチャンネルにアップしました。譜面は明日(4日)掲載予定。
『でんしゃにのってゴーゴーゴー!』
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