実は、私のにぎやかカーニバルは1992年1月19日から始まっていたのです。
この日、京都府宮津市の宮津会館で開かれた『第9回障害者と共につくる文化の集い(広げよう、わたしのねがい、ぼくらの文化)』(以下、文化の集いと略す)にゲスト出演していたのです。出演する仲間たちの嬉々とした姿を見て感動したこと、会場のみんなと歌って遊んでいて楽しかったこと、障害者が主人公になることは地域にとって必要なこと、大事なことなどなど、とても大きな刺激を受けて東久留米に帰ってきました。これと同じような集いを東久留米でも開きたいという思いも一緒に。
その時の思いを、「冬のひだまり」と題して、1993年1月に発行された「ひろげよう わたしたちのねがい ぼくらの文化 障害者と共につくる文化の集い10年のあゆみ」(10周年記念誌)に、稚拙な文ですが載せました。
「雪と空と海、そして、春を迎える準備をしている仲間たちに出会った。丹後の冬のここだけがひだまり。つなぎあえて良かった。」これは、当日の記録に記した感想です。
前日の夜9時過ぎに到着した駅。雪と風で街灯が震え、迎えてくれた平林先生の頬の赤さが、なぜか懐かしいのです。
そして、当日。早くからスタッフが準備に取りかかっている姿は、さすが丹後の仲間。えらく組織的に思えました。つどい9回目という数だけではなく、この地で培われているだろう「障害者と共に」の歴史を感じないわけにはいかないのです。それが文化の集いの一部の地域の文化団体出演や、二部の構成詩にも現れていたと思うのです。
今、人のつながりあいは時間的(歴史的)にも断ち切られています。時代のつくりだす速さが、人の気持ちや思いを積み残して通過してしまうのでしょう。しかし、どっこい、この文化の集いの中ではしっかりと生きていたのでないですか。構成詩を演じる仲間の顔の安心感にも現れていたように思えたのです。
おそらく、それは雪と空と海と山。敵にも味方にもなるこの自然と、ここで暮らす人たちの様々な営みがつくりだしてきたものではないでしょうか。特に、与謝の海養護学校づくり等からはじまる「障害者と共に」の一本の糸を感じてしまうのです、冬のひだまりのように。
ところで、92年12月に、私の住む東京都東久留米市で、この文化の集いを真似して『障害児・者と共に楽しむつどい・・・にぎやかカーニバル』を企画しました。障害のある人もない人もみんなが主人公で、みんなで楽しむつどいです。できれば毎年続けて行けたらと思っています。そんな勇気を与えてくれた「文化の集い」にありがとう。また、つなぎあえる日を楽しみにしています。
そもそも、「文化の集い」とはどんな集いだったでしょうか。10周年記念誌の発行に際してから抜粋します。
「『完全参加と平等』をテーマとして取り組まれてきた『国連・障害者の10年』と共に歩んできた“障害者と共につくる文化の集い”も10回を数えることになりました。
この文化の集いは、京都北部障害者問題連絡会結成10周年を記念すると共に、『完全参加と平等』にテーマを、与謝・丹後の地でとらえ、その課題の実現とかかわて開催されてきました。それは、障害者に文化活動を保障すること、地域の文化諸団体・関係者との協同と連帯を育て合いながら、地域の文化発展に寄与すること、障害者問題に関しての現状や課題への理解の深まりを求めること、等々を課題として出発した取り組みでした。(中略)
『10年』、その時々の状況に応じながら、一貫して“障害者を一人の人間として大切にする”との思いに実現を目指す歩みの確かな発展の重みを今更ながら感じざるを得ませんでした」。と文化の集い第10回実行委員長の青木嗣夫さんは書かれています。
なぜ、すぐに東久留米でも真似っこして集いを開こうと思ったのか。そうですよね、会場(公民館ホール)を確保するのは一年前からだったのですから、帰ってすぐに、それも準備会を開く前に行動していたことになります。
どうして、そんなに集いの開催に燃えてしまったのでしょうか。勿論、当時は「にぎやかカーニバル」なんて言うタイトルはついていません。不思議ですね。
(写真は、第9回文化の集いプログラムの一部と、演奏する私とかめさん。当日は、ゆずりんと有里ちゃんも一緒してくれた)