つながりあそび・うた研究所二本松はじめ

二本松はじめ(ピカリン)の活動予定や活動報告、日頃、考えていることなどを書きます。研究所のお知らせも掲載します。

抱っこ通信1105号 住所変更

2020年03月22日 | 抱っこ通信
 今日(22日)は、音響機材やらCDやら資料やらを新倉庫に引っ越ししました。
 全レク一座のこうちゃんが素敵な棚を製作してくれたので、収納途中ですが、なんとか収まりました。こうちゃん曰く、棚はもう一段つくってくれるそうです。そうするともう少しきれいに収納が出来て、使いかっても良くなるということです。
 それにしても、整理しても、整理しても荷物は出てくるものですね。
 
 術後の私は、残念ながら重いものを持てない状況なので、こうちゃん、はるちゃん、みやちゃんが奮闘してくれました。ありがとうございました。
 
 「人の情けの上にあぐらをかいてはいけない」という言葉が、何度も何度も耳元でささやいていました。肝に銘じておきます。午前10時から午後3時まで、おしゃべりも片付けも楽しく、また新倉庫が黒目川沿いで見事な桜も見られ、川沿いを散歩する人たちの声も嬉しそうな一日でした。後は事務所の清掃を残すのみです。
 
 
連絡先・郵便物等送付先が変わります。
4月1日からつながりあそび・うた研究所(二本松はじめ)
〒203-0012
住所 東京都東久留米市浅間町1-12-21 つながりあそび・うた研究所
電話 090-3090-1431 
メール tunagari@cello.ocn.ne.jp 
 
つながりあそび・うた研究所(町田浩志)は
〒3580011
住所 埼玉県入間市下藤沢440-2 町田浩志
電話 090-3206-4372
メール hiroshi.m.57@kde.biglobe.ne.jp
 
中山 讓は
〒169-0072
住所 東京都新宿区大久保2-16-36 (株)音楽センター内ゆずりん係
電話 03-3200-0101


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抱っこ通信1104号 寂しいです

2020年03月21日 | 抱っこ通信
 昨日は、事務所に音響機材の買取業者に来てもらって音響機材処分。
 今日は不用品処分業者に来てもらって机や棚やコピー機や冷蔵庫や布団などの処分。引っ越すたびに荷物は少なくなっていきますが、40年以上も連れ添っていたものもあり寂しい限りでした。
 
 つながりあそび・うた研究所以前での仲間たちの活動の遺産?も多く含まれていました。
 事務所の前を流れる川沿いを歩く家族の話し声や笑い声に、自分自身が青春・朱夏・白秋と仲間たちと確かに歩いてきた証の中に埋もれていたのかなと思いました。そんなことが浮かんだ事務所の窓際の陽だまりの一日でした。
 いよいよ明日から、最小の音響機材やCDや資料などの荷物の移動です。
 
 
 
 夢わかばカレンダーが仲間たちのところに届き、入金が増えてきました。ありがとうございます。
 新型コロナウイルス感染拡大の関係で、5月までの活動のキャンセルが入ってきています。先が見えないって不安です。
 そんな中、今日は陸前高田市の横田保育園から夢わかばカレンダーのお礼の葉書が届きました。2011年からプレハブ園舎時代、仮園舎時代、新園舎になった今年度と3回遊びに行っています。
 
 今年は先にも書きましたが新型コロナウイルス感染拡大の関係でキャンセルが増え、なかなか夢わかばカレンダーを広げる機会がありません。みなさんのご協力をお願いします。
 
 
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抱っこ通信1103号 事務所整理と夢わかばカレンダーのお礼

2020年03月16日 | 抱っこ通信
 昨日(15日)の午前中は、事務所整理でした。
全レク一座の仲間や大吉つぁんも集まってくれました。
主に音響機材とCDやVDブックと研修会資料などの整理を行いました。
 
 5年前の旧事務所からの引っ越しは一日掛かりでしたが、今回は2時間弱で終了。整理、処分するものが少なかったです。
 処分が大変なのが、音響機材。使っていない機材がたくさんありました。保育園などで持参し、使用する音響は、年々、機材が小さくなり便利になってきています。
 過っては野外コンサートなんていう仕事、活動もありましたからそれなりの機材をそろえていました。それらの機材は、事務所の隅で静かに出番を待っていたのですが・・・。最近は、大きな取り組みは音響さんを頼むようにしています。
 
 術後であまり重いものは持てません。仲間たちが率先して動いてくれたので助かりました。持つべきものは仲間ですね。ありがとうです。
 
 というわけで、今日は音響機材の製品番号などを調べながら、若き日に思いを寄せていました。
 
夢わかばカレンダーのお礼が
 今日、熊本県大津町の保育園から夢わかばカレンダー贈呈へのお礼のメールが届きました。
 
夢わかばプロジェクト
つながりあそび・うた研究所様
 
日頃よりお世話になっています。
熊本県のみんなのおうち保育園の山内です。
 
今年も心がわくわくするようなカレンダーを送っていただきありがとうございます。
コロナウィルス感染症で世の中が重くるしい雰囲気になっているのですが、
心が明るくなるようなプロジェクトは素晴らしいと思います。
熊本から応援をしています。
 
春暖のみぎり、つながりあそび・うた研究所様のますますのご発展とご活躍をお祈りいたしております。
 
夢わかばプロジェクト
つながりあそび・うた研究所様
 
日頃よりお世話になっています。
熊本県のみんなのおうち保育園の山内です。
 
今年も心がわくわくするようなカレンダーを送っていただきありがとうございます。
コロナウィルス感染症で世の中が重くるしい雰囲気になっているのですが、
心が明るくなるようなプロジェクトは素晴らしいと思います。
熊本から応援をしています。
 
春暖のみぎり、つながりあそび・うた研究所様のますますのご発展とご活躍をお祈りいたしております。
 
 
特定非営利活動NPOこどもサポート・みんなのおうち
みんなのおうち保育園
山内由紀代
 
 
 つながりの仲間たちからも届きましたというメールやメッセージや電話が入ってきています。子どもたちの笑顔が見られると嬉しいですね。
 もう一回りも二回りも広げてください。お願いします。
 
一部1000円(送料別)
申込は、メールtunagari@cello.ocn.ne.jp 
メッセージ、電話090-3090-1431  二本松はじめまでお願いします。

事務所整理に集まった仲間の笑顔、素敵です。


 
 
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抱っこ通信1102号 夢わかばカレンダーで少しでも笑顔が

2020年03月12日 | 抱っこ通信
 今日、2020年度度版夢わかばカレンダーを東日本大震災、熊本地震、九州北部豪雨、西日本豪雨、東日本豪雨で被災した保育園、幼稚園、こども園、支援学校717園に贈ることができました。昨年より約40か所増えました。
 
 夢わかばカレンダーを購入していただいた仲間たち、広めていただいている仲間たち、被災園に届けていただいている仲間たちにお礼申し上げます。
 
 残念ながら、まだ知らせる活動が少ないために、購入数が減っているのが現実です。今日も2人から申し込みはありましたが。
 
 また、昨年の夢わかばプロジェクトコンサート当日で47部広がったのですが、今年は新型コロナウイルス感染予防のためにコンサートが中止。
 そして、昨年は、私もまっちゃん大吉つぁんも研修やコンサート等で行った先々で広げていたのですが、今年はキャンセルが続いているので広げる機会が奪われ、正直なところ財政的にきつくなっています。
 
 是非、被災した園等の子どもたちに笑顔を届けるためにも夢わかばカレンダーを広げてください。多くのみなさんのご協力をお願いします。
一部1000円(送料別)。メール(tunagari@cello.ocn.ne.jp)かメッセージでお願いします。
 
 
 ということで、ここ3年、3月11日は夢わかばカレンダーの発送作業をしています。昨日も,テレビで流れる被災地の今を見ながら、夢わかばカレンダーの袋づめでした。
 
 昨年の9年目に回った保育園は、岩手、宮城で14園。子どもたちとただ遊ぶだけですが、自分自身を見つめ、被災と復興を考える貴重な時間です。10年目の今年も回りたいと思っています。
 毎回、ご協力、応援してくれる岩手県保育連絡会の仲間たちには感謝です。もう「一緒の活動」と言えます。
 
 今日のテレビでは、9年目を迎えた今、いろいろな思いを抱えながらも、故郷で立ち上がり前を向いている若者たちの姿を多く見られました。そんな姿に勇気と希望をもらえます。
 
 でも、私が思い出したのは、抱っこ通信508号(2013.3.15付)に書いた、あの若い保育士さんです。今、どうしているかな?と。
 
 抱っこ通信508号の一部を再掲します。
 「『富岡には帰りません!』と胸に刺さった若い保育士の言葉が耳に響いています。郡山市にある仮設住宅敷地内の仮設の保育園で聞いた言葉です。震災のあった年度に富岡町に採用になった保育士さんです。帰りたくても帰れないのです。保育士を続けたくても明日はわからないのです。責任はだれがとるのだろう?私自身にもその責任はないのだろうか?
 
 『この子たちに(若い保育士)富岡の保育の楽しさを伝えられないことがつらいです。残念です』とベテラン先生の涙も胸に痛かったです。
 
 少しでも被災地の保育士さんたちが顔をあげ、前を向いて歩けるように、保育応援団として『つながり』をさらに広げることが求められていると思いました。そのためにも被災地を含めた全国の保育士さんが笑顔で元気に保育ができるように、これからも私のできることで頑張ることを楽しんでいければと思います。」
 
 翌年も富岡町仮設保育園に行きましたが、その時、彼女がいたどうか・・・。
 今、どれだけの若者たちが顔を上げて生きているのだろうか?もしかしたら、被災地だけでなく、この国では。
 
 今年は昨年4月に富岡町に開設された、にこにここども園に遊びに行こうかなと思っています。

2020年版夢わかばカレンダー表紙

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抱っこ通信1101号 炎の海―1945年3月10日

2020年03月10日 | 抱っこ通信
 一昨日の日曜日、午後6時過ぎに友人から電話が入りました。「いま、テレビで東京大空襲のことをやっているよ。見ていて二本松さんのあの歌を思い出した。そうそう土曜日のラジオ『大沢悠里のゆうゆうワイド』でも、大沢さんのお母さんの大空襲での体験、悠里少年をおぶって逃げたことを放送されていた。その時は、ラジオ局に電話しようと思ったよ。とっても大事な歌だよね。いい仕事しているね」という内容でした。嬉しかったです。

 東京大空襲。あれから75年。戦後生まれの私は、戦争のことを知ろうとはしていますが、幸せなことに戦争を体験していません。ですから子どもたちに戦争を伝えることがとても難しいです。でも、戦争を伝えなくてはならないと考えます。それは、

  ♬あらためて大声で 叫ぶことではなく
   いのちが この地球に 生まれたその時から
   親たちがずっと願って 願ってきたことです♬
    (音楽構成「~子どもたちと育ちあうあなたへほんの少しだけ」より)

 子どもたちより、若い人たちより、先に生を授かったものとして、人間としての務めと思うからです。また、両親や家族、仲間たちや多くの人たちから育てられてきたことへの感謝からです。

 少しだけ歌をかじっている私がやりはじめたことは、子どもたちや体験者の詩や文章に曲をつけて歌うことです。
 
 今年に入って、甲状腺がんの再発だ、手術だ、静養だと、鬱状態にもなりそうな私にとって、友人からの電話は、つながりあそびの楽しさを広げる、生きている楽しさを広げるという私の仕事=生き方の根っこになるものをもう一度思い出させてくれました。感謝です。

3月10日には毎年『炎の海―1945年3月10日』を聞きます。


炎の海―1945年3月10日
          作詞 二本松はじめ
          作曲 二本松はじめ・宮田剛(伴奏譜)
♬空が燃えた 町が燃えた
 人が燃えたあの日
 大地が燃えた 川が燃えた
 いのちが燃えたあの日

 愛が やすらぎが 思い出が
 夢が 希望が やさしさが
 すべてを焼き尽くしたあの日          
 燃えた炎の夜

(語り)1945年3月10日午前0時8分
約300機のアメリカ軍爆撃機B29は
東京下町に焼夷爆弾の雨を降らせ始めた。
折からの北西の風にあおられて、隅田川の両岸、
今の台東区・墨田区・江東区など
木造家屋が密集した町を火の海にした。
わずか2時間半の間で、約10万の人々が殺された。
亡くなった人の多くが子ども・女性・お年寄りの非戦闘員。
亡くなった人の数は原爆で亡くなった広島の12万人よりは少ないが、
長崎の7万4千人よりは多かった。
東京大空襲、それは、すべて計算しつくされた無差別の大量殺戮だった。

♬忘れないでください 覚えていてください
 人間らしく生きること できなかった人たちのことを
 忘れないでください 覚えていてください
 人間らしく死ぬこと できなかった人たちのことを

(語り)「早く出ろ!」怒鳴る父の声に家を飛び出した。空は真っ赤、火がゴーゴーと叫び、いつもの空襲とは明らかに違っていた。私たちは近くの国民学校に向かった。学校には防空壕が二つ。いつも入る防空壕は人がいっぱいだった。もう一方の防空壕に入った。校庭では炎と煙は激しく渦巻き、竜巻を起こしていた。しばらくして防空壕は熱でひび割れ、もう駄目だという寸前に防空壕の扉が開いた。人々は開いた扉に殺到し、外に出ようとした。その時、母が言った。「逃げるのはよそう。死ぬならここでみんな一緒に・・・」。その言葉が私たちの命を救った。われ先に外に飛び出した多くの人たちは、その後、炎に巻かれて死んだ。そして、最初に私たちが入れなかった防空壕は扉が開かず、何百という人たちが息もできず苦しみながら死んだ。

(語り)「ドブに入れ!」誰かが叫んでいた。われ先に飛び込む。私もドブに飛び込んだ。でも、3月と言ってもまだ雪が残る寒い夜。すぐに体がガクガク震え始めた。突然、後ろのほうで赤ちゃんの泣き声が聞こえた。振り返るとなんと赤ちゃんの頭巾が燃え、お母さんの背中で、もがき苦しんでいる。お母さんは水面に顔を伏せたっきり動かない。私は夢中で赤ちゃんに水をかけ続けた。でも、だんだん体全体の感覚がなくなってしまった。

♬ぼく生きていたかった おかあちゃんのおっぱい飲みたかった
 ぼく生きていたかった おんぶや抱っこたっぷりされたかった
 ぼく生きていたかった ともだちといっぱいあそびたかった
 ぼく生きていたかった 学校に行って勉強したかった
 ぼく ぼく ぼくたち

(語り)夜が明けようとしていた。私は家に帰るため橋を渡ろうとすると、そこには何百というたくさんの焼死体が積み重なっていた。黒焦げの死体、生焼けで泥人形のようになった死体。そこに小さな遺体に覆いかぶさろうとしているもう一つの遺体があった。きっとお母さんが子どもを火から守ろうとしたんだと思う。川にもたくさんの死体。水の表に出でいる死体は真っ黒、沈んでいる死体は焼けずにいた。凍死した人もいた。やがて煙がくすぶる焼け野原から太陽が顔を出そうとしていた。

♬空が燃えた 町が燃えた
 人が燃えたあの日
 大地が燃えた 川が燃えた
 いのちが燃えたあの日

(引用・参考にした文献)
 「あの日を忘れない 描かれた東京大空襲」(柏書房) 
 「語りつごう平和への願い 東京大空襲墨田体験記録集」(墨田区)
 「路地裏平和のネットワーク」(再び許すな東京大空襲!反戦平和の集い実行委
 員会)
 「東京大空襲」(岩波書店)


 この『炎の海―1945年3月10日』を収録した、自主制作・音楽センター発行のCD『母・・・それは憲法』(2005年6月)の巻頭文を紹介します。
 なお、このCDは15枚しか残っていませんが、古希祝いのお礼として2018年自主制作・自主出版したCD『あの日から・・・大切なあなたへ』にも収録しました。


人間らしく生きること 人間らしく死ぬことができるように

 私の一生の仕事はつながりあそび・うたを通して「生きているってひとりじゃない」「ひとのつながりあいって楽しいよ 大切だよ」を子どもたちへ、子どもたちと育ちあう人たちへ届けることです。それは同時に、いのちの美しさを生きることの素晴らしさを広げることだと自負しています。それはまた「平和」を守り、つくりだし、広げることだと思っています。それが私にとって人間らしく生きることです。

 私は憲法と同い年です。あの悲惨な戦争を反省する中から生まれた憲法。いかなる理由があってもいのちを奪うことも、奪われることも許さず、すべてのいのちが輝き、その寿命をまっとうできることを国家に義務付け、国民に保障した憲法を持つ国に生まれ、育ってきました。この憲法を持つまで、どれだけの多くの犠牲が日本で、アジアで地球にあったのでしょうか。そのことをしっかり伝えることと、その犠牲になったいのちたちのために、そして子どもたち、未来のために、いま憲法九条を守り、輝かせることに努力すること、それが私にとって人間らしく死ぬことができることだと思っています。
 すべての人たちが 人間らしく生きること、人間らしく死ぬことができるように!

           つながりあそび・うた研究所 二本松はじめ




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