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筑波大学硬式野球部のブログ

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1年生ブログ~先輩、私の話聞いてもらってもいいですか~齋藤綾介(体育1・作新学院)

2024年11月29日 19時00分00秒 | 2024 1年生ブログ
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援を賜り、誠にありがとうございます。




広報部局の本間暁登です。




昨年と同様に、「1年生ブログ~先輩、私の話聞いてもらってもいいですか~」というテーマのもと、我々1年生31人がそれぞれブログを書きました。




筑波の未来を担う私たちの熱い意気込みや野望、目標をぜひご覧ください!




本日の2人目の担当は、齋藤綾介(体育1・作新学院)です。






こんにちは。

体育専門学群1年生の齋藤綾介です。

初めてのブログの執筆で拙い文章かもしれませんが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。




私は栃木県さくら市というところに三人兄弟の末っ子として生まれました。野球は小学1年生の時に父の影響で始めました。




小学校は少年野球チームに、中学は地元の硬式のクラブチームに所属していました。




高校は作新学院高校に進学しました。
高校三年間は勉強する暇もなく野球に打ち込み、高校三年の春の甲子園に出場することができました。




その後、引退してから勉強を始めて受験を経て一般入試で筑波大学に入学しました。

受験期はとにかく私は勉強が嫌いで仕方なかったのですが、もっとしんどかったのが「筑波にいくんだね!」という周りの既に進学が決まってるみたいな雰囲気でした。

そのため私は勝手に落ちることができないという使命感を覚え、勉強を頑張ることができました。










さて、ここからは筑波に来てからのことを書いていこうと思います。

最初は体力の落ちを感じたことでした。


私は受験の際に学力が圧倒的に足りていなかったのでほぼすべての時間を勉強に費やしていたためかなり体力が落ちていました。


次に、木製バットへの対応の難しさです。

最初のころはバットを何本も折ってしまい入学当初に持っていたバットが気づいたら一本も残っていませんでした。




秋になると膝の怪我をしてしまいました。

実はこの怪我は高校三年の春の県大会の時に怪我をしたものが再発してしまったものです。

当時は引退も近かったのと時間がなかったので病院に行かずに診察してもらわない状態で無理して野球をしてしまっていました。


今回を機に病院にいったら、後十字靭帯損傷と肉離れを診断されて思ったよりも重症だったことに驚きました。


初めて野球ができなくなって今まで当たり前にやれていたことが幸せだとも感じました。けがをマイナスに捉えずやれることをやっていきたいです。




最後にこれからについてですが、私は少しでも早くリーグ戦に出場し勝利に導く選手になりたいです。

そのために今は怪我をしていて野球はできていませんが少しでも早く治してたくさん練習をしてうまくなっていきます。


また、チームとして神宮大会に出場して全国の舞台でも勝つチームを切磋琢磨しながら作っていきたいです。

この先チーム内でぶつかり合うなど様々な困難に当たると思いますがその度に筑波で出会った仲間とともに乗り越えていけると思っています。




普段からお世話になっている先輩方や同期、そしてこれから入ってくる後輩たち皆さんとの出会いも何かの縁だと思うのでその出会いを大切にし、感謝の気持ちを忘れず残りの大学生活を過ごせると良いと思います。



最後まで読んで頂きありがとうございました。











体育専門学群1年 齋藤綾介
作新学院高校




1年生ブログ~先輩、私の話聞いてもらってもいいですか~小林理瑛(体育1・県立相模原)

2024年11月29日 19時00分00秒 | 2024 1年生ブログ
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援を賜り、誠にありがとうございます。




広報部局の本間暁登です。




昨年と同様に、「1年生ブログ~先輩、私の話聞いてもらってもいいですか~」というテーマのもと、我々1年生31人がそれぞれブログを書きました。




筑波の未来を担う私たちの熱い意気込みや野望、目標をぜひご覧ください!




本日の1人目の担当は、小林理瑛(体育1・県立相模原)です。







筑波大学野球部のブログをお読みの皆さんこんにちは。

体育専門学群1年、小林理瑛です。

拙い文章ですが、最後までお付き合いください。





私は県立相模原高校(通称:県相)出身なのですが、よく先輩方から「県相は変人揃いだ」と言われることが多いので県相に居た頃の話を含め、大学野球に至るまでの話をしたいと思います。





まず私は神奈川県横浜市で生まれ育ちました。横浜生まれながらも、幼いころから両親による阪神タイガースファンとしての英才教育を受けていました。 そのため物心が付く前からグローブやバットを持ち、六甲おろしを歌っていました。




小学校に入学したタイミングで少年野球をはじめ、中学では硬式クラブチームに入りました。




そして私が中学2年のころ、筑波大学野球OBでもある石毛大地さんを擁して、県立相模原高校が神奈川3連覇中だった横浜高校に勝利するという番狂わせが起こりました。




これを受けて私は県相を受験することを決めました。

しかし中学のクラブチームでは週7日練習があったので、中学3年に上がると同時にクラブチームを休部して受験勉強に励み、その甲斐あって無事に県相に合格することができました。




県相の野球部では同学年が36人と、多くのチームメイトに恵まれました。
また、ありがたいことに1年の夏からベンチに入れてもらいました。


佐相眞澄監督からのしごきを十分に受けて、多くの試合経験を積みました。
高1、2年の夏は公立高校に敗れ、とても悔しい思いをしました。




そして最後の1年で特に印象に残っているのは冬の紅白戦です。



1~3月にかけて行った15試合、チームメイトとしのぎを削り、実戦感覚を養いました。私もこの紅白戦のなかでいろいろな力を養えたと思います。

同学年の投手による熾烈なエース争いに勝ち、迎えた最後の夏では背番号1をつけることができました。




しかし結果は4回戦で、慶應義塾に0-10で8回コールド負けを喫しました。 


甲子園には届きませんでしたが、県相野球部で積んだ経験は今でも宝物のように感じています。




引退後は、横浜に勝った代の石毛大地さん、中澤篤樹さん、1学年先輩の吉田桃二郎さんの影響で、佐藤航成とともに県相バッテリーで筑波大学に入学しました。




筑波大学に入学後は、またまたありがたいことに長らくAチームに所属させていただいています。
さらにはリーグ戦、関東大会のベンチにも入れさせていただきました。




しかしベンチには入れたものの、果たすことができなかったリーグ戦登板、さらには活躍することをこれからの目標にして、この冬頑張っていきたいと思います。


そして吉田さん、佐藤航成とともに試合で活躍し、特にお世話になった佐相監督に恩返しができるようにこれからも頑張ります。


長くなってしまいましたがここまでお読みいただきありがとうございました。











体育専門学群1年 小林理瑛
県立相模原高校