筑波大学硬式野球部のブログ

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ラストシーズンに懸ける想い⑯(生物資源4・南原二良/県立浦和)

2024年08月28日 20時00分01秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
 
 
第16回は南原二良(生物資源4・県立浦和)です!
 
 
是非ご覧ください!



皆さんこんにちは。

南原二良です。





普段はB、Cチームで野手コーチをしており、ライブ配信の実況をやったり応援で前に立ったりもしています。

リーグに出ていない割には顔が広いかなと思います。間違えました。顔がでかいだけでした。

本題に入る前に突然ですが、この「南原二良」という名前が来年からは祖父母と養子縁組を組むにあたり「石井二良」となります。

複雑な事情とかではないので「みなみはら」、「いしい」、「じろう」と好きな呼び方で呼んでください。

ラストブログはふざけようかなと思いましたが、古賀君の「そういうのは冷めます」という言葉を思い出したので、まじめに書きます。

僕は小さなころからほとんど変わっていません。野球以外は適当で野球だけ頑張っています。

小2の冬に兄の影響で野球を始めました。

小学生の頃はすべての試合がコールド負けでしたが楽しかった記憶しかありません。

中学では監督さんにいっぱいの愛を注いでいただき、野球と生きるのがうまくなりました。

高校では投げすぎで肩を壊したり、ラグビーで足首を怪我したり、数学進路室で野球談議をしたり、十数年ぶりに県大会に出場したりと忘れられない思い出がたくさんでいっぱいです。

高校までの野球を通して多くの友人に出会いました。

海馬並みに遊戯王カードを持つ安野君(実力はインセクター羽蛾)、「下ネタの父」清野君、シンガーソングライターのたけし君などなど紹介しきれません。

高校まで野球が楽しかったのは友達のおかげです。

大学まで野球をやりたいと思えました。
ありがとう。

大学時代の思い出は2年の春先から書きます。

やるしかないんだよ。

言わずと知れた松尾君の名言です。

僕と松尾は2年の春先、Cチームで活動していました。

その頃のCチームの2年は完全に腐っていました。

やる気はなく、飲み会を楽しみにし、みんなでもうやめようとさえ話していました。

その中で唯一頑張っていたのは松尾です。

チームの誰よりも練習をし、オフ明けのトライアウトで結果を残し、Aチームへ昇格していきました。

腐っていた僕には必死になって結果を残す松尾がかっこよく見えました。

必死になれることが羨ましかったです。

腐っていた自分を恥じました。

それからはそれなりに練習をしたと思います。

それまで肩が痛くて守備をしていませんでしたが、打席をもらうため守るようになりました。

バットはチームの誰よりも振ったと思います。

「やるしかないんだよ」だけで頑張りました。

そのおかげもあり、オープン戦、天王台、新人戦と結果を残せました。

松尾、本当にありがとう。


うまくいき始めた矢先にやってきたのがスタッフミーティングです。選手を続けるか、スタッフになるかを選ばなければなりませんでした。

選ぶと言っても誰かが選手を続けるということは他の誰かがスタッフになるということを意味し、単純なものではありません。

悩んだ挙句、スタッフを選びました。

後悔していた時期もありましたが、スタッフをやって良かったと思うことが大きく2つありました。

1つ目は、結果を気にせず野球と向き合えたことです。

同期や後輩の練習に付き合うことで沢山の気づきを得られました。

他人をうまくさせるのは難しく根気がいりますが、その分学びも多く、自分の野球観や技術も向上しました。(選手で今悩んでいる人は参考にしてください。)


2つ目はチームへの愛が生まれたことです。

正直に言うと、2年までは筑波に所属している感覚がなく、チームへの愛などまったくありませんでした。

しかし、4年でBCチームのヘッドコーチをやるようになり、責任感が生まれ、その責任感が筑波への愛へと変わっていきました。

本当にスタッフをやって良かったと思います。

この2つとも「やるしかないんだよ」と思ってからの出来事です

どうせスタッフになったんなら一人でも多くうまくする、代わりがいないなら俺がやる自分に言い聞かせ始めてからうまくいくようになりました。

結局選手時代もスタッフ時代も腹を決めてから何事もうまくいくようになりました。

理論派と思われがちですが、精神論派です。

恥ずかしく感じる人もいるかもしれませんが、パフォーマンスでも自分をだましてでも本気になってみてください。

この秋も全員が腹を決めて本気になれば優勝できると思っています。

ついてきてください。


「やるしかないんだよ」






同期へ

ほかのみんなと同様、この代でなければ最後までやり切れなかったと思います。

楽しい4年間でした。

特にいつも飯塚の家でパーティーをしたメンバーには助けられました。

これから卒業までいっぱい遊びつくしましょう。

友達がやるからやるみたいなメンバーが多く、一見弱そうですが、誰かが頑張りだしたらみんな頑張ります。

これまでリーダーシップがないとかいっぱい言われてきましたが、逆手にとって最強の代になって見せましょう。

妥協せず、走り切りましょう。

最後は笑って飯塚の家で桐の葉を歌いましょう。
 

菅原へ

浦和高校の後輩であることはまだ認めていません。

もっと練習をしなさい。

素質はあるので努力でどうにかしなさい。

女の子に国家権力をちらつかせる前にやることがあるはずです。

あと、教師になって浦高を甲子園に連れて行ってください。

甲子園で浦和高校校歌や第一応援歌「八重雲起こる」を歌えることを楽しみにしておきます。

ラグビーやろうぜ!!浦高魂。
 
 
家族に正面で感謝を伝えるのは恥ずかしいのでここで長めに書きます。

まずは兄。

結婚と就職おめでとう。

去年より生活が楽しそうでなによりです。

浦高や筑波に合格できたのは間違いなく兄のおかげです。

ありがとう。


次に姉。

3人の中で一番自由で生きるのがうまいです。

僕がオーバーヒートせずに生きてこられたのは姉のおかげです。

ありがとう。


次に、母方の祖父母。

幼稚園、小学校と祖父母の家から通っていました。いろいろ迷惑をかけていた記憶があります。

忘れてはいけないのは浪人時代です。半分家出していた僕の面倒を見てくれました。

二人のおかげで筑波大学に合格できたと言っても過言ではありません。本当にありがとうございました。

そんな二人の苗字をもらえることは大変光栄です。

これまで以上に精一杯生きていきたいと思います。

これからも健康に楽しく長生きしてください。

最後に両親、兄弟3人の中で一番手のかかる子供でした。

言うことは聞かず、目を離したら交通事故に遭い、当然かのように浪人する、二人が心配するようなことしかしていません。

謝ります。ごめんなさい。

また、二人が野球をやっている僕を心から応援し、楽しみにしていてくれたことは感じていました。

選手をやめる際に何も相談しなかったことを後悔しています。

選手をやめたことを伝えた時の声は忘れられません。人生一番の心残りです。

スタッフになった後も最後まで応援してくれありがとう。野球部を辞めずに最後までやり切れました。

これからも多くの迷惑をかけるとは思いますが、よろしくお願いします。

仕送りが増えると幸いです。


(榊原さん、本編で紹介できず申し訳ありません。これまでしていただいたたくさんの御恩は字数の関係上書ききれません。今度つくばにお越しになる際はご連絡ください。焼肉とマックとスタバを予約しておきます。ありがとうございました。)






生命環境学群生物資源学類 南原二良 埼玉県立浦和高等学校

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ラストシーズンに懸ける想い⑮(体育4・水口耕平/宮崎大宮)

2024年08月28日 20時00分00秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
 
 
第15回は水口耕平(体育4・宮崎大宮)です!
 
 
是非ご覧ください!

長いようであっという間だった大学野球4年間が終わろうとしており、まだどこか実感のないまま書き始めたのですが、大学時代を振り返っていきたいと思います。


私は2年の浪人を経て筑波大学に入学しました。

大学4年間は「2浪」という単語がどこに行ってもついてきたような気がします。

入学当時、まだ2浪ということが硬式野球部内に広まりきっていなかった時に3年生だった洲崎さんが同級生ということも知らずに年下の後輩だと思い接してきて「お前なんかかわいいな」って言われた時は気まずさで2浪って言い出しづらかったのを思い出します。

最初は2浪ということがトラブルの元になったり、周りに気を遣わせてしまうのではないか、友達はできないんじゃないかなどの不安がありました。

しかし仲間に恵まれて今では全く2浪ということを忘れるくらい気兼ねなくコミュニケーションを取ることができています。

いつもありがとう。

大学生活を振り返り特に財産と言える2つの経験があります。

一つ目がリーグ戦の出場です。

2年生の時の春リーグではAチームがコロナのクラスターで試合に出場できない時期があり、Bチームが代わりに出場をしました。

私はBチームに所属しておりベンチ入りの連絡が来た時、代打で出られればいいやくらいの感覚でおり、次の日ホワイトボードを見たら4番DHに自分の名前があり、全く心の準備をしていなかったので冷や汗と吐き気が止まらなくなったを覚えています。

試合は負けてしまいましたが、その当時のリーグ戦でMVPだった岩本からもヒットを打ち4打数2安打で打率5割の結果を残すことができました。

その後試合に出る機会はなかったのかって?

実は東海大戦の最終打席にライト前を打って、打球が良すぎたせいかライドゴロになりかけて、慌てて走ったところ全治3ヶ月の肉離れをしてしまい2度とリーグに絡むことはできませんでした笑。

リーグ戦を実際に経験してとても魅力的な場所だと肌で感じることができ、リーグを目指すことの価値を改めて感じることができたし、もう一度あの場所で野球をしたいと思うことができたいい経験でした。

球歴.comのリーグ戦打率5割というページはなんかおもしろいので少しお気に入りです。


二つ目はスタッフミーティングです。

私は最初選手を希望していました。

しかし話し合いを続ける中で、自分がよりチームのために戦力になれる場所はトレーナーではないのかということを考え選手を辞める決断をしました。

スタッフミーティング期間中は全然記憶がないくらいきつい期間でした。

ジムでトレーニングしてた時に絶対俺は選手しかやらない、選手じゃなければ辞めると豪語していた南原がスタッフミーティングで涙ながらに野手コーチになると言ったときは、本当にこころにグッとくるものがあったし自分はあの言葉があったから今のチームがあるんじゃないかと思うくらい大きなものであったと思っています。

ありがとう。

こんなに人とぶつかることもこの先ないだろと思うくらい辛かったし、もう2度とやりたくないスタッフミーティングがあったからこそチームのために頑張ろうという気持ち、この学年のためならやってやるという気持ちが芽生えたと思います。

またトレーナーとして活動するということをきっかけに将来プロのトレーナーになりたいという夢を抱いたので自分の人生には大きな財産となったと思います。

大学4年間は本当に濃いものでありました。

大学野球の思い出なんて語ろうと思えば、死ぬほどたくさんあります。

夜中1人で置きティーをしていたら外国人の2人組のお姉さんがお酒を片手に野球場のベンチに腰掛けてジロジロ見てきて、自分が打つたびに成功したらフゥーみたいな声をあげられて、失敗したらブーイングされたみたいな変な体験から、高校生にトスを投げたら目にボールを当てられて大怪我したり、楽しいものから辛いものまで本当に沢山の経験をさせていただきました。

どの経験も自分にとっては大切な財産です。

長かった大学野球もあと少しで終わってしまいます。正直少し寂しいです。


最後にお世話になった人たちにお礼を申し上げたいと思います。

まず初めに卒業された先輩方、不甲斐ない自分でしたが厳しくも温かいご指導をどうもありがとうございました。

特に自分が選手を続けるために結果を求めて焦っていた時期にたくさんバッピを投げていただいた古市さんやまひろさん、結果が出ないのに少しでもチャンスを与えようとしてくださった傳谷さんや洲崎さん、トレーニングの相談をたくさん聞いてくださった寺原さんには感謝をしています。

またトレーナーになってから面倒を見てくださったおのちゃん、篤樹さん、山﨑さんにもたくさんお世話になりました。

ありがとうございました。


次に後輩、かなり年上の自分だけど、気軽に話しかけてくれてありがとう。

カラオケ行きましょって誘ってくれる岡城や松永、いつも下世話な話で盛り上がってる田代、飲み行きましょって誘ってくれるけど一回も行けてない遠嶋(絶対に今度行こう)他にも沢山の気のいい、かわいい後輩たちに恵まれて本当に幸せです。

いつもありがとう。


次に同期の4年生、遅刻をしてしまったり粗相をしてしまったりなど、迷惑をかけることが多かったと思います。

大変申し訳ありません。

仲間だからと容赦はせずにいうときは厳しく言い合えるそんな筑波大の同期が大好きです。

自分がメンタルが落ち込みそうな時も相談に乗ってくれたり、隠し事はせずになんでも話せる信頼できる仲間に巡り会えて本当に良かったと思います。

いつもありがとう。


次に指導者の皆様、いつも私たちのご指導ご鞭撻の程ありがとうございます。

未熟者の私でしたが、皆様のおかげで4年間成長することができたと思っています。

本当にありがとうございました。


最後に両親、2浪までして大学に入れてくれて、野球を続けさせてくれて本当にありがとう。

大学でプレーしている姿をできれば見せてあげたかったというのが、私の唯一の心残りです。

大学で親元を離れてから改めて気付かされたのは自分は1人で成長してきたような気がしてたけど、そうではなかったのだということを強く感じされられました。

私は土壇場でやらかしたりすることが多かったり、運が悪いと思うことが自分では多いですが、人に恵まれているという点に関しては運がいいと思っています。

大学でも沢山の人に支えられて4年間続けることができました。

それも全て周りの人に助けてもらえる人間になるために、人としての道を示し続けてくれた両親の教えがあったからだと思っています。

本当にありがとうございました。

これからは大人として自立し、夢を叶え恩返しができるように頑張りたいと思います。

とりあえずあと2ヶ月と少し最後まで応援とご支援をいただけると幸いです。


大学野球を振り返ると総じて楽しかったというのが正直な感想です。

あとは最後のリーグ戦優勝で終えることが自分のやり残したことのような気がしています。

最後にこっからラストスパート!

いくらでもジャグ作るし、ノック打つのでどんどん誘ってください!

長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました!


水口耕平 体育専門学群 宮崎大宮高等学校

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ラストシーズンに懸ける想い⑭(体育4・松尾悠生/西南学院)

2024年08月27日 20時01分00秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
 
 
第13回は松尾悠生(体育4・西南学院)です。
 
 
是非ご覧ください!


こんにちは。妥協という言葉が大嫌いな松尾悠生です。
※この文章も妥協してません。先に言っておきます、ちょい長いです。





自分らしく、一生懸命、書きました。ぜひご覧ください。


高3の夏、この日に合格を勝ち取るんだと意気込んで参加した高校生練習会。

アップでヘッドバックをしてみたり一人だけ声を出して試合の動きでキャッチボールをしてみたり川村先生へ猛アピールをしましたが、その努力も空しく現役では筑波大学不合格となってしまいました。


ステップアンドステップ(NIZI U)の歌詞を聞いて風呂の中で泣いていたくらいに追い込まれていた浪人生活を乗り越えやっとの思いで筑波大学に入学します。




新人練。
初日、傳谷さんに「今日キャプテンをやりたいやつはいるか」と聞かれ自分がコンマ何秒手を挙げるか迷ったその一瞬の隙に「はい!」と手を挙げた笹原に感服し師匠と言っていたこと、自分の野球ノートを小田切と大聖に勝手に見られ小馬鹿にされたこと、平砂風呂でみんなと語り合ったことも今思うと懐かしい思い出です。


大学1年のころは基本CかBチームにいました。

早くリーグメンバーに選ばれたいと思い、毎日多目でノックを受けていました。

「松尾はグラウンドに住んでるのか」と誰かに聞かれたこともあります。

特に天王台後に2時間以上ノックを打っていただいた洲崎さん野条さん尾上さん、大変だったと思いますがありがとうございました。

僕の原点はこの多目的ノックだと思っています。

ちょうどアパートを探していた頃、C野手の練習後に監督に呼ばれ「松尾、寮はどうだ」と言われた時は僕の名前を覚えててくれたんだとそっちがうれしかった記憶があります。

まぁ、ここから怒涛の寮生活が始まるんですけどね、、、。寮に入って良かった。




大学2年生では、両肩を怪我し右肩を附属病院、左肩をいちはら病院で肩ごとに病院を変えて診てもらっていたことも良い思い出です。

415も経験しました。

僕的にはその晩隼瀬に風呂場でポール(洗剤)に水をぶっかけられて、なんでこいつにいちいち切れてしまったんだという後悔から脱衣所で男泣きしたことの方が印象的です。今では仲良いです。


なんといっても運命のトライアウトは僕の野球人生を変えてくれました。

やってきたことがつながった瞬間でした。

ちなみに通算トライアウト打率は5割を超えてます。

初リーグではベンチの仕事をやらな過ぎて真也が注意してくれました。ありがとう。

あの頃は、視野が狭くなってしまっていました。今でもたまにそうなることがあるので教えてくれると助かります。


大学3年生では、たくさん試合に出させていただきました。

秋の城西戦のタイブレークでルーティーン(屈伸)が長すぎてそれが終わるころにはボールがミットに納まっていたことは反省です。

寮生活も慣れてきて友達も増えました。

塩の部屋に集まって意味もないことを久米とか蟻川とかと喋り明かしたあの時間は宝物です。(結局、とがりメタモンが人類で最強なんだっけ?)



大学4年生では、最上級生となり可愛い後輩が増えました。

試合前、僕が精神統一している最中に茶々を入れてくるS横投げ投手。

たぶん僕を同期だと勘違いしているK俊足外野手。

ことあるごとに反省会をしましょうとツオ飯に誘ってくれるいつもの二人。

僕の面白い話を最近笑ってくれるようになったM皆のお手本内野手。

トレーナーメニューで変な気持ちにさせてくれるO超人外野手。

頼りになるYネオス。

あげだすときりがありませんが、みんな可愛い後輩です。

縦割り班長として縦のつながりを作れるようなイベントをもっと開催したかったですが、見る感じ1から4年生の距離感も近くつなぐ飯の効果があったのかなと思っています。

縦割り班長いるいらない論争も巻き起こっていますが結論いりますので来年も誰かが引き継いでくれることを願っています。




ここまで楽しかった思い出などを書きましたが、ひとつ一番辛かった2春の話をします。

僕は、1度本気で野球部を辞めようと考えたことがあります。

これまで野球をやってきてそう思ったのはこれが最初で最後です。


理由はモチベーションがゼロになったことで、それまでの過程は話す必要はないと思うので割愛しますが、親にも辞めると言っていました。

そんな中で辞めずに野球部に残った理由は、2つあります。

1つは当時C野手でともに活動していた大聖と筑波山温泉に行って愚痴を聞いてもらったこと、2つ目はその年の春リーグ、コロナで出られなかったA野手の代わりに出場したB野手の同期の活躍です。

一つ目に関しては、自分の性格上気持ちを溜め込みがちだったのですが溜めていた思いをすべて大聖に打ち明けました。

これがその当時の自分にとってどれだけ気持ちが楽になったか。帰りの車内で聞いた「これだけで十分なのに(BASI)」という曲も当時の自分に刺さりまくってずっと聞いていました。

本当にきつくなったときは聞いてみてください。

大聖には感謝をしています。「松尾まだ寮でいじめられてるの」と聞いてきますが何度も言うけど一度もいじめられてないよ。


二つ目に関しては、これまで一緒のカテゴリーで練習していた同期があの憧れのリーグ戦に出場したことです。

東海大相手に接戦を繰り広げている中継を見て僕の心の奥底に眠っていた悔しい、うらやましい、頑張れという思いがこみ上げてきました。

特に小田切や竜波の努力を直接見ていたからこそ、それに刺激を受けてもう一度僕もリーグ目指して頑張ろうと思うことができました。

二人には様々な「刺激」を与えられました。


この時期は、本当につらかったですがこの経験がその後の運命のトライアウトにもつながりました。また、同期の存在の大切さも感じることができました。



ラストシーズンに向けて

僕のやるべきことは、自分の与えられた役割を死ぬ気でやり抜くということです。

今年は、主力で出場する4年生が少なく後輩に対して多くの負担をかけてしまいます。

4年生がカバーできる範囲が本当に狭いです。

僕の役割なんてその中でも小さなものだと自分でも理解しています。

ベンチワークや声出し、練習中の盛り上げなど誰でもやれることは精一杯やります。それも僕の大切な役割の一つなので。

ベンチでの時間が多いとは思いますが最後まで声を出して後ろからにはなるけど後輩の背中を支えられるよう役割を最後までやり抜きます。



同期に向けて

航大も言ってたけど最後は絶対気持ち。

勝ちたいという気持ちがおのずと自分のやるべきことに導いてくれるから、それを前面に出す。

やるという強い気持ち。モチベーションとか関係ない。

やるかやらないか。みんなでやろう。








最後に感謝を伝えたい人が結構いるので伝えさせてください

監督
下手くそな僕を使い続けてくださりありがとうございました。打席に向かう前に「松尾に任せた」と言ってくださるので僕もそれに応えたいという気持ちでプレーしています。必ずやり切ってみせます。


牧野さん
牧野さんがいなければチームは崩壊していたんじゃないかと思うほど牧野さんには大きく支えていただきました。牧野さんのチームのための行動は4年生になって気づかされる部分も大きかったです。ありがとうございます。腰痛には気をつけてノックを打ってください。


東條さん
東條さんのおかげで野球がとても楽しくなりした。東條さんの存在が野球をもっとうまくなりたいと思える原動力になりました。ありがとうございました。


中原先生
筑波大学を目指すきっかけを与えていただきありがとうございました。また積もる話は帰省した時に話します。いいネタは入ってます。




先輩方
僕の野球人生に対して真剣に向き合っていただき、スタッフの方々にはたくさん自主練にも付き合っていただき、野球以外の話も聞いていただいた方もいます。
西浦さん、生島さんには特に仲良くしてくださって、一緒に野球できて本当に楽しかったです。
みなさん本当にありがとうございました。




永戸
永戸の結果へのこだわりは尊敬してる。誰よりも練習にこだわりチームの結果にこだわり、そういった態度に絶対に勝たなければと引き寄せられてます。自分の結果も残さなければならないというプレッシャーもあったと思うけど一番きつい立場を全うしてくれてありがとう。また映画にでも行きましょう。






スタッフの方々
柏木はじめスタッフの皆さん日頃から選手を支えてくれてありがとうございます。僕のバント練習や守備練習にも嫌な顔一つせず付き合ってくれてありがとう。良い練習ができて自分の技術が向上しているのも手伝ってくれるスタッフのおかげです。4年生になって裏の動きが見え始めてどれだけスタッフが裏で動いてくれているのかを知りました。時間を割いてくれてありがとう。

SSDには僕のような選手に対してもリーグの対策をしてくれてありがとうございます。リーグの対策をしたことがある人は分かると思いますが、結果を出すうえでSSDの情報は欠かせません。僕なんか1つの打席のために何度もSSDに助けを求めました。頼りにしています。


修ママ、パパ、呼子ばあちゃん、じいちゃん
遠くからいつも応援をしてくれてありがとう。お小遣いはいつも野球用品にあててます。あまりリーグの中継に映ることはないけど輝く姿を少しでも見せられるよう頑張るから見といてね!




家族
1度の人生、松尾家に生まれて良かったと松尾悠生になれて良かったと心の底から思えています。


父に対して
2年のシーズン後、選手を辞めるか迷った時は筑波まで来てくれて話を聞いてくれてありがとう。二人で話した時間がなければ違った選択もあったかもしれません。態度にはあまり出さないけど自分に向き合ってくれる姿で愛を感じてます。ありがとう。


母に対して
たまに電話して些細な話でも後から長文のラインでアドバイスしてくれてありがとう。「了解」としか返してないけど全部ちゃんと読んで受け止めてます。底なしのポジティブさも元気をもらってます。あと、ちょっと天然なのもなかなかおもろいです。浪人中、神社に通って色んな神様に挨拶してくれてたこととかたまにいじるけど感謝してます。ありがとう。


けいすけ
大好きです。金に困ったら頼りなさい。


みさき
国立を受けなさい。




もう思い残すことはありません。後悔のないようにやり切ります。


野球最高!


最後もやるしかないんだよ







体育専門学群 松尾悠生
西南学院高等学校

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ラストシーズンに懸ける想い⑬(体育4・藤代稜之/長田)

2024年08月27日 20時00分00秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
 
 
第13回は藤代稜之(体育4・長田)です。
 
 
是非ご覧ください!



こんにちは。4年の藤代稜之です。






日頃より、筑波大学硬式野球部への多大なるご支援とご声援をいただき、誠にありがとうございます。

これから始まる秋季リーグ戦、そして今後の野球部へのご支援とご声援のほどよろしくお願いいたします。


あと数ヶ月で16年間続けてきた野球に終止符を打つということで、今までの振り返りとこれから始まるラストシーズンへの自分なりの思いを綴らせていただきます。

私の次が松尾ということもあり、部の皆はそちらの方が気になるかもしれませんが、紆余曲折の私の野球人生とラストシーズンへかける全ての思いをここにぶつけますので、少し長くなりますが、読んでください。


小学校1年生の冬に私の野球人生が始まりました。

当時、高身長高重量だった私に友人が「お前、野球やったらキャッチャーしか出来ひんな!」と誘いなのか蔑んだだけなのかわからない言葉で野球というものを知ったことがきっかけでした(これを言ってきた人とは今でも仲良しです)。

自慢ではありませんが、小学校通算打率は脅威の7割を超え、あの西武ライオンズ栗山巧選手に褒められたスイングで、所属していたチームを創部初の全市3位へと導き、地元ではそこそこ有名な選手になりました。

コーチ陣からジュニア選抜受けてみろと言われ、外で野球をするのはどうかなどの誘いを受けますが、これだけ成績を残した私の心中は「お金かかるしな〜なんで野球ってこんなにお金かかるんやろ。お金出してくれたらいくねんけどな〜」なんか大人ぶってる痛いやつですね。

一見親からしたら、なんてできた息子と思うかもしれませんが、なんやかんや好きで始めた野球なのに、そこで本気で野球で高みを目指したい!と思って行動していたら今どうなっていたんだろうと今でも考えます。

そして、中学校の軟式野球部に入部します。ここが私の野球人生の転機です。

私が最も尊敬している先生に出逢います。そして、13歳の未熟なガキに本気でプロを目指す気概を持たせてくれました。

中学の同期がこれを読んでいるかは分かりませんが、私藤代稜之は、3年間本気でプロを目指していたんです。

おそらく誰も知らないと思います。

全く無名の中学校の軟式野球部のやつがプロ野球選手を目指しているなんて、恥ずかしくて言えませんでした。

じゃあ野球で進路を選べよ、勉強なんかしてないでもっと野球しろよって思いますよね。


はい、ちょっと後悔しています。

あの時、「俺は野球で飯を食っていく!俺には野球しかないんや!」と言っていたらどうなっていたんだろうと今でも考えます。

当時の私は、野球と勉強とを何度も何度も天秤にかけましたが、絶対にどちらかに傾くことはなく、釣り合っている状態でした。

結局、野球も勉強も頑張りたいという思いから、野球での進学は諦め、県内トップクラス学力を誇る長田高校に進学することになります。
 

正直にいうと、高校はあまり面白くなかったです。

というか一瞬すぎて何も覚えていません。

周りは入学した瞬間から勉強に人生を捧げ、四六時中参考書と向き合っているような人で心を折られ、定期テストで東大や京大の問題ばかりを出してくる数学の先生に心をおられ、時間と労力をかけて培った学力であった私の頭では全く歯が立ちませんでした。

勉強も本気で頑張りたいと思って入学を試みましたが、頑張るよりも耐える方が近かったです。


さて、野球ですが、不完全燃焼で終わりました。

全く勝てない代であったのは、自分が空回りしてしまったからではないかと思っています。






ここまで、自分が思ったように個人成績を残すことができ、下級生からレギュラーとして出場することが多く、順風満帆な野球人生を送っていました。大学進学先を決める際は、野球をしたいという想いから選択し、当時の高校の監督と部長がOBであったことから、筑波大学を目指しました。

しかし、最後の試合で3打席連続三振、コールド負けという最悪の終わり方をした反動で全く勉強に手がつかず、気づいた時には周りとの差が広がり、1年目はあっけなく不合格。

教師志望でもあったので、後期受験で教育大学を受け、合格をしたのですが、筑波に行きたいという想いが消えていませんでした。

親は浪人を反対しており、ここまでたくさんの支えをしてもらったので、教育大学の方へ進学すると気持ちが傾いているところに一言

「迷っているのであればもう1度受けるべき。筑波は本当にいいところだぞ」

高校の監督でした。

親に頭を下げ、もう1度筑波大学を受験し、2年目にして合格。憧れの筑波大学へ進学することになります。
 
話が長すぎますね。ごめんなさい。

でも、話をまとめて伝えたりするのが少し苦手なので許してください。もう少しお付き合いを、、、
 

大学4年間を振り返ると、来てよかった、これに尽きます。

全国津々浦々から野球がしたいと集まり、リーグ優勝・日本一を目指す。環境や時間が限られている中、自分たちで工夫して練習する。

そして結果を残す。

筑波の人にしかできないことだなとつくづく思っていました。と同時に自分の野球の実力の限界を痛感しました。

リーグ戦に出場はできたものの、大した結果も残すことができず、、。

キャッチャーで入部しましたが、今では最もホームベースから遠い外野手で奮闘中。

思い描いたものとは全く異なります。

高校まで培ってきた野球のプライドというものを全て捨てて今まで戦ってきました。

進学校からやってきた人たちが少しでも活躍するための方向性を示せたらなと思い、後輩などには声をかけてきたつもりです。

また、人の想いの重さを感じました。

自分は人の想いを軽んじていました。

スタッフになってくれた人、自分に期待をしてくれた人に対して謝りたいと共に、自分のこれからをみてください。皆のためにも絶対に勝ちます。


 
つらつらと私の野球人生を綴ってきましたが、たらればがほんとに多い人生でした。

あの時、もっと高みを目指して野球をすればよかった小学生。

本気でプロを目指し、進路等も全て野球を中心にすれば今はどうなっていたかと少し後悔している中学生。

引退が決まった瞬間から勉強に切り替えていたら現役で受かったかもしれなかった高校生。

しかし、その時その時に思ったことが正解だと思って選択をしてきたので、今の自分がいることをすごく幸せに思います。

後悔していないと言ったら嘘になりますが、過去に自信を持ってこれからも過ごそうと思っています。

生きていて後悔しないなんて無理です。

しかし、過ぎ去った過去を否定しなくていいのではないでしょうか。

自分が良いと思ってやってきたことに自信を持っていいのではないでしょうか。

これが私の野球人生を通して伝えたかったことです。内容ぐちゃぐちゃですみません。
 

こんなにも紆余曲折な野球人生を折れる事なく最後までやり抜くことができたのは、紛れもなく両親、後輩、同期のおかげです。
 

両親へ。

普段から感謝を伝えているつもりではありますが、この場でも伝えさせてください。

野球しかないと言ったり、勉強も頑張りたいと言ったり、浪人反対を押し切ったり、欲しいものがたくさんあったり、、、自由な息子でごめんなさい。

何不自由なく過ごさせてくれて本当にありがとう。

家に帰れば、母の大好きなご飯が食べれて、あまりしゃべらないけど父とお酒を飲めて、毎度の帰省が最高でした。

少し遠い地ではありますが、画面越しでもいいので、自分の最後の野球姿を見てください。今まで本当にありがとう。
 

同期へ。

ラストシーズンに向けて、自分が人生で1番大切にしている言葉を送ります。

「綺麗な花になるよりも、その花を咲かせる土になれ」

試合に出ている人が少なく、ラストシーズンは裏側で支える人が多いと思います。

最後の最後までチームが勝てるように支えよう。

自分たちの代で必死にチームのために戦ってくれるメンバーを花にしよう。

4年間苦楽を共にしてきた自分たちなら栄養満点の土になれると思います。


そして何よりも、リーグ優勝して、涼世、爽吾を胴上げしよう。


皆で笑って神宮で引退しよう。


後輩へ。

君たちが大好きです。

鬱陶しいほど関わろうとしてたと思います。

これも君たちに力を貸して欲しいから。活躍して欲しいから。不甲斐ない4年生でごめん。

でも、4年生は本当にリーグ優勝したいと思っています。優勝のために力を貸してください。一緒にリーグ優勝の景色を見よう。

堀江。絶対にプロ行けよ。太一。これからもよろしく。2人にはたくさん貢ぎました。


本当に長くなって申し訳ございません。ここまで読んでくださってありがとうございました。

自分はリーグ優勝のために全てを賭けて戦います。その姿を見せます。皆で掴み取ろう、リーグ優勝。

よし、練習練習っと。






藤代稜之 体育専門学群 兵庫県立長田高校


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ラストシーズンに懸ける想い⑫(物理4・濱田朝晃/山形東、地球4・廣瀬健大/小山台)

2024年08月26日 20時00分00秒 | 2024ラストシーズンに懸ける想い
平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援ありがとうございます。
 
 
第12回は濱田朝晃(物理4・山形東)と廣瀬健大(地球4・小山台)です。
 
 
是非ご覧ください!




こんにちは。

4年投手コーチの濱田朝晃です。






平素より筑波大学硬式野球部へのご支援、ご声援をいただきありがとうございます。
 

「丸くなるな、星になれ。」


今年の正月に箱根駅伝か何かを見ていて、うわ〜、なんかかっこいい〜。と思っていたら、練習始めの波戸コーチの挨拶でこの言葉が出てきて、うわ〜〜〜!ってなりました。

僕は結構この言葉が好きです。個性を出せ、他の誰でもない自分になれ、というようなメッセージが感じられて、背中を押してくれる気がします。


川村監督がつい最近のミーティングで、
「筑波の野球部にはストーリーがある。」
とおっしゃっていましたが、実は夜空に輝いている一つひとつの星たちにもそれぞれのストーリーがあります。

星は、生まれたときの大きさや質量、周りの環境によって、その後の生き方、死に方に大きな違いが生まれます。

生まれたときの質量が小さく、その後も小さいまま最期を迎える星、一度は大きくなるものの、最期は収縮してしまう星、どんどん成長し、最期は華々しく爆発を起こす星など、星たちにも様々なストーリーがあります。


野球部に当てはめてみると、4年間ずっと苦しい思いをしながらも、努力を続けてきた人、スタッフになると決意をし、裏方として最期を迎える人、リーグで活躍し華々しく最期を迎える人など、部員一人ひとりにそれぞれのストーリーがあると思います。

最期は華々しく活躍して終わるのが、一番気持ちがいいのかもしれませんが、全員がそうはならないということはスポーツの定めです。

ただ、星は例外なく燃え尽きて最期を迎えます。

僕を含め、全員であがいて、もがいて、燃え尽きて最期を迎えたいです。

ただ、野球部としては、最期は華々しく大きな爆発を起こしたいです。
 

急に星の話をして「何ゆってんだこいつ」と思っている方もいると思いますが、僕は現在、物理学類の宇宙観測研究室に所属しているので、星の話をしたくなってしまいました、すみません。

野球部では珍しい物理学類に所属していますが、筑波大学に進学しようと考えた理由は、JAXAが近くにあって宇宙の勉強ができそう!という単純なもので、高校1年生の頃から筑波大学を志望していました。

そして、大学でも野球を続けようと考えたのは、やはりコロナによって高校3年時の夏の大会が曖昧に終わり、不完全燃焼感が残ったからだと思います。

僕はこれまで、県大会に出られれば嬉しい、県大会で勝てれば嬉しいと言うようなレベルで野球をしたことしかなかったので、大学野球という高いレベルで野球をやってみたいと思い、野球部に入部し今に至ります。

そんなこんなで大学野球が始まりますが、僕の大学野球史上一番調子が良かったのは新人練の頃の1,2回目のブルペンでした。

今でもこの頃の球をもう一度投げたいと思っています。

その後、新人練の調子が良かったことで、初めての6月練でAチームに呼んでもらえました。

しかし、すぐに高校時代の腰痛と股関節痛が再発し、それ以降思うように投げられなくなり、B,Cチームに降格し、それ以降Aチームに関係することも、サマーやオータムのメンバーにも選ばれることができませんでした。


なんだかんだで腰の痛みと同居しながら投げ続け、2年の天王台を迎えました。






天王台中、スタッフになるか選手を続けるかをずっと悩んでいた記憶があります。

この天王台でラスト登板だった活樹が140 km/hを記録したことは鮮明に覚えているのに、その頃僕がどんなピッチングをしていたのかを何も覚えていません。

1個上の投手コーチのあべともさんからどんどん背中が小さくなっていた、と言われるくらい自信をなくし、負のオーラを出していたのだと思います。

そんな中でも、リーグ戦でベンチに入れなくても必死に仲間を応援する先輩方の姿を見て感動し、筑波大学野球部に愛着を感じていました。

何よりもこの野球部が好きだなあと思い、天王台終わりのタイミングで一足先にスタッフになりました。


誰にも相談せずにスタッフになることを決めたので、一井から「ちょっとくらい相談してくれればよかったのに。」と言われ、少し後悔がありますが、とても良い友達を持ったなあと感謝しています。


3年から4年に上がる冬練では、なかなか投手陣が結果を出せないことを受け、これまでの練習とはなにか変えないといけないという考えに至り、本当に鬼のように、見たことないくらい朝から走らせ、夕方も走らせ、ボールをほとんど触らない練習をしました。

僕からも人の心がないような声をかけられ、本当にきつい、つらい、苦しい練習だったと思います。

選手のみんなはよく耐えたと思うし、本当に尊敬しています。

僕は今でも、選手を続けていたらどうなっていただろうと、頭をよぎることはありますが、あんな練習絶対に耐えられなかったし、きつい中でも努力を続けることはできなかったなと思い、この物思いは瞬殺されます。

そのくらい選手のみんなは、努力を続けてきたと思うし、特に4年生はずっと苦しみ続けてきたと思うので、それを信じ、自信を持ってプレーしてください。


自分がスタッフになったのだと最も実感したのは、昨年の関甲信です。

僕が投手コーチとしてベンチに入り、送り出した投手がマウンドで苦しんでいる中、自分がマウンドに行ってこのピンチを切り抜けてやりたいという思いに襲われました。

自分は応援することしかできないのか、という無力感を強く記憶しています。

それ以降、「やるのは選手」ということを心に留めて練習や試合に取り組んできたつもりです。

マウンドで苦しくなっても、その状況を変えられるのは自分一人しかいません。

応援の声はあっても、直接手を加える事ができる人はいません。

そのピンチを切り抜けるために、これまでの苦しい練習に取り組んできたはずです。


ぜひ、自分を信じてすべてをぶつけてきてください。


選手から、「スタッフに回ってくれた人のためにも頑張ろう。」と言ってくれるのをよく聞きますが、それはスタッフのエゴだと思っています。

スタッフになった人は、筑波大野球部に貢献したくて、自分がやりたくてやっているのだと思います。

なので、そこまで背負わずに、自分がやりたいように、のびのびプレーしてほしいです。


ただ、これまで苦しい練習をともにしてきた、侍ウィークで一緒に走り込んだ、出たくてもリーグ戦に出られない選手たちの代表として戦っているということを忘れずに戦ってほしいです。

これまで支え合ってきた、切磋琢磨してきた仲間の思いをダイヤモンドで爆発させてきてください。
 

長くなってしまいましたが、僕が言いたいのは、
自信を持ってのびのびやってほしい。
 

最後に4年投手陣へ

隼瀬、このチームになってから多くの負担をかけてしまいました。ごめん。だからこそ、リーグではのびのびやってほしい。魂の奪三振ショーをみせてくれ。

長曽我部、どんな状況でも抑えてくれると信じてる。かっこいいガッツポーズが出ることを期待しています。

一井、チームをピッチングで引っ張ってください、背中で見せろ。まじで頼むぞ。

久米、浩太郎、最後まで熱くいこーぜ。一緒にいっぱい投げまくろーぜ。

活樹、重久、かんゆー、涼太、坂田、いつも刺激をもらっています。今ももっとやらなければと思っています。みんなのおかげで、スタッフになってからもとても楽しかったです。ありがとう。
 
最期はみんなで星になろう、そして、燃え尽きよう。
 
P.S. 家族へ、書く場面がなくこうなってしまいました。13年続いた野球生活も一旦区切りを迎えます。いつも応援してくれてありがとう。良いところを見せられなくてごめん。みんなは社会に出るけれども、僕はあと2年(+α?)はお世話になります。これからもよろしく!
 





理工学群物理学類4年 濱田朝晃
山形県立山形東高等学校





こんにちは。
4年マネージャーの廣瀬健大です。






長いようであっという間な大学野球。

その間、選手とは違った立場も経験したことで色々な人に出会い、様々な経験をすることができました。

4年間の中でも特に思い出深いものを振り返りながら、ラストブログとしたいと思います。


そもそも僕は、大学で野球を続けるつもりはありませんでした。

合格通知書が家に届いて、大学では何をしようか考えた時に、高校最後は満足に野球が出来なかったことが一番の心残りだと思い、もう少しだけ野球をやってみようという気持ちから入部を決めました。


入部当初、小山台出身と言うと先輩方から少し驚かれたことを覚えています。

当時、2個上の先輩に体専で筑波に入学していた人が2人(東東京決勝に行った時のエースと4番)いましたが、野球部をすぐに辞めていました。

どうやらそのせいで小山台からは入部ができないみたいな噂があったようです。

川村先生と面談した時も「小山台の子はすぐ辞めていっちゃうんだよなぁ」なんて事を言っていました。

確かに、直近で入部した4人のうち3人が辞めてますね(笑)。


去年北海道に旅立った、後輩のI君は元気にしているのでしょうか。

僕の4年間での頑張りが、次に来る小山台生にとって少しでもプラスになればいいなと思います。


結局、2年の秋までは選手として活動していましたがあまりいい思い出はありません。

入部当初から怪我続きで、試合に出た覚えはほとんどありません。

何人かのブログで既に挙げられている415事件は僕も被害者のうちの1人です。

平砂4号棟で苦楽を共にした2人は2年秋に部を去っていきました。1人は気付いたらSNSでバズってました。

楽しそうで良かったです。


そんな選手生活を過ごしたことで、スタッフになる事はすんなり受け入れられました。

というか元々、大学のマネージャーに憧れていたので、スタッフミーティングという文化は僕にとっては都合が良いものでした。

こんな事言うとまた怒られるかもしれません。

廣瀬とスタッフミーティングは混ぜるなキケンなので。


坂田と塩にはこの場を借りて再び謝罪しておきたいと思います。

ブログ〆切の朝で眠いから、何言ってるか分からなかったらごめんなさい。

そして2年の冬からマネージャー人生が始まります。

ここからの2年間は一転、マジで楽しかったです。

昨日の大聖も書いていたように、僕らの代3人は今までの代とは毛色が違いました。

怒られて凹むとかはありません。

基本的に3人ともナメてます。

でも意外と仕事はできます。


後輩使いは荒いけど、胸に熱いものを秘めている主務。僕が自由に色んなとこに行けたのも、チームには彼が着いていたからです。

絶対に定時出勤(遅刻含む)・定時退社する会計担当。彼のおかげでマネージャーは少しホワイトな環境になりました。

殺伐とした空気だった去年のマネ室に笑いをもたらしてくれたのは、いつもこの2人でした。
2年間ありがとう。






個人的な活動内容としては、連盟委員としての仕事がほとんどです。

リーグ戦の時は朝から晩まで会場に閉じ込められていますが、楽しいので大して苦じゃありません。

宿泊があるので、夜はよく飲みに行きます。

かんゆうと新しい店を開拓するのが大半ですが、稀にゲストが来ます。

立場上、誰かは言わないでおきますが。

この秋でもう最後になるので、ゲストを呼ぶ回は増やしたいと思ってます。

対戦おねしゃす。


連マネでの思い出でいうと、直属の先輩である轡水さんを挙げない訳にはいきません。

おもろい人です。

リーグ戦のときは金曜と日曜の夜に、あの水色で小さな轡水車に乗って、会場とつくばを行き来しました。

何度、首都高で死にかけたことでしょうか。

おかげで助手席力はかなり上がったし、今なら苦手だったジェットコースターも平然と乗れる気がします。

あと、たくさん飯を奢ってもらいました。

秋は平塚の時に来てくれるみたいなので会えるのが楽しみです。


そんなこんなで4年になり、仕事量と責任が増しました。

最初の大仕事はスプリングリーグの統括。

第1回大会という事で、エグいくらいやる事がありましたが、何をしたか話し出したらとんでもない文量になるのでやめときます。

でも、この経験は人生を大きく変えるものになったし、サマー・オータムも含めて、多くの人と関わる事ができました。


あとは全日本関係。

全日本選手権と大学日本代表合宿に行きました。

トップレベルの選手たちを間近で観ることが出来たし、選手権では東京ドーム、さらには神宮で決勝戦の公式記録を書けたことは良い思い出です。

知り合いでも出場していない限り野球はあまり観ないのですが、おかげで知ってる人が増えたので観るようになりました。

他にも部外に出て仕事をすることが多かったので、チームに帯同することはあまりなく、何をしているのか分からない人、なんて思ってる部員もいたかもしれません。

学年ミーティングや全体集合なんかは、僕がどっか行ってる時に開催される事が多いです。ここまで参加できないと逆に恋しいまであります。

チーム愛がないマネージャー陣、なんて言われてるとか言われてないとか噂を耳にしますが、この場を借りて否定させていただきます。

言葉に出すのが照れくさいだけです。

たぶん大聖も。

今野は、、、知りません。


このチームが勝てることを信じているので、他大学のマネージャーと秋リーグの順位の話になった時は、脊髄反射で「うちが優勝するよ」と答えています。

もう後には引けなくなりました。
選手のみんな、必ず勝ってください。


14年間の集大成。
優勝で締めたいし、神宮まで行きたい。


本当は本部から見守ることしか出来ないけれど、この秋だけは、仕事を山下に全部押し付けてできるだけスタンドに向かいます。


何としても勝ってほしい。


最後に両親へ

大学でも野球を続けると言った時は猛反対されました。なんとか納得してもらって、4年間続けてきて、本当に良かったと思っています。

グラウンドに立つ姿は見せられないけど、最後のシーズン見届けて欲しいです。

今までありがとう。

あと2年学生する事になるけど、これからもよろしく。






生命環境学群地球学類4年 廣瀬健大
東京都立小山台高等学校
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