春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

妙見寺に春の花、長谷川源太郎の胴羽目。高崎市。

2023-02-13 21:55:54 | 関口文治郎/神社仏閣

熊本大学大学院自然科学研究科(工学系)
人間環境計画学 教授の伊藤龍一氏が、
1982年から1989年までの論文の中に、
『北関東の社寺建築の造営修理に関与した彫物大工』が
あってその一文に、長谷川(小林)源太郎は、
高崎市の妙見寺に彫刻を施し、
刻印が認められたと記録している。

3日間の休暇を利用して、
見学に行きました。
道の端、染谷川の土手に、春👆踊子草が、









👇小雨の日です。



平安時代から、土地の人々から崇拝され、
1656年、1807年2度の類焼し
再建を始めたのは1839年。




小林源太郎が胴羽目に彫り、
刻印を入れたは1843年、
妙見寺が再建されたのも、同時期となります。

彫物師。小林源太郎、1799年熊谷宿に生まれ、
親父は、小林源八、
源八は、花輪彫刻集団の礎を作った、石原吟八郎の子、
2代目吟八明義の弟子
(関口文治郎の兄弟弟子)

源太郎は、1821年(22歳)中之条の吾妻神社本殿を、
父親と、2代目吟八明義、清水儀兵衛と共に彫り上げ、
翌年には、埼玉県都幾川の日枝神社を手掛け、
後、長谷川家に婿入りし、長谷川源太郎となります。


その後、どこかで彫っていたのでしょうが、
刻印で証明する、ここ妙見寺まで記録は無いのが残念。
記録にあるのは、
1835年(36歳)子持村の空恵寺本堂を
1855年(56歳)榛名神社双竜門の龍を彫り、
今は修復工事が終わってるので、
本殿行く途中見ることが出来ます。
1862年(63歳)箕郷の北野天満宮の一部に、

名を残してる。












埼玉県熊谷宿に生まれの長谷川源太郎
彼の晩年の彫刻は、多くの人たちに見られ
名は記憶されていても
まだあるだろう彫刻
彫師の名の
記録が残ってないというのは
口にできない、悔しさがあるものです





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錫色の日暮れに柳沢寺。北群馬郡市榛東村。

2023-02-10 12:45:21 | 群馬県の社寺仏閣

男やもめに雪が降る、
8時に目覚めた八王子の景色は、雪。
7時ごろから降り始めたという。
出かける先までの高速は、通行止めも有るといいう訳で、
今日は取りやめ、明日のことは状況を見計らって・・。

ちょっと前なら、この位の雪なら、と、
出かけたのに今は、ちょっと臆病になってきた。

👇船尾山・柳沢寺の山門
敷地内の建物は1600年代後期から、
1700年代、中期に建てられ、
上州七福神 毘沙門尊天霊場として、
隅々まで歩くと、いつか宝物に出逢うと教えられた。

船尾山と船尾滝
榛名山の麓、水澤観世音ちかくに
落差72メートルの滝で、
下方には2股に分かれた滝、バリエーションに富んだ,
船尾滝があって、柳沢寺の榛東村は、
滝の真下方に位置してる。







 







もう、陽は落ちて、
野武士が今夜の寝床にしたかもしれない、本堂へ。








👇人で言えば体を支える足、
寒さでひび割れてきた踵・・
















も、帰ります‼
戦国時代、戦禍で家は焼かれ
飢餓と多くの人を失った人々が
救いを求めて、作られた社寺は
この地区にたくさん

散歩・歴史の重さを肩に
錫色の景色になった
1月31日の日暮れ、榛東村、西明屋町
今日はこれで、 さよならです
八王子、道路も白くなりました




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日暮れの、柳沢寺の散歩。北群馬郡榛東村。

2023-02-07 19:48:09 | 群馬県の社寺仏閣

1月31日、まもなく日が暮れる。
寺門にわずかな西日は、
群馬県北群馬郡榛東村  しんとうむら
柳沢寺 りゅうたくじに。
開基は古く、平安時代と判ったけど、
戦国時代の戦禍で焼失し、
一時は廃寺になってたという。おや、まあっ
きょうは、お寺の歴史に触れるのではなく、
柳沢寺、なぁ~んも、考えず日暮れの散歩・・・。

寺門前の駐車場から👇


























山門はここだった
車が2台、子供たちが走り回って
お母さんは、後を追いかけて

仁王像が4体
次回に








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松山寺に新しい息吹。箕郷町。群馬県高崎市。

2023-02-04 21:08:08 | 魅せられた!


撮って出しのファイルは、先月末に訪れた、
高崎市箕郷町にある
松山寺
シンプルなたたずまい
手入れが行き届いた芝生

通された本堂の外陣の天井には
花が咲いてました
約半世紀、色あせることなく
燦然と
描いたのは、住職のお母さん
妹とお兄さん二人
妹さんの名が
私に箕郷近郊の
社寺の彫刻や自然の、情報を教えてくれた
たかさん

後世の、拝観者にひと時の
安らぎを与えるのでしょう
外陣の格子天井の花たち
👇









ブログにしなければ、聞くことは
無かったのですが、つい
根ほり葉ほり、聞いてしまった

お兄さんの義雄さんが描いた絵
👇





まだ2枚?ばかり、有ったと思いましたが
撮り忘れてた


海外の山、国内の山を登りながら
たかさんは子供たちには
絵を教えていたといいます
描いた年賀状が
👇




描いた絵は
後世に残るのですが
いつか筆を取る日があるなら
描く姿を、そっと写真に撮って後世に残す
そんなイメージが浮かびます


まもなく 春
日差しが柔らかかった
2月4日

健康で日々の出来事を
いつまでもです


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松山寺に春が来る。箕郷町。群馬県高崎市。

2023-02-03 22:20:05 | 心に残った北関東の社寺

群馬県、
榛名山麓に水資源に恵まれた町、箕郷。
1512年から始まる、
戦国時代に、上州の西側中心の箕輪城があり、
地元長野氏に、武田氏、織田氏と北条氏、井伊氏に、
戦国の領地争いは、1590年、
前田利家・上杉勝景連合に、
80年の歴史・箕輪城を開城し、
箕郷村から城が無くなった。1598年のこと。
戦続きで、疲弊する領民。
重なる、榛名山からの水害はあっても、
五穀豊穣の地、不幸は慶長2年1597年、
境内800坪に建つ、
然室玄廊大和尚が、釈迦牟尼仏を本尊に、
開基した、松山寺しょうざんじは焼失し、
以降、松山寺の記録は鐘楼だけになった。



👇寺の入り口では、
1748年の六地蔵と如意観音が迎え、




鐘楼の脇には、山村暮鳥の両親と弟の墓が・・、
朽ちる柱を保護する鐘楼のやぐらに、
箕輪の豪家・下田利左衛門が、
1727年、当時九代和尚に寄進したもので、
子持山、双林寺の石梁大和尚が銘を打つも、
18年後1744年、火災で焼け落ちる。
1783年の50年近く、
時報を知らせる鐘の音は無く、
悲しんだ、下田家の孫・下田理太夫政広が、
栃木佐野市の、鋳工・小島安左衛門と
地元、下田市太郎休理と塚越富左衛門に鋳造を依頼したもの。

太平洋戦争、鉄の不足で供出するためのこもかぶり、
拓本されての梵鐘に、
地元の人たちの浄財での梵鐘、供出を免れた梵鐘。

戦禍の憎しみに、計らいは餅の温かさ・・・。













松山寺を建てたのは、檀家さんと領民の浄財、
戦国の争いが身近に、無くなって、
心に、ぽっと灯りが着いたのでしょうか




まもなく春、
桜の花が咲けば、療養の松山寺の東堂夫人の、
元気な声が聞こえてきそうな・・・
2月3日





👇1600年代かと






ここで
小柄な、山椒のような、めりはりを利かせる
素晴らしい女性と知り合った
松山寺
女性が50年前に描いた格子天井
お兄さんが描いた
年代と共に優しさを帯びた絵が
620年の歴史の本堂と共に
時代を超え、語り継がれて
その画を次回に







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