パソコンが元気になったのは、日付の変わった、深夜。
それから、準備をして投稿となりそうです。
昨日は、一昨日の陽気につられ、予定は海だったが多摩地方の
山奥にハンドルを切ってた。
籠城中の「川合玉堂」が気になっていたに違いない。
15歳~16歳に描いたスケッチの感性と技術には、感銘したのだが、
退館後・・・・・渓流に降りて、吸煙。
時間が余った・・!
・・・・・・・・・・
1924年当時の青梅駅
現在の青梅駅(1924年と同じ建物です)
当時の建物の出入り口ですが重厚ですね。
歩いて50メートル。表通りに出て見上げると、商店の看板が、
映画のワンシーンです。
向かいも、隣も。
この商店の看板、右は「赤塚不二夫」氏の描いた看板。
左の自転車を持っているのは、佐田啓二さんの、映画「・・」
このワンシーン見覚えがあるのですが、どうも題名が浮んできま・・・・せん!
「君の名は」をだぶらせる「哀愁」
ビビアン・リーが演じた哀愁の襞が感動でした。
「風と共に去りぬ」よりはるかに胸を打つ存在感だった。
電線がなければ、もう少し洒落てましたか?
どっこい!
洒落た民家。
とんかつ がまた歴史を想像させます。
お待ちかね、大佛次郎の十八番、「鞍馬天狗」
猫好き、吉川英治より多いペンネーム。
童話迄書く、マルチ小説家。
当方掲載の鎌倉市、長谷寺の後ろ大仏さんの近くに住んだことで
大佛次郎。
怪しげな「扇千景」さんの登場に「嵐・寛」さん
首をクリ・・クリ・クリ・・。
今晩・・・? また!
それから、準備をして投稿となりそうです。
昨日は、一昨日の陽気につられ、予定は海だったが多摩地方の
山奥にハンドルを切ってた。
籠城中の「川合玉堂」が気になっていたに違いない。
15歳~16歳に描いたスケッチの感性と技術には、感銘したのだが、
退館後・・・・・渓流に降りて、吸煙。
時間が余った・・!
・・・・・・・・・・
1924年当時の青梅駅
現在の青梅駅(1924年と同じ建物です)
当時の建物の出入り口ですが重厚ですね。
歩いて50メートル。表通りに出て見上げると、商店の看板が、
映画のワンシーンです。
向かいも、隣も。
この商店の看板、右は「赤塚不二夫」氏の描いた看板。
左の自転車を持っているのは、佐田啓二さんの、映画「・・」
このワンシーン見覚えがあるのですが、どうも題名が浮んできま・・・・せん!
「君の名は」をだぶらせる「哀愁」
ビビアン・リーが演じた哀愁の襞が感動でした。
「風と共に去りぬ」よりはるかに胸を打つ存在感だった。
電線がなければ、もう少し洒落てましたか?
どっこい!
洒落た民家。
とんかつ がまた歴史を想像させます。
お待ちかね、大佛次郎の十八番、「鞍馬天狗」
猫好き、吉川英治より多いペンネーム。
童話迄書く、マルチ小説家。
当方掲載の鎌倉市、長谷寺の後ろ大仏さんの近くに住んだことで
大佛次郎。
怪しげな「扇千景」さんの登場に「嵐・寛」さん
首をクリ・・クリ・クリ・・。
今晩・・・? また!
それなりに読みましたが、
ペンネームの由来の
謎が今解けましたよ。
鎌倉の大仏さんに
関係していましたか。
青梅駅、
1924年の建物なんですか。
やはり重厚感があっていいですなぁ。
あの看板の題名は、イタリア映画の名作「自転車泥棒」です。
ですから、佐田啓二さんじゃなくって「ランベルト・マジョラーニ」と言って当時無名の人でした。
この作品、私も去年の12/19に記事にしましたので、もしよろしかったら覗いて頂けるとありがたいです。
それにしましても、懐かしい看板がいろいろとあって、いい雰囲気の所ですね。
鎌倉にはいろんな方が
住んでいたんですね。
ブログ書く上では目が離せなくなます。
自転車泥棒、1948年ですね。
アカディミー賞もとっていますね?
勘違い、間違いは、どうか遠慮なく
申し付け下さい。
私の為になることですから。
今後もよろしくお願いいたします。
読者登録頂きましたのに長い間気がつきませんでした、申し訳ございません、
早速読者登録させて頂きました、
今後とも宜しくお願い致します。
鞍馬天狗懐かしいですね、幼いとき
見たような記憶が有ります。
街灯もお洒落ですね、このような街灯は
もう見られなくなりましたね。
Lucy Banning Ota ルーシー・バニング・太田さんの生涯が描かれたノベルズが数年前に米国で発売、そのノベルズ発売でルーシーさんの関連ページが増えてます。最も詳しく書かれている米国記述ページは、2004年9月5日のarticles.latimesブログページ記事「'Man Crazy' Lucy Banning Was Rich and Free-Spirited 彼に夢中 ~ 裕福で気ままなルーシー・バニング」で、ルーシーさんが亡くなられた直後の太田氏自身のコメントも少し出ています(この米国ページの原文は、日本人が書いた文章が元になっているらしいのです)。太田氏御自身のコメントは「ルーシーの財産はバニング家のほうで、私には6000ドルがバニング家から残された。そしてルーシーと親しかった人々と、偲ぶ会を開いた」。
1930年(昭和5年)11月28日=佐藤さんが日本を離れる当日の客船で太田氏は佐藤さんと初めて会われたようです(NHKドラマ・いちばん星の原作「あゝ東京行進曲」での定説)。その日に佐藤さんは客船長から「乗客のための独唱会を」と伝えられ、船内で独唱会を開催。太田氏と佐藤さんの出会いが「それよりもっと早い時期」という一説も出ているのですが、1928年の太田氏・ルーシーさんの来日時の日本ビクターは設立される直前。佐藤さんの芸名が本名・佐藤千代だった時で、太田氏御夫妻が佐藤さんと会われる機会は無かったんではと。ルーシーさんと恋愛中の太田氏は米国ゴシップ記者達の嵐の中。ルーシーさんが記者達に「彼は日本の素晴らしい紳士です。ゴシップ内容のような人ではありません」と述べられています。