春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

 鞍馬天狗、山あいで活躍・・!

2016-04-27 06:51:19 | 魅せられた!
パソコンが元気になったのは、日付の変わった、深夜。
それから、準備をして投稿となりそうです。

昨日は、一昨日の陽気につられ、予定は海だったが多摩地方の
山奥にハンドルを切ってた。
籠城中の「川合玉堂」が気になっていたに違いない。
15歳~16歳に描いたスケッチの感性と技術には、感銘したのだが、
退館後・・・・・渓流に降りて、吸煙。
時間が余った・・!

・・・・・・・・・・
1924年当時の青梅駅


現在の青梅駅(1924年と同じ建物です)


当時の建物の出入り口ですが重厚ですね。


歩いて50メートル。表通りに出て見上げると、商店の看板が、
映画のワンシーンです。
向かいも、隣も。
この商店の看板、右は「赤塚不二夫」氏の描いた看板。
左の自転車を持っているのは、佐田啓二さんの、映画「・・」
このワンシーン見覚えがあるのですが、どうも題名が浮んできま・・・・せん!


「君の名は」をだぶらせる「哀愁」
ビビアン・リーが演じた哀愁の襞が感動でした。
「風と共に去りぬ」よりはるかに胸を打つ存在感だった。


電線がなければ、もう少し洒落てましたか?


どっこい!
洒落た民家。
とんかつ がまた歴史を想像させます。


お待ちかね、大佛次郎の十八番、「鞍馬天狗」
猫好き、吉川英治より多いペンネーム。
童話迄書く、マルチ小説家。
当方掲載の鎌倉市、長谷寺の後ろ大仏さんの近くに住んだことで
大佛次郎。

怪しげな「扇千景」さんの登場に「嵐・寛」さん
首をクリ・・クリ・クリ・・。


今晩・・・? また!

コメント (11)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 時間かかっても、楽・・ | トップ | ◆2 騎兵隊と野武士、どっち... »
最新の画像もっと見る

11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
おはようございます (tempo1078)
2016-04-27 07:52:12
大佛次郎さん、
それなりに読みましたが、
ペンネームの由来の
謎が今解けましたよ。

鎌倉の大仏さんに
関係していましたか。

青梅駅、
1924年の建物なんですか。
やはり重厚感があっていいですなぁ。
返信する
題名は・・・ (初老ytおじ)
2016-04-27 10:26:42
>左の自転車を持っているのは、佐田啓二さんの、映画「・・」
あの看板の題名は、イタリア映画の名作「自転車泥棒」です。
ですから、佐田啓二さんじゃなくって「ランベルト・マジョラーニ」と言って当時無名の人でした。
この作品、私も去年の12/19に記事にしましたので、もしよろしかったら覗いて頂けるとありがたいです。

返信する
改めまして、こんにちは。 (初老ytおじ)
2016-04-27 11:17:07
先程は挨拶もなしで、いきなりコメントしてしまいましたので、チョット不躾けだったと反省しています。
それにしましても、懐かしい看板がいろいろとあって、いい雰囲気の所ですね。
返信する
おはようございます! (toyo0181)
2016-04-27 11:35:18
tempo1078さま

鎌倉にはいろんな方が
住んでいたんですね。

ブログ書く上では目が離せなくなます。
返信する
とんでもないです! (toyo0181)
2016-04-27 11:40:33
初老ytおじ さま

自転車泥棒、1948年ですね。
アカディミー賞もとっていますね?

勘違い、間違いは、どうか遠慮なく
申し付け下さい。

私の為になることですから。
今後もよろしくお願いいたします。
返信する
Unknown (にいちゃん)
2016-04-27 17:27:40
あざやかな鞍馬天狗と「とんかつ」の文字、昭和レトロ満点な雰囲気のフォトですね。主演なさった嵐寛寿郎(アラカン)氏の姪子さんが、森光子さんと昭和初期の人気女優・森静子さんとか。私が子どもの頃、再婚された嵐寛寿郎さんがTVコマーシャルに出ておられたんでなつかしいです。
返信する
初めまして (そらママ)
2016-04-27 19:21:24
こんばんは、
読者登録頂きましたのに長い間気がつきませんでした、申し訳ございません、
早速読者登録させて頂きました、
今後とも宜しくお願い致します。

鞍馬天狗懐かしいですね、幼いとき
見たような記憶が有ります。

街灯もお洒落ですね、このような街灯は
もう見られなくなりましたね。
返信する
こんにちは (にいちゃん)
2016-04-29 13:05:20
現代での「レトロな雰囲気の風景」素晴らしいフォト、見る人々が癒されると思います。

Lucy Banning Ota ルーシー・バニング・太田さんの生涯が描かれたノベルズが数年前に米国で発売、そのノベルズ発売でルーシーさんの関連ページが増えてます。最も詳しく書かれている米国記述ページは、2004年9月5日のarticles.latimesブログページ記事「'Man Crazy' Lucy Banning Was Rich and Free-Spirited 彼に夢中 ~ 裕福で気ままなルーシー・バニング」で、ルーシーさんが亡くなられた直後の太田氏自身のコメントも少し出ています(この米国ページの原文は、日本人が書いた文章が元になっているらしいのです)。太田氏御自身のコメントは「ルーシーの財産はバニング家のほうで、私には6000ドルがバニング家から残された。そしてルーシーと親しかった人々と、偲ぶ会を開いた」。

1930年(昭和5年)11月28日=佐藤さんが日本を離れる当日の客船で太田氏は佐藤さんと初めて会われたようです(NHKドラマ・いちばん星の原作「あゝ東京行進曲」での定説)。その日に佐藤さんは客船長から「乗客のための独唱会を」と伝えられ、船内で独唱会を開催。太田氏と佐藤さんの出会いが「それよりもっと早い時期」という一説も出ているのですが、1928年の太田氏・ルーシーさんの来日時の日本ビクターは設立される直前。佐藤さんの芸名が本名・佐藤千代だった時で、太田氏御夫妻が佐藤さんと会われる機会は無かったんではと。ルーシーさんと恋愛中の太田氏は米国ゴシップ記者達の嵐の中。ルーシーさんが記者達に「彼は日本の素晴らしい紳士です。ゴシップ内容のような人ではありません」と述べられています。
返信する
こんばんは (なつめろ)
2016-04-30 03:16:23
太田節三藤千夜子さんと
返信する
こんばんは (なつめろ)
2016-04-30 04:02:29
記事更新が遅くなりまして今から就寝です。太田節三氏と佐藤千夜子さんの出会いの定説が1930年10月28日(先コメントでの「11月28日」→「10月28日」に訂正を)ですが、もうひとつの説が1932年ロサンゼルスオリンピック出場レスリング選手・八田一朗氏の述べられた話です。八田氏のエピソードは「ルーシーさんが亡くなった直後の太田節三氏へ、太田氏の知人が佐藤千夜子さんを紹介。太田氏は佐藤さんのサポーターになった。それで佐藤さんは太田氏とロスへ。ロスからイタリア・ミラノも太田氏の援助で行ったのでは」と。八田氏がそういう話を述べていたのは、当時のロサンゼルス日本人会の人々の「噂話」が元になっているようです。「クラシックを佐藤さんに歌われては困る日本ビクターの思惑」はミラノにも伝わっていたらしく(ミラノ・スカラ座はビクター系列のイタリアグラモホンスタジオ)、古賀政男氏へ「イタリアでの独唱会開催がむずかしい」などの便りを度々書かれてます。古賀政男氏は「佐藤さんのおかげで作曲家になることができた」「佐藤さんが思うような音楽分野(クラシック)での力添えができなかった」という意味を著書で述べられています。佐藤さんがクラシック音楽に専念するにはビクターを離れなければならず、1938年に佐藤さんがビクターを離れることに。慰問活動でイタリア民謡を中心に歌われ、「日独伊同盟」を佐藤さんは素朴に喜んでおられたようです。
返信する

コメントを投稿

魅せられた!」カテゴリの最新記事