3388 野球ブログ

日米を問わず名選手を紹介。

公平な日本、不公平なメジャー?(4)

2008-05-20 22:30:49 | Weblog
メジャーの場合、現在は162試合制をとっており、これはかってベーブルース、ジョージシスラ-等が活躍した時代の154試合制を改め、1960年代から実施されています。従って古くはマリスがベーブルースの60本塁打を抜く61本塁打を放った時には、試合数の違いが結構話題になったものです。又最近では、日本の誇る天才打者イチローが、ジョージシスラーの257安打を抜く262安打を放った時も、以前程ではなくとも試合数の違いが話題になりました。逆に日本の場合、多少試合数の違いを話題にするものの、意外にもあまりそれに頓着している様には見えません。対戦チームに関しては、異常な程に公平さを重んじる割に、年度毎の試合数及び、それに拠って生じる個人記録(本塁打、打点、投手の勝利数等特に積み重ねによる記録)に関しては、何試合制の記録という区切りを殆どしておらず、結構大雑把な感すらします。ではメジャーはどうかというと、試合数に関しては約50年間162試合という事になっていますが、対戦チームに関しては全く公平さを欠いており、はっきり言って滅茶苦茶という感すらします。詳しくは次回触れたく思います。

公平な日本、不公平なメジャー?(3)

2008-05-19 21:46:47 | Weblog
日本の場合、年度毎の試合数は非常に異なっていますが、対戦相手に関しては非常に公平になっています。セパ交流試合が始まってからも、各チーム共同一条件の対戦相手になっています。今年の場合同一リーグの球団との対戦は24回、交流試合の対戦相手とは各4回となり、各チーム144試合となっています。本当に公平というか、公平すぎる気がします。日本シリーズが何故人気があるかを考えると、当然セパの優勝チームの争いであり、実力日本一を決める試合と言う事が第一でしょうが、普段見られない試合が見られる要素もあるのは否定出来ないのではないでしょうか?それをある意味交流試合は奪っている訳です。更に日本の場合、メジャーと異なり、いくら球団数が少ないとは言え各チーム共、残る全チームと対戦している訳です。矢張りカードの新鮮味と言う点は欠けているいる気がします。メジャーの試合形式に就いては次回こそ紹介したく思います。

公平な日本、不公平なメジャー?(2)

2008-05-16 21:35:57 | Weblog
今回は試合数です。このタイトルに公平な日本とありますが、日本の場合、年度毎の試合数に関しては全く公平では有りません。年度毎、更にセパで試合数が異なる事は度々ありました。球団数の関係でしょうか、昭和31年度のパリーグは154試合も実施しておりますが、翌32年には132試合と著しく試合数を減らしたりしているものです。その後最も少ない試合数で130試合、最も多い試合数で150試合、今年はセパ共交流試合を入れて144試合が予定されています。取り敢えず同じ条件での優勝争いには、一応影響はないと捉えざるを得ないでしょうが、個人記録となると別です。特に積み重ねの記録の本塁打、打点、安打数、投手の勝利数、奪三振数等は試合数に拠って大きな影響を受けるでしょう。出来れば今後不変の試合数にして欲しいものであります。次回はメジャーの試合数に触れたく思います。

公平な日本、不公平なメジャー?(1)

2008-05-15 23:46:56 | Weblog
今回から日本プロ野球とメジャーとの違いに就いて触れたく思います。先ずは球団数です。日本はセパ合わせて12球団ですが、メジャーはアメリカンリーグ14球団、ナショナルリーグ16球団の合計30球団になります。両リーグの球団数を偶数にして、日程に穴を空けさせない為か、両リーグの球団数が異なっています。両リーグ共、東、西、中地区の球団で地区優勝を争い、その優勝球団と2位球団の中で最も勝率のいい球団が、リーグ優勝のプレイオフに参加出来るというシステムになっています。現状ではアメリカンリーグの西地区は4球団で地区優勝を争うのに対し、ナショナルリーグの中地区は、6球団で争い、他の地区は5球団での争いという極めて不公平な状況になっています。広いアメリカの為、地区毎に球団数が違うのは仕方ないとしても、非常に不公平と言えるのではないでしょうか?それに対して日本の場合は一応公平とは言えるでしょう。日本の各リーグの優勝球団は、当然5割以上の勝率が必要な訳ですが、メジャーの場合5割以下の勝率でも地区優勝の可能性がある訳です。実際5割を少し超えた勝率で地区優勝している球団も見られるものです。

定岡智秋

2008-05-14 21:06:08 | Weblog
昭和49年から62年まで、南海ホークス一筋に活躍した右投右打の遊撃手です。晩年には二塁を守る事もかなり有りました。三人共プロ入りした、定岡三兄弟の長兄にあたり、彼の最大の特長はもの凄い強肩にありました。その最大の特長を、彼はオールスターで見せてくれました。試合前のアトラクションで、遠投競争がありセパの強肩自慢の選手達が出場しましたが、記憶に間違いがなければ、定岡智秋が120mを投げ、あの強肩でなる大橋譲、山本浩二を凌ぎ優勝した事です。本当に肩は強く、しばしばショートへの深い当たりをその強肩で打者をアウトにしていました。しかし打撃には問題があり、時折長打を放つものの、粗さが目立ち安定した成績を挙げる事は出来ませんでした。結果として規定打席到達3回、自己最高打率0.257と些か寂しい成績に終わりました。三兄弟揃ってプロでは不本意な結果に終わったかと思います。



通算成績    1216試合   785安打   0.232   88本塁打    370打点

簑田浩二(3)

2008-05-13 22:46:13 | Weblog
簑田浩二は打撃にも非常に優れ、脇を巧く締めた打撃フォームから強打、巧打を高角度に打ち分けていた印象が強いものです。又174cm,68kgと比較的小柄ながらも、結構パンチ力があり20本塁打以上5回、内30本塁打以上2回と長打力にも優れていました。昭和50年代半ばの頃の簑田浩二なら、どんなチーム事情であろうと、彼を欲しがらないチームはないと思われる程全てに於いて、完璧に近い選手でした。特に昭和58年には三割、30本塁打、30盗塁をマークしそのオールラウンドプレーヤーぶりを十分に発揮しました。当初打順は2番でデビューした簑田浩二でしたが、その後3番を任される事が多くなり、上記の様な長打力を見せましたが、果たしてこれが彼にとって良かったのでしょうか、3番としても十分な働きをしたわけですが、出来れば2番打者として小技ok,長打okというスーパー2番打者として活躍して欲しかったものです。三番打者として長打を狙うあまり、やや打撃に粗さが見られ被三振率が昭和50年代後半から、増えてきたのが気になりました。彼が引退して約20年になりますが、彼程欠点の少ない選手は、殆ど出現していないと言えるでしょう。

簑田浩二(2)

2008-05-12 21:24:23 | Weblog
入団1,2年目の簑田浩二の出場は主に、代走、守備固めでしたが、衝撃的な日本シリーズでの全国デビューの翌53年には、完璧にレギュラーの座を確保し、二番レフトとして0.307,61盗塁と素晴らしい成績を残しました。残念ながら同僚福本豊の存在の為、その数をもってしても盗塁王にはなれませんでした。又守備ももの凄く素晴らしく、俊足を活かし広い守備範囲を誇り、肩も素晴らしく、度々走者の次塁への突入を防いでいました。当時レフト簑田浩二、センター福本豊、ライトウイリアムズの外野トリオの間を抜くのは不可能とまで言われていました。彼は外野手の送球に関しては、決して90mも100mも投げる必要はなく、70m位を速く、正確に投げる事が出来ればOKであると言う発言を度々しています。正しくその通りで、彼の送球は正確無比で、送球が逸れた記憶は殆どありません。ゴールデングラブ賞を8回受賞も当然かと思います。次回は打撃に就いて触れたく思います。

選手名鑑(2)

2008-05-10 21:36:22 | Weblog
今回は身長に変化のあった選手を何人か紹介したいと思います。先ずはお馴染みの金田正一投手です。現役時代の登録は184cmでしたが、昭和30年代後半、日曜日午前中放映のミユキ野球教室では、自身の身長を187,188cm位だろうと発言していました。その後、監督時代の登録では186cmとなっていました。彼は身長でも優位性を保ちたかったのでしょうか?実際の身長が気になるものです。張本勲も現役時代の登録が初期180cmとその後181cmとなっていましたが先日のサンデーモーニングでは183cmと発言しておりました。王貞治も現役初期は179cm,その後177cm,現在は176cmの登録になっています。又日本人メジャーの場合、センチからインチへの登録に変る訳ですが、日本時代180cmのイチローは5フィート9インチの175cmの登録になっており、又逆に新庄剛志は日本時代の181cmの登録がメジャーでは185cmになり、更に日本に戻ってきた時には元の181cmになっていました。よく考えればどうでもいい事ですが、結構興味深いものです。



簑田浩二(1)

2008-05-09 22:01:56 | Weblog
昭和51年から平成2年まで、阪急ブレーブスで大活躍し、その後読売ジャイアンツに移籍した完璧に攻守走三拍子揃った右投右打の外野手です。彼のイメージとしては阪急時代しか思い浮かばない程強烈で、出来ればかなり力の衰えた巨人在籍時の彼の姿は見たくなかったものです。簑田浩二の名前を世間に広く知らしめたのは、何と言っても昭和52年の日本シリーズでの走塁でしょう。巨人に1点リードされた9回表、セカンドランナーの代走として出場した簑田浩二は次打者の浅いレフト前ヒットで、ぎりぎりのタイミングながらも見事なスライディングを見せ、本塁に生還しています。約30年経た今でも、鮮明にそのシーンは覚えている程の素晴らしい走塁でした。巨人はその前にレフトを超弱肩、守備範囲の恐ろしく狭い張本勲から、強肩の二宮至に代え、万全の体制を敷き、更に彼の返球も非常に良く、普通の走者ならアウトのシーンだったでしょう。もしレフトが張本勲のままなら、どの走者でも楽々セーフだったでしょう。ある意味張本勲は、簑田浩二の名前を全国区にした立役者とも言えるでしょう。



通算成績    1420試合    1286安打     0.279    204本塁打    678打点     250盗塁

選手名鑑(1)

2008-05-08 21:56:36 | Weblog
プロ野球選手名鑑に、選手の身長、体重が掲載されていますが、非常に面白い事に結構その数字に変動があります。当然変動のある体重は兎も角としても、通常変動のないと思われる年齢になった身長にも、かなり変化のある選手も見受けられます。又多分その数字も選手の公表と思われる為、身長は高めに、体重は少なめの傾向が強い様な気がします。極端に変動した身長の例を紹介して見ます。昭和39年に阪急ブレーブスに、スペンサーとウインディの2人の外国人選手が入団しましたが、当初スペンサーが205cm,ウインディが202cmという登録でした。確かに当時としては2人共、かなり大柄でしたが、そこまで大きいかどうか多少の疑問はありました。多分1,2年後の登録だったと記憶していますが、2人共急に、15cmずつ身長が縮み190cmと187cmの登録に変更になっていました。推測するに来日前に両選手が適当な数字を公表したか、或いは球団側がフィートからcmへの計算を間違えたかの様な、単純な理由かと思います。次回もそれなりに、変動のある選手を紹介したいと思います。