白いぼうしの教材解釈を研究推進委員会で行いました。
本当の大問題は、もう少し先にあると思いますが、時間数の関係で1の場面を行うことが決まっています。ここから、どう授業を作るかを話し合いました。
最初、「松井さんは、何がうれしくて車に夏みかんをのせたのだろうか?」が大問題でした。しかし、これだと、「もぎたて」や「いなかのおふくろが、速達でおくってくれた。」「においまで私に届けたかった」など、ストレートに答えが出てきて、話し合いに深まりがありません。子ども達に、「あれっ、変だぞ。」と思い、食いつかせるには不足した課題です。なぜなら、表面上で見えている部分だけの話し合いになりそうだからです。
では、見えているつもりで、実は見えていない部分はどこだろうと読んでいきました。すると今まで読み過ごしていた、物語の最初の部分がクローズアップされます。
「運転手の松井さんが、にこにこして答えました。」これは、よく考えるとおかしな文です。
だって、「いいえ」と言いながら、にこにこ答えるのはおかしなことです。「いいえ」は「相手や自分のことばを打ち消したり反対の気持ちを表したりする語。」です。反対の気持ちを表すのに、にこにこは合わないのです。
ここを考えていくとたくさんのことが見えてきます。まず、書き出しの「これは、レモンのにおいですか。」が、強烈です。これって、何を指しているのでしょう。具体的に指しているわけではありません。「これは、/れもんの/においです/か。」と切っていくと、においを指していることがわかります。ということは、目に見えないところに夏みかんがあって、お客の紳士からは夏みかんが見えないことがわかります。何か、柑橘系のにおいがするから、レモンかなと思ったのです。
ここから「夏みかんはどこにあるか?」という問いもおもしろそうだと分かります。客席から見えないのですから、おそらく車の前半分にのっています。ここで、問題が出てきます。「この車にのせてきた。」の「のる」は「乗る」なのか「載る」なのかです。乗るだと、人が乗る。載るだと、何かの上に置いてあるという意味になります。「載る」と考えるのが普通のようにも思いますが、夏みかんを生きている人のように大事に扱ったと考えると「乗る」でも良いと思われ、この考え方だと助手席に乗っていることになります。また、「載る」と考えると、堀ばたで「乗せた」と「載せる」が対比になっているとも考えられます。
また、この部分が、倒置法になっていて、さっと読むと「これは、レモンのにおいですか。」「いいえ....」と会話が続くように見えますが、実は、もっと間が開いていることが分かります。信号が赤なので、ブレーキをかけてから、にこにこして「いいえ、夏みかんですよ。」と答えました。となるからです。
なぜ、即答しなかったのか?
校長がそのあたりを解説します。「ここから先の会話が大事だからだよ。信号で停止している1~2分の時間をかけて、じっくり話し合わせたい会話をこの部分に入れたいからだよ。走りながら、ついでに話すような話しではなく、もっと内容のある言葉だからだよ。」つまり、作者の仕掛けとして、赤にして、車を止める必然性があったのです。
にこにこを調べると、「嬉しい気持ち。」とわかります。では、「何が嬉しかったのか。」を問題にしたら、どうだろうと話し合いが進みます。「これは、/レモンの/においです/か。」と切ってみると、においが嬉しいことが分かる。では、なぜにおいが嬉しいのかと調べていくと、「もぎたて」「いなかのおふくろ」「速達」「においまで」など手がかりが出てきます。「においですか。の『か』」も考えさせると良いことも分かりました。「レモンのにおいですね。」ではなく「か」だったから、嬉しかったのです。さわやかでおいしそうなあのレモンかなあと迷うぐらいいいにおいだと褒められたのです。
ここで授業者が、「しかし、ここでは対立問題ができない。ここで問題を作っても、順番に問題の答えを探すだけになり、AかBかの選択にならず議論が深まらない。」とこの部分をメインにすることに承知しません。
そこで、後半部分に目を移します。「もぎたてなのです。きのう、いなかのおふくろが、速達で送ってくれました。においまでわたしに届けたかったのでしょう。」このなかに、理由の「ので」があります。「ので」は何を指しているのでしょう。そう考えると、ここにも倒置があります。「もぎたてなのです。きのう、いなかのおふくろが、においまでわたしに届けたいので速達で送ってくれました。」となります。
「におい『まで』わたしに届けたかったのでしょう。」の「まで」が問題になります。送りたかったのは、においなのか、本体のおいしく新鮮な夏みかんなのか。においのほかに何かもっと、大事な本体があるのです。............................これはお母さんの気持ちであって、あくまでも松井さんの推測です。本当のことはよく分かりません。
でも、松井さんが会話の中で「まで」と使っているのです。おそらく、松井さんの気持ちが、これにもう一つが加わります。それは、お母さんの温かな気持ちです。元気か?たまには田舎に帰って来いよ。という....そう感じたのです。
つまり、こうなります。
母は、新鮮でもぎたての夏みかんを、速達で送ったから、「もぎたてなのです。」
松井さんは、その夏みかんだけが嬉しかったのではなく、そこまでして古里の空気を新鮮に届けてくれようとした、その母の気持ちが嬉しかったのです。
ここにも「送る」「届けたかった」と対比があります。送ったのは「夏みかん」ですが、「届けたかった」のは何?
ここまで、考えてきても、大問題ができません。困ります。ここで問題を作っても対立にならないからです。「なぜ嬉しかったのか」と聞くと「あまりにうれしかった『ので』」と理由が載っています。その理由は、母の気持ちであり、その気持ちのおかげでもぎたてのまま届いた夏みかんだからです。読んでいけば、順々に答えをたどっていくことができ、ここでも、対立になりません。なんとなく、当たり前じゃん。かいてあるじゃん。と授業が流れそうです。
そこで「こんな問題はどうだろう?」と問題が出してみます。「松井さんは、だれのために夏みかんをのせたのだろう?」と。
「つまり、『松井さん自身のために夏みかんをのせた』のか、『においをお客さんにかいでもらいたかったのか。』の、自分のため、他人のためという対立問題ができると思うのです。」
おそらく、この問題だと、子ども達の多くは、車の芳香剤を思い浮かべます。タクシー運転手の松井さんが、お客にいい夏のにおいで暑い日をさわやかな気分にしてあげようと思ったとか、あまりにいいにおいなので自慢したかったと考えるはずです。
しかし、よく読むと、「あまりにうれしくて」と載っています。度をこして嬉しかったので、後先忘れて載せてしまったと自分の思いだけで載せたことが分かっていくからです。
これで、子どもたちは「えっ」と思います。そんなこと、あるはずないと、食らいついてくるはずです。
授業が成立しそうです。