totoroの小道

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ひとり”が怖い

2010-05-31 14:45:22 | 研修

 日経新聞電子版に、猪瀬直樹氏の「眼からウロコ」というコラムがあった。
その中の「日本と外国の若者の差がどんどん開く」という記事に、引き寄せられた。

 一部要約しながら引用してみる。


 連休前、4月23日の夜、NHKニュースのあとに「特報首都圏」でやっていた「“ひとり”が怖い」という特集を見た。学食に1人で行けない学生たちにスポットをあてていた。

 学食では、だいたい5~6人くらいで集まって食事をしている学生が多い。そこへたまたま1人でやってきて食事をしても、問題はないように思える。しかし、最近は1人で学食に行けない学生が増えている。

 彼らが学食に行くことを避けるのは、1人で学食に行くと友だちがいないことがバレてしまい、「友だちがいないやつ」と思われるからだ。現在の学生のうち、学食に1人で行けない者は、「積極的に行けない」も加えると5割になる。

 若者のひ弱さの原因は、人間関係の偏りにあると僕は考える。若者の人間関係は、ヨコのつながりに偏っている。

 たとえばメールだ。面と向かって話をしているときに、相手の話を聞き流しながら、携帯電話でメールをするのは失礼にあたる。しかし、すぐに返信しないと友だちに嫌われるからと、ずっと携帯電話をいじっている学生は多い。

 会社でも、新入社員がわからないことがあっても上司や同僚には聞かずに、学生時代からの友だちにメールをして聞くというのが最近の風潮だ。タテの人間関係を築けなくなっている。

 タテの人間関係を避け、ヨコの人間関係だけを求めるのは、自分の分身としてしか他者を認めていないからだ。その場合の友だちとは、無限に同意してくれるサイクルの一環でしかない。

 自分と違う存在という他者の認識がなければ、コミュニケーションとは言えない。他者とのコミュニケーションがないから、ますます内側にこもっていく。そういう人間は、生態系のはぐれ者であり、ひ弱にならざるをえない。

「特報首都圏」で「“ひとり”が怖い」を見た同じ日の深夜、僕はNHK教育で放映されている「ハーバード白熱教室」に見入ってしまった。アメリカのハーバード大学でもっとも人気のある政治哲学の授業「Justice(正義)」をテレビ公開したものである。
 教授は、田原総一朗のようにどんどん突っ込みを入れて、学生の議論を活性化させる。こうして「正義とは何か」について徹底的に話し合うのである。

 日本の学生とアメリカの学生とで、どうしてここまでの落差があるのか。同じ日に、あまりに違う光景をテレビで見て愕然とした。

といった内容だ。


 日本の大学では、コミュニケーションが苦手で、学食に1人で行けないのでトイレで食事をする学生が増えているという。一方、アメリカの大学では、教授と学生が「朝まで生テレビ」のようなディスカッションをする。
 
 なぜだろう?と考える。

 自分と違う存在という他者の認識がなければ、コミュニケーションとは言えない。その通りだ。他者との考えの違いは、テーマについて本音で話し合うこと、触れ合うことで理解し、それが人間なのだと認識していく。コミュニケーションがとれない若者が多いと言うことは、自他の違いの認識を求めない学校・社会が日本にはあるということだと思う。

 そう思って、自分の授業を見直してみる。

子どもたちへの発問が、
①自分と違う存在を感じさせない、みな同じ考えしかでない発問ではないのか。 
②どう答えても、「ふ~ん、そういう考えもあるのね。」と感じる、テーマ生のない発問になっていないか。
と思うのだ。

例えは、算数の、分数の足し算の授業を行うとする。
課題をつかみ、予想をして、それぞれがノートに考えをまとめた後に、話し合いをする。
しかし、どのノートも、ほぼ同じ思考回路で解かれている。
「隣の人と話し合いなさい。」と指示されても、違いがないから通り一遍読み合えばそれで終わりになり、議論は起こらない。

例えば、国語の物語で、主人公は、このときどう思いましたか?と発問したとする。Aという子がいればそれもそうだろうと思い、Bと言う子がいればそういう考えもあるだろうと思い、CでもDでもフムフムと頷きながら聞いてもらえる.............

こんな授業が多いと思う。


これでは、「話し合え」と言われた方が困る。
話し合いたくても、何を話し合ったらいいのか、テーマがないのだ。


そこで、授業の問題、発問の精査が必要になる。
考える必要のある発問かどうか?
話し合う必要がある発問かどうか?
である。

では、どういう発問が、そういう発問になるか?
①一見正しいように見える、対立する問題を選ばせる発問
②一見異なっているように見える対立する考えから、共通点を見つけ出す。
このようなものではないかと思う。

特に、①は比較的簡単にできるし、対立する問題のどちらを指示するかそれぞれに表明させると、議論が盛り上がる。よく分からないけれど、自分でこの答えを選択した。その正当性を主張しなければならない、そういう「考える必要」「話し合う必要」が生じるからだ。

そういう授業をすると、たとえ発言しない子どもでも、こんな表情になる。友だちの言葉を一語一句漏らさないように聞いているのだ。それは、自分と違う存在という他者の認識という作業をしている顔そのものだと思う。


また、猪瀬直樹氏のコラムには、世代間のコミュニケーションの溝についても触れられているが、こうしたいい授業をしようとすると、当然世代を超えて先輩から教わったり、異なる年代の教師同士で教材解釈について議論する機会を持てるようになったりするのだ。

 

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1 コメント

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そのとおりです。 (Mrひで)
2010-06-01 14:41:39
子どもたちへの発問が、
①自分と違う存在を感じさせない、みな同じ考えしかでない発問ではないのか。
②どう答えても、「ふ~ん、そういう考えもあるのね。」と感じる、テーマ生のない発問になっていないか。
と思うのだ・・・・totoroさんの言うとおりですね。ここから抜け出す①必要性を知らない、その②方法も知らない。国語の授業が変わらないのは、ここに大きな原因があるよね。
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