トシコロのありのままの暮らし


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全学連と新左翼

2015-06-15 11:55:54 | 日記



  日本では、全学連と新左翼を混同している人が非常に多いのではないだろうか。僕も近年までそうだった。でも、両者は関係はあるが、違うものである。

  全学連の「連」は日本特有の言葉で、目的を同じくする人たちが自然発生的にできる集いを指す言葉である。江戸時代、俳句の連みたいなものが盛んにできたらしい。中国に「連」の字を同じ意味に使う習慣があるか、僕は知らない。ないだろう。それはともかく、その「連」から取った言葉であり、特に憲法や人権について関心を持つ人たちが党派などの隔てがなく集まり、論議して、友人・仲間になっていったものである。1960年少し前から始まったようだ。その時は日米安保条約も盛んに論議された。

  でも、人間は世間に無視されたり、叩かれると傷つき、他人に恨みを持ちやすくなる人もいるようだ。70年ごろになり、行き詰まり、ゲバ棒をふるっても効果がない事が判ると、その中には世間に恨みを持つような人たちが生まれた。その中には、世間への恨みで頭が一杯になり、連合赤軍のように世間に過激な事をたくらむ人たちも出てきた。更には、社会変革方法についても、新左翼同士で対立が生まれた。世間に叩かれ、当事者たちは心が傷つくやすくなっていたので、仲間の批判も叩きだと思いこみ、叩き返そうと。新左翼間も分裂し、多くの派閥ができ、異なる派閥で殺し合いすらもやるようになった。もっと恐ろしい事もあったようだ。自分たちの理想とする社会を作る為に、障碍児を将棋の駒みたいに使うとか。派閥争いにも障碍児や障碍者が利用された事もあったと聞いた事がある。

  以上ならば、人権も何もない。当初の目的は見失い、他人への憎しみにこだわるようにも。

  それはともかく、全学連と新左翼は違うものである事を述べるわけである。人生は長く、歴史はもっと長い以上、焦って事を進めなくて良かったのに、とも僕は残念に思う。悲しいと。

戦後の日本の人権

2015-06-12 13:53:28 | 日記



   戦後の間もない時期に作られた憲法は「国民主権・基本的人権・戦争放棄」が三本の柱である。でも、当時の日本国民のほとんどは人権についての観念すら持たなかった。食べ物が少なかったので、飢えからの脱出の事が最大の国民の関心事であった。後、お米は増産されて、次第に飢えは克服されたが、その後も人権に関心を持つ人は増えなかった。

  僕も事情は詳しく知らないが、1960年代に入り、大学生などの若者がそれまでの学校で習った「人権」の問題を掘り下げて論じて、生活や仕事に生かそうとしたそうだ。「人権は普遍的に存在する」という観念を持つと、地域や立場、信仰、国籍すらも超えて付き合える。実際、当時の若者たちはITもないのに、大学の場はもちろん、公園や喫茶店、電車の中などで次々と若者同士が知り合い、熱く人権や社会、政治、恋愛について語り合い、男女は熱い恋に落ちる者たちも多かった。その流れが「学生運動・全学連」になっていった。彼らは「このまま人権国家を樹立しなければ日本は再び戦争する国家になるか、お金万能の世の中のどちらかになってしまう。どっちもまずい。そのためにも人権観念を日本中に広める必要がある。また、全ての人々が人権観念を持てば、一切の差別も消える」と思い、それを広めるための運動をしようとしたわけです。

 でも、戦前の教育を受けた人達は人権観念が判らず、次第に「世代の断絶」という言葉も生まれた。まだ戦前生まれの人たちの方が多かった事や、戦後教育を受けた人達の中にも人権観念が薄い人たちも多かったため、人権観念を持った若者たちは孤立していった。じれた若者の一部が「ならば、フランス革命のような暴力革命しかない」と思うようになり、ゲバ棒をふるったり、1969年には東京大学の講堂を占拠して、警視庁機動隊に排除された事もありました。その事件は全学連の人たちにとっては挫折となったようで、その後は「何を語ってもムダだ。この世はなるようにしかならない」と思う若者が非常に増え、政治や社会に無関心になっていきました。個人的な事ですが、僕の所に来た若者ボランティアの人たちも1970年までは社会や政治に対する関心が強く、明らかに外向きだったのに、それ以降はそのような人たちは何故か来なくなり、代わって、自分の所属するサークルや学校の事ばかり話すような人ばかりが来るようにもなりました。聞いた話ですが、人権などを熱く語る人たちは1970年以降は「沈黙」するようになったわけです。

  人権は公には語れなくなったものの、福祉関係では人権抜きには語れません。1990年ごろから日本では要介護高齢者が増え、高齢者施設では人権無視の事が絶えず起き、その度にニュースに流れるようになりました。同様に、障碍者施設とか。今度は福祉関係から人権が注目され、ITも出来始めてその事が話題として流されるようになった。更に、2001年のハンセン氏病訴訟の事も拍車を掛けて、21世紀になり、60年代とは違った形で人権がクローズアップされた。確かに、誰でも高齢者になるわけだから、その人権が脅かされている状況があれば、全ての人は関心を持ち、考えますね。でも、今の日本でも人権への関心はまだまだ低いです。先日も作業所で知的障碍を持つ人への暴力事件が報道されました。障碍者関係の人権事件は後を絶ちません。又、非正規雇用者の問題もそうです。更には、児童。特に、離婚夫婦の子供たちの人権の事も議論されるべきだと。更には、胎児までに人権を広げて、妊娠中絶の問題も。日本人はもっと人権に目を向けるべきだと。

  全学連の所で述べた「人権意識の低い国は独裁政治か、金を追及するかのどちらかになる」は事実です。戦後の日本がお金ばかりの国になった理由もそれだと。これからは人権中心の価値観を持たないといけないわけです。人権について、皆さんも目を向けて下さい。

戦後の日本の人権

2015-06-12 13:53:28 | 日記



   戦後の間もない時期に作られた憲法は「国民主権・基本的人権・戦争放棄」が三本の柱である。でも、当時の日本国民のほとんどは人権についての観念すら持たなかった。食べ物が少なかったので、飢えからの脱出の事が最大の国民の関心事であった。後、お米は増産されて、次第に飢えは克服されたが、その後も人権に関心を持つ人は増えなかった。

  僕も事情は詳しく知らないが、1960年代に入り、大学生などの若者がそれまでの学校で習った「人権」の問題を掘り下げて論じて、生活や仕事に生かそうとしたそうだ。「人権は普遍的に存在する」という観念を持つと、地域や立場、信仰、国籍すらも超えて付き合える。実際、当時の若者たちはITもないのに、大学の場はもちろん、公園や喫茶店、電車の中などで次々と若者同士が知り合い、熱く人権や社会、政治、恋愛について語り合い、男女は熱い恋に落ちる者たちも多かった。その流れが「学生運動・全学連」になっていった。彼らは「このまま人権国家を樹立しなければ日本は再び戦争する国家になるか、お金万能の世の中のどちらかになってしまう。どっちもまずい。そのためにも人権観念を日本中に広める必要がある。また、全ての人々が人権観念を持てば、一切の差別も消える」と思い、それを広めるための運動をしようとしたわけです。

 でも、戦前の教育を受けた人達は人権観念が判らず、次第に「世代の断絶」という言葉も生まれた。まだ戦前生まれの人たちの方が多かった事や、戦後教育を受けた人達の中にも人権観念が薄い人たちも多かったため、人権観念を持った若者たちは孤立していった。じれた若者の一部が「ならば、フランス革命のような暴力革命しかない」と思うようになり、ゲバ棒をふるったり、1969年には東京大学の講堂を占拠して、警視庁機動隊に排除された事もありました。その事件は全学連の人たちにとっては挫折となったようで、その後は「何を語ってもムダだ。この世はなるようにしかならない」と思う若者が非常に増え、政治や社会に無関心になっていきました。個人的な事ですが、僕の所に来た若者ボランティアの人たちも1970年までは社会や政治に対する関心が強く、明らかに外向きだったのに、それ以降はそのような人たちは何故か来なくなり、代わって、自分の所属するサークルや学校の事ばかり話すような人ばかりが来るようにもなりました。聞いた話ですが、人権などを熱く語る人たちは1970年以降は「沈黙」するようになったわけです。

  人権は公には語れなくなったものの、福祉関係では人権抜きには語れません。1990年ごろから日本では要介護高齢者が増え、高齢者施設では人権無視の事が絶えず起き、その度にニュースに流れるようになりました。同様に、障碍者施設とか。今度は福祉関係から人権が注目され、ITも出来始めてその事が話題として流されるようになった。更に、2001年のハンセン氏病訴訟の事も拍車を掛けて、21世紀になり、60年代とは違った形で人権がクローズアップされた。確かに、誰でも高齢者になるわけだから、その人権が脅かされている状況があれば、全ての人は関心を持ち、考えますね。でも、今の日本でも人権への関心はまだまだ低いです。先日も作業所で知的障碍を持つ人への暴力事件が報道されました。障碍者関係の人権事件は後を絶ちません。又、非正規雇用者の問題もそうです。更には、児童。特に、離婚夫婦の子供たちの人権の事も議論されるべきだと。更には、胎児までに人権を広げて、妊娠中絶の問題も。日本人はもっと人権に目を向けるべきだと。

  全学連の所で述べた「人権意識の低い国は独裁政治か、金を追及するかのどちらかになる」は事実です。戦後の日本がお金ばかりの国になった理由もそれだと。これからは人権中心の価値観を持たないといけないわけです。人権について、皆さんも目を向けて下さい。

日本の人権の歴史・幕末から1945年

2015-06-11 10:50:39 | 日記
   長く続いた徳川幕府体制だが、江戸から遠く、幕府の監視が弱い西日本を中心に各藩が力を付けてきた。あと、アメリカからの黒船来航後、激動期に入り、幕府は急速に衰え、明治維新になったわけだが、その頃の人権の問題はどうだっただろうか。はっきりとした人権思想はまだ出なかったが、長きに渡り、下積みを強いられてきた下級武士たちが幕府打倒の力になったのは有名である。身分制度を廃止して、新しい日本の国を作ろうと彼らは努力した。そこに後の人権思想につながるものがあったと。又、その頃に活躍した学者の福沢諭吉はアメリカ合衆国独立宣言を引用して、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と語ったが、学問による自立を進めた言葉であり、人権思想とはやや違うと。(その言葉は福沢諭吉が作ったものではありません)
  1868年に明治維新。その後、1874年から帝国議会設立の建白書が出され、その頃から自由民権運動が始まり、1889年の帝国憲法設立。後、1894、5年に日清戦争、1904、5年に日露戦争が起きたが、民衆レベルでは人権思想が広まり始め、女性や盲人、身体障碍者、聴覚・言語障碍者、ハンセン氏病患者たちも自分たちの人権に目覚めて、郵便を使って、意見を全国的に広めていった。
  1912年から日本の元号は大正になったが、女性運動は都市部から活発になり、平塚らいてうという運動家は「女性は元来、太陽だった」という名言を述べている。障碍者関係も活発に運動し、積極的に恋愛し、結婚する例も増えた。
  でも、1920年代に入り、世界的に不景気になり、そこに1923年、関東大震災で東京は焼失状態。人々の心もショックになり、多くの人はそれを境に急速に内向きになり、社会や人権について語る人は非常に少なくなった。変な新興宗教も流行ったようだし。政治が金権腐敗しても人々は沈黙し、やがて、軍部、特に陸軍が強くなり、わがままにもなり、戦争への道を歩んだわけだが。軍事政府みたいになり、当然ながら、人権も無視され、健康な男性は徴兵手紙だけで戦地に行かされるなど、人権も、命もない状態になっていった。一部の人は抵抗もしたが、警察に捕まり、まともな裁判も受けられないまま、投獄された。日本に侵略や植民地支配された国々の人々にとっても勿論だが、日本人にとっても暗い世の中になった。それも関東大震災の頃から人権を考えない人が圧倒的に多くなったためである。人権を考えない事は恐ろしい事であり、軍事政権や戦争の根の大きな一つであるとも言える。
  次回は最後。戦後です。一番僕が述べたい時代です。

テレビ番組の推薦

2015-06-10 09:57:01 | 日記


  今日、午後10時55分から11時20分・NHK総合テレビ「探検バクモン」。

  「あなたはハンセン氏病を知っていますか」。

  東京都・東村山にある国立ハンセン氏病療養所「多磨全生園」を取材放送します。

  そこでは、元患者たちが戦前は不当に人権を侵害され、戦後も厚生省の一部の役人の誤った措置と、政治家や庶民の無関心によって、隔離が続けられ、戦前とは別の意味で人権が侵害されていました。

  リポーターは漫才師ですが、その番組はいつも真面目に社会問題を取り上げて、報告しているので、今回も十分期待できます。ぜひご覧下さい。