トシコロのありのままの暮らし


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憎むだけでは不十分ではないか

2016-08-16 11:48:37 | 日記
  15日のNHKスペシャル「ふたりの贖罪」という番組を見た。パールハーバーを爆撃した日本兵士が戦後は罪を悔い、アメリカに懺悔旅行する事を描くなど、感動的なドキュメンタリーであるが、僕が一番印象的だったのは、解説者が「日本人のかなりは、戦後になり、それまでの職業軍人を憎んだ」というセリフである。戦争中はアメリカ・イギリス・中国をこぞって憎んでいたものが、終戦と同時に、別人みたいに職業軍人を憎む。「やりたくもない戦争を押し付けた職業軍人は憎い」と多くの人が思ったそうである。ならば、満州事変の時に職業軍人に「ノー」と言えば良かったのに。それも変であるが、果たして、憎むだけで良かったのか。違うと僕は思った。憎しみは否定だけの感情である。戦争を否定する感情は判るが、そこからは「何故、満州事変の時から陸軍は暴走したのか」という原因が究明されないからだ。

  陸軍暴走の理由の大きな一つは、1932年前後の日本の政治力が非常に低下していた事が挙げられている。政治家に賄賂を送るなど、政治を利権操作の対象としか考えない金持ち層が増えて、どの政党も金権腐敗して、その暴き合いに政治家たちも奔走するようになり、政治家の質が落ちて、それを補うように軍部が政治関係に口出しをするようになり、その軍部も国家予算獲得のために中国戦線を広めていって、あのような泥沼に陥り、多くの中国人たちも殺されるに至ったわけである。また、大正時代=1925年以前は多くの日本国民が政治に関心を持ち、婦人参政権運動も盛んになったが、昭和=1925年以降は多くの人が刹那的な遊びばかり求めるようになり、政治に対して無関心になっていった。

  つまり、「職業軍人」の暴走を許したものの一つは、終戦後に職業軍人を憎んだ多くの民衆だったとも言えるわけである。冷静に過去を振り返ると、そのような事も判るが、憎しみにとらわれ、感情的になるとそのような事も気が付かなくなるわけである。それゆえ、憎しみだけでは不十分だとも言えると。

  がらりと話は変わるが、多くの障碍者を殺した植松の件も、植松をただ憎むのではなく、何故、そのように殺しに至ったか。また、本当に精神病のせいならば、何故、そのような精神病にかかったか、冷静な見解が求められると思われる。

日本の終戦記念日に当たって

2016-08-15 13:19:15 | 日記
  まず、第二次大戦で戦死・餓死・爆撃死・病死された全ての方々のご冥福をお祈り申し上げます。

  どの国でも、人を一人でも殺せば、重い刑になります。今でも死刑になる国も多いです。それなのに、相手の国の兵士とは言え、人を殺すことを戦争になると命じられ、命令に背くと刑務所に入れられ、相手の兵士を多く殺すと報奨金や勲章が与えられる戦争は何でしょうと。いくら考えてもわけが判りません。人間らしい事が文化行為ならば、戦争は文化行為=人間らしい事なのか。違いますよね。ならば、今の地球においても、いまだに文化は発達していないのかもしれません。

  又、「戦争で亡くなった人たちに祈る」事は何でしょう。祈りは思考や行動が伴うものだと僕は思います。ならば、過去の全部の戦争の原因を明らかにして、かつ、これから世界に戦争が起きない対策を世界中の人たちが心を合わせて、講じていかないといけません。テクノロジーは非常に発達していますから、未来に戦争が起きれば、世界の破滅も起きると思います。何かの破滅兵器で何億のも人々が死に、重度身体障碍を持ったり、ショックから精神障碍や自殺(自死)にもなりかねない。そのような未来は作ってはなりません。

  第二次世界大戦や、日本の満州侵略、ナチス台頭、ユダヤ人虐殺、原爆製造などの原因も明らかにしなければならないし、第一次世界大戦も同様です。また、戦後の多くの戦争や国境争いなども。これからもどうなるかは、判らないわけだし。

  戦争のない世界ができるまで、戦争関係で亡くなった方々の霊は浮かばれないと言っても過言ではないでしょう。

  平和な地球構築のために世界中の皆様も目を向けて下さい。

小中学生向け随筆・7月

2016-08-04 09:05:37 | 日記
 小中学生のみなさんへ.  🐸

 
夏休みになりました。みなさんは学校からはなれ、いろいろなことをしたり、ふだんは見られないものを見るわけですね。それは楽しいし、とっても大事なことなのです。いつまでもおぼえているし。ぼくも、子供の時の夏休みの思い出はたくさん、たくさんあります。その一つをお話ししましょう。
 
ぼくが小学6年生の時のことです。ぼくのお母さんは長野市で生まれ、おばあちゃんとおじさん、おばさんも長野市に住んでいました。その家は町の中にありますが、当時はもう一つ家がありました。別荘(べっそう)ですね。そこに6年生の夏に10日間住んだわけです。お母さんや妹、おばさん、いとこたちと一緒に。お米などを持ち込んで。カレーなどを作っては食べていた。そこは長野市にはちがいないのですが、家は田んぼに囲まれていました。田んぼだから、稲が植えられているわけですね。8月だから稲はかなり育っていました。一面の稲。東京で育ち、そのような景色(けしき)は見たことがないため、新鮮に感じました。じっさいに持ったわけではありませんが、稲は重そうに感じた。時おり、お百姓さんが来ては、草取りをしていました。
 
また、田んぼに住む小さい青ガエルも見ました。本当に小さかった。5センチくらいでしょうか。すでにカエルはオタマジャクシから生まれる事を知っていましたから、小さくてもカエルの子供ではないことは知っていましたが。東京の世田谷でもカエルは見ますが、かなり大きく、色も茶色です。青ガエルのいることは知っていましたが、目の前で見たのは初めてでした。青というよりは、緑色していますが。
 
遠くに目をやると、山がたくさん見えました。流星みたいなものも見えた。でも、やがてラジオで知りましたが、長野の山々には時々UFOも出るらしいから、それだったかもしれませんね。ちなみに、その10年後くらいにぼくはUFOを何度か見ています。中には、窓もはっきり見えたものもありました。これもおもしろいですね。
 
長野の夕日の赤もはっきりおぼえています。自然とふれあった楽しい思い出でした。みなさんも楽しい思い出を作って下さい。

ミドリムシから思うこと・子供向け科学の文

2016-08-03 10:27:53 | 日記
  ミドリムシは目では見えない小さな生き物です。みなさんも名前は知っている人もいるでしょう。テレビやインターネット、本で見た人もいると思います。その名前のとおり、ミドリ色をしていますね。
  
  小学6年ごろに理科で習うと思いますが、植物のかなりは葉緑素(ようりょくそ)と言って、糖分(とうぶん)を作る緑色した細胞を持っています。ミドリムシもその働きがあるから、緑色をしているわけです。でも、顕微鏡(けんびきょう)でみると、ミドリムシは自由に動きます。走るし、べん毛と呼ばれる一本の毛みたいなものも動かせる。だから、動物みたいでもあります。
  
  ぼくもよく知らなかったため、インターネットで調べたところ、ミドリムシは1660年ごろのオランダで発見されたそうです。そのころのヨーロッパでは、顕微鏡(けんびきょう)が作られていったため、目に見えないだけ小さな生き物(微生物・びせいぶつ)も次々と見つかりましたが、ミドリムシもその一つだったのですね。それから300年近くたった1950年ごろには、ミドリムシには葉緑素も持っていて、植物の性格もあることがわかり、話題になったそうです。その後はかなりの栄養素(えいようそ)も含まれていることもわかり、ぼくが子供の時にはミドリムシから宇宙食も作ることが研究もされていました。小学や中学の時も理科の時間に「ミドリムシは動物でもあり、植物でもある、面白い生き物だ」と先生に教えられ、おもしろく思ったものです。今では、ミドリムシから体を元気にする薬が作られたり、ビスケットも作られています。食べ物の少ない国でミドリムシからビスケットを作り、食べてもらうことも日本などの科学者たちは考えています。

  ミドリムシが地球に生まれたのは5億年前らしいです。古い生き物ですね。そのころの地球は目に見えない微生物だらけでした。その微生物の中から、後の動物になるものや植物になるものが進化して、大きな生き物になりましたが、ミドリムシはミドリムシのまま、ほとんど変わりませんでした。でも、もし、何かのきっかけで、ミドリムシが進化していたら、動物・植物の両方の性質を持つ生物も生まれたかもしれません。その中から人間のような知能を持った生き物も出たことも考えらます。緑色の皮膚(ひふ)をして、晴れた日は日光浴をして、自分で糖分を作る人間が。そう考えると面白いし、宇宙は広いですから、どこかの星にはそのような「ミドリ人間」もいるかもしれませんね。そのほか、ロボットが進化した人間みたいな生き物とかも。宇宙の人たちもいろいろいると思います。また、われわれ地球人もいろいろな人がいますね。理科の好きな人もいれば、国語の好きな人もいる。体育の好きな人もいれば、歌の好きな人もいる。走れる人もいれば、歩けない人もいる。目が見えない人もいる。でも、みんな「命」を持つ人間です。でも、一人一人ちがうからこそ、助け合い、友だちになって生きていけるわけですね。そして、地球を生きていきましょう。

  読んでくれて、ありがとうございました。