トシコロのありのままの暮らし


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そのケンカの根の根と、自分を見失うこと

2016-09-29 10:38:16 | 日記
  歴史研究は書店にほとんど売られていないような多くの古典書を一人でコツコツ調べ上げていく作業であり、地味な努力の積み重ねです。日本史を当時は専行して学んでいたK氏も一人でやる地味な努力を好み、また、歴史学者に向いた性格である事が今の僕には判ります。やはり、歴史を徹底して研究した司馬遷にも通じる面があるはずです。そのような性格を持つ人は意思疎通を目的とする手話会には向かないでしょう。


  聴覚障碍関係でも、本当は日本の聴覚障碍者の歴史の研究会を作れば良かったかもしれないと今の僕は思うわけです。そうすれば、聴覚障碍者の悲惨な状態を話しても会員たちは熱心に聞いてくれるし、K氏自身も伸びるはず。それを踏み台に歴史学者の道を歩んだ事も十分想像されます。今はその大学の日本史の教授にもなって。

  大体、聴覚障碍者の全てが手話会に向くとは限りません。向くのは社交性に富んだ性格とか、通訳の素質があるような人たちに限られると思います。僕も今までは「聴覚障碍者=手話会」というイメージがありましたが、それは一種の偏見でしたね。手話会に向かない性格の聴覚障碍者もいるわけです。今は余り見られないですが、40年前までの日本では脳性まひ者が集って、皆でデモみたいな事をする事が「脳性まひ運動」と呼ばれていました。でも、僕もそうでしたが、徒党を組む事が苦手で、そのような運動ができない・向かない脳性まひ者もたくさんいました。つまり、昔の言葉で言う所の、脳性まひ運動が向かない脳性まひ者がたくさんいたように。

  又、K氏が度々話したと伝えられる「ろうあ者の気持ちはろうあ者にしか判らない」も考えてみれば、変です。「私」という主語がないから。それは英語や中国語に翻訳はできません。ろうあ=聴覚と言語の障碍なるものは、特定の個人が持っているものです。英語では「I HAVE」になります。外国人たちにそのような事を話しても理解はできないでしょう。恐らくは以下の通りではなかったかと。

  高校時代までのK氏は地方の聾唖学校に通っていたようです。その学校は聴覚と言語障碍のある者だけの世界。買い物や遠足で町に行く事はあったと思いますが、非常に狭かった。僕みたいに多くのボランティアの若者たちと交流したわけでもなかった。それが大学に入り、いきなり周りは健聴者ばかりの世界。しかも高校までよりも非常に広い世界。ならば、自分は単に「耳が不自由な人」だと思うようになり、それにこだわるように。その過程で自分の心を忘れて、単に「私は聴覚障碍者です」とだけ主張するようになり、得意な歴史学を主張するのも忘れるようになり、その結果、性格に合わないような手話会を作ったと。それは元々K氏にとってはムリな事で、それゆえ、ムリな運営をしてしまい、ケンカにもなったと。そのように推察もできます。

  まだケンカで良かったと思います。性格に合わない事ばかりしていると、人生が狂い、一生を棒に振る事もあるわけですから。恐ろしいわけです。国や民族レベルにも言える事かもしれません。20世紀初め、夏目漱石は日清・日露の戦争に勝って驕れる人たちが多かった当時の日本を見て、日本人の性に合わない事だと鋭く感じ取り、亡国の予感を抱きました。本当にそうなったわけですが。源氏物語や悪人正機を生み出した日本文化は戦争には合わないし、ある程度の経済基盤は必要にしろ、過度の経済競争にも向かないでしょう。同様に、儒教など、「徳」を生み出した文化の中国にも、今の経済第一主義は果たして合うのか。中国人たちが決める問題ですが、隣国から見て、僕は首もかしげるわけです。

  とにかく、自分らしく生きなければなりませんね。

聴覚障碍を持つK氏の個性と、日本の聴覚障碍者の歴史

2016-09-27 13:08:52 | 日記
  77、8年当時のK氏は日本史を学ぶ学生だった。日本の多くの古典書から聴覚障碍者関係の史料を調べて、聴覚障碍者の昔の置かれた状況を調べていた。大昔から日本では耳の聞えない人たちは「聞く耳を持たない人たち」と思われて、非常にバカにされていた。各種障碍者の中では、精神障碍関係の次くらいに虐げられていた。近代になっても、例えば、俳句の正岡子規と高浜虚子の弟子に、村上鬼城という耳の聞えない人がいたが、内、高浜虚子たちの弟子たちは耳が聞こえない事を理由に村上鬼城をバカにして、その度に高浜虚子は「バカにしてはいけない」と叱った事が文献に残されている。又、耳の聞えない生徒たちの学校で、第二次世界大戦の時の軍事教練で軍事教官が号令を掛けても反応がないので、「聞こえないのは心がたるんでいるからだ」と生徒を叱った事もあったそうだし。とにかく、僕もその一部しか知らないが、日本の聴覚障碍者たちの歴史は非常に悲惨だった。


  ならば、それらをコツコツ調べたK氏の気持ちはいかがものだっただろうか。猛烈な怒り、悲しみ、恐怖感で心が一杯になったはずだ。常に絶望していたと。しかも、当時は日本でも聴覚障碍者たちには世間は無関心だったし、福祉関係も児童や身障者、盲人関係には目が向いても、聴覚障碍者関係には冷たかった。そのような背景もあった所に、遊びで手話をする学生たちが現れた。激怒したわけだと。K氏が「悲惨な話ばかりした」も理由の大きな一つは、以上の歴史研究から来ていたと思わる。氏は物事を狭く、深く極める面があったようだし。氏の個性ですね。

  例えば、耳の聞えない人でも、聴覚障碍関係の歴史を研究していない人ならば、深刻なケンカは起きなかったかもしれないと思うわけです。耳の聞えない人たちも一人一人発想が違うから。中には、学生たちと一緒に遊ぶ聴覚障碍者もいると思います。先の僕が書いたブログでは、聴覚障碍者へのステレオ・タイプ的な見方も生まれかねないので、K氏の持つ個別性を徹底的に思い出して、書いてみたわけです。やはり、脳性まひの人のステレオ・タイプ的な見方をされたら、僕はたまらないわけですし。

  77、8年当時にK氏と付き合っていたほとんどの人たちは日本の聴覚障碍者の歴史の事は知らなかったでしょう。それゆえ、彼らの多くは戸惑ったはずだし、K氏の話も理解が難しかったようです。僕もごく一部ですが、次第に聴覚障碍者の歴史を知り、だんだんK氏の述べたい事が判っていったわけです。そんなものかもしれません。日韓や日中にしろ、歴史が絡む問題は難しいものがありますし。歴史を学ぶことはどのような人でも、必要ですね。




その手話会の行方と、僕との絡み

2016-09-26 13:22:08 | 日記
  大村益次郎関係のブログの最後に書いた、ある大学の手話会。僕は1977年12月で止めましたが、その後は学生の会員が増えたそうです。但し、学生たちは遊び感覚で手話をやり、ふざけ始めた。一方、耳の聞えないKは、当時の日本の聾唖(ろうあ)者たちの置かれた悲惨な状況を話した。当然、ギャップが出ますね。又、耳や言語が不自由な人たちにとっては手話は非常に大切なものです。それをふざけた感覚でやる事は気持ちとして許せないものがあったでしょう。それ故、両者は次第に大ゲンカになったと聞きました。僕も所属していた福祉会の人たちも板ばさみみたいになり、困ったと聞いた事があります。半年くらい続いたかな。夏休みになり、自動的に休戦になり、そのまま手話会は潰れ、語り継がれる事もなかったわけです。残念だと思います。


  今思うに、構成員全員の意思疎通が欠落していました。まじめに取り組んでいた人たちも手話を「覚える」感覚でしていた。Kに対し手に限らず、メンバー全員が自分の事を余り話さなかった。それならば、Kの事も誰も判らず、ふざける人も出てきますよ。

  更に、最近気が付きましたが、Kは僕にも話し掛けなかった。僕は落ち着いた79年には彼に時々手紙は書いたのに。Kはもっと僕に近付かないといけなかったと思います。何故なら、僕も重い言語障碍は持っていますが、同時に手も不自由で手話は不可能だから。手話は肩と腕を本当に酷使します。手話通訳に肩を壊す人が多いと聞いた事もあります。実際、体の関係で手話ができない聴覚障碍者や言語障碍者もかなりいるでしょう。また、手話を覚える事が苦手な聴覚・言語障碍者も。Kが僕に非常に関わり、知った場合、そのような多くの人たちの事を考える基礎にもなったのに。彼の為にもなったのに。残念ですね。肩や腕の問題がある以上は手話にこだわらなくても良いと今の僕は思いますが。早い話、筆談の方が判りやすいはずなのに。

  また、言葉が通じない事は非常に辛く、悲しく、寂しいものです。Kは「ろうあ者の気持ちはろうあ者にしか判らない」とどこかの場で言ったとも伝えられましたが、それならば、電話も使えないだけ、言語難が重い僕は最初からかなり彼の気持ちは判っていたわけです。彼は「聞こえない」、僕は「話せない」の違いだけで。僕がKの件にこだわるのも、自分の事が深く絡んでいるからです。そんなものでしょうね。

大村益次郎の書いた英語と、その後の日本の英語教育や手話

2016-09-24 13:46:42 | 日記
  日本の皆様は御覧になった人もいるでしょうが、9月16日にNHKで放送された「歴史ひすとりあ」というTV番組で、幕末から明治初め(19世紀後半)に活躍した大村益次郎の書いた英語が出ていました。イギリス人に英語を直されていた。放送では説明しなかったですが、複数形で書くべき所を単数形で書いたから、直されたわけです。フェイスブックでは僕は外国人たちと付き合い、コメント欄に簡単な英語を時々書きますが、同じ失敗もして、気が付き、すぐ手直しする事もあるから、それも判ったわけです。英語などでは単数形と複数形の違いが明確ですが、日本語は元々それは不明確なので、日本語で述べる感じで英語を書き、そのような間違いも度々起こすわけですね。でも、大村益次郎は一生懸命イギリス人やアメリカ人に自分の意志を伝えたくて、英文を書いたわけです。英語に限らず、外国語をする目的は「意思疎通」ですからね。大体、言語は意思疎通の目的で太古に自然に作られたわけだから。


  ところが、いつの間にか、日本の、特に中学の英語の授業は単語のスペル記憶や、文法みたいな事にこだわるものになってしまった。今は英会話にも重きを置くものに改善されているようですが、僕の中学の頃(1968年から70年)は暗記科目みたいで、試験も英語のスペル筆記が出ました。外国語のスペルは簡単に記憶できるものではないし、僕も出来なくて困った思い出があります。スペルを忘れれば、辞書で調べれば済む事なので、記憶する必要もないと思いますが。それゆえ、僕も中学・高校時代は英語学習の目的も理解できませんでした。同様の日本人も多いでしょう。

  そう言えば、一人の聴覚障碍を持つ大学生が発起人となり、東京の某大学で手話会が1977年に開かれ、テキストを使って手話会が開かれました。その学生の友人だったので、僕も行きましたが、会員は手話を覚えようとしていましたし、「手話を覚える」という言葉を使っていたように記憶しています。元々僕は手が不自由で手話は困難だし、それを覚える必要性にも疑問を感じて、すぐに退会しましたが、思い出し、その手話会は変だったと思います。手話は文字通り、耳の聞えない人たちに話し掛けるもので、「覚える」ものではないでしょう。今思い出すと、当時の中学の英語の授業風にしていたわけです。会員のどの程度がその耳の聞えない人に手話で話し掛けたのか、後で思うと疑問に感じますね。更に、僕みたいに手の関係で手話のできない人は、例えば、筆談など、別の方法もあるわけだし。今思うと、手話会はやめずに、その耳の聞えない人と相談して、僕なりの彼との意思疎通方法を模索し合うべきでしたね。それをしなくて、今は残念に思います。

  耳の不自由な人とか、外国人に話し掛ける事は物凄いエネルギーを使う反面、自己伝達と表現力の最大級の訓練にもなります。1977年の手話会でそれをしていたら、僕の人生も変わったと今は思っていますし、そこですべきだった事を今になり、フェイスブックでしているのかなとも思います。その手話会には問題もあったようですが、話がずれるので、少なくとも、今日は書きません。いずれにしろ、意思疎通は非常に大切ですね。

「私に「光明」の名を教えた子

2016-09-22 11:31:33 | 日記
  1961年春から夏。3ヶ月間、東京都の板橋区にある「整肢療護園」という、身障児の幼稚園みたいな所に母子で、住み込み入園し、合宿生活みたいな日々を送った。そこではリハビリ、マッサージ、お遊戯をした。有名人の訪問も多い所で、歌手の坂本九や橋幸夫も訪れた。当時の僕にはどのような人かは判らなかったが。また、たまたま当時の皇太子夫妻(現行天皇陛下)も訪れて、記念写真も撮っている。その写真は今でも家にある。


  大体、私と同じ年齢の、木製の車いすに乗っていた女の子が毎日「光明(こうめい)」と言っていたので、私もその名を覚えてしまった。光明とは、体の不自由な子供たちが入れる学校であること、学校では字を覚える所だという事もその関係から、母から聞かされて知った。その子の名前は覚えていないが、いかにも光明に入学する事を楽しみにしていた事は思い出してもわかる。学校に期待する事は、5歳前後としては相当な高度な知能を持っていたはずだ。

  ところが、翌年の入学試験で、その女の子は落ちてしまったのだ。「光明」の名を教えた子が落ちて、教えられた私が合格。今思うと、非常に皮肉である。何故、落ちたのだろうか。判らない。勿論、その子の運命も判らない。合格していたら、当然、同級生になっていただろうから、今ごろは私のブログも読んで下さっていただろうに、とも思う。その子も、父母も無念だっただろう。

  その合宿部屋にいた子の名前は二人覚えている。アキラ君とセイキ君である。アキラは京都の人で、その後は京都の養護学校に入り、小学6年くらいまで、彼の父母から年賀状が来た。

  セイキ君は体が非常に弱く、その2年後くらいに病死している。