トシコロのありのままの暮らし


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今の日本に高齢者恋愛が増えている一因推察

2018-10-29 11:45:37 | 日記
  今の70代、80代の人たちの生まれた歳や青少年期を過ごした年代を見れば、一因は見えてくるかもしれない。例えば、今年80歳の人たちは1938年に生まれたわけですね。彼らの7歳の時には終戦があり、日本社会の価値観が根本から変わり、その少し後には、自由結婚も保証された新憲法が公布され、その下、若い世代はそれまではイエ中心の旧憲法でできなかった恋愛や自由結婚を謳歌したわけである。その様子は「青い山脈(石坂洋次郎著)」という小説・映画にも描かれています。人にもよりますが、終戦の年に中学生だった辺りの1930年生まれから、全学連挫折の時に青春を迎えた1950年生まれごろの世代には戦後憲法と恋愛尊重で、政治思想的には革新的な発想の人たちが多いわけです。1968年から70年に掛けて中学生だった僕はその世代の先生たちに教えられたり、光明養護学校に来た介助員やボランティアの若者たちと非常に多く付き合ったから、その世代の人たちの発想はよく知っているわけですが。その一人に、今は日本を代表する映画監督である原一男氏もいましたが。


  若い時の発想は、一生続くのでしょう。従って、それまでの世代の高齢者みたいに「高齢者には恋愛はない」という常識は通用しないと思われます。

   因みに、以上の世代感覚は1950年生まれを境にして途絶え、後の世代は憲法に無関心、恋愛レスにしだいになっていきましたが、それには深い問題が秘められているので、別の機会に述べたいと思います。

伊豆の荒波・文芸誌から

2018-10-25 14:59:12 | 日記
  伊豆の荒波
 
 1967年10月末。光明養護学校の小学6年だった僕の学年は一泊二日で、伊豆の稲取に修学旅行に行った。その3日ほど前から沖縄付近に強い台風が停滞しており、僕も心配していた。でも、旅行当日も動かず、旅行はできた。参加者は1組と2組の担任の先生、介護などのための応援の先生数人、この年から学年に一人付いた介助員(女性)、それに2組の母親たち。当時の光明の小学部は身体障碍別に分けられており、1組は軽度、2組は要介護などの重度者であった。光明養護学校から稲取に一路。行きのバスからの景色の様子は覚えていない。応援の理科の先生が冗談を言っていたのをかすかに覚えているくらいで。後、風呂の様子もかなり忘れている。夕食の時、小鉢にアルコールを染み込ませた塩の真ん中に貝殻付きのアワビがあり、そのアルコールに一斉に火を付け、電灯を消して、青いアルコールの火を皆で見た事は覚えている。でも、一番僕が印象に残っているのは帰りの日だ。
 翌日になり、TVで台風が接近しつつある事を知らされた。前夜からスピードを上げ、北上を始めたのである。午前中は伊豆のサボテン王国公園に行き、温室のサボテンを鑑賞した。そこで昼食を取り、午後は伊豆の道路から岐路。当時は高速道路はなく、比較的ゆっくりバスは進んだ。途中から右側に海が見えた。波が非常に高く、不規則に動いている。明らかに台風の余波だ。何かに怒ったような感じの波だった。当時の僕はそのように思い、目は海にクギ付けになった。バスの中では、歌の好きな人たちが歌を歌っていたが、僕は余り聞かなかった。滅多に見られないものを見たわけである。貴重な見聞だ。
 バスは夕方に光明養護学校に着き、皆も無事に帰宅。その夜には台風は強い勢力のまま、愛知県の渥美半島に上陸。大型だったため、かなり離れた東京でも夜は風雨が吹き荒れた。もし、1日早く襲われたら、伊豆で大変なことになっていたし、それ以前のこととして、この修学旅行自体が中止になったに違いない。
 以上は毎年10月になると必ず想う、僕の思い出です。皆様も色々な思い出があるでしょう。その思い出の中で滅多に見られないものを見ると、さらに印象に残りますね。皆様の思い出もお聞きしたいです。
 以上.


三角関係もつれからも見える人間の所有欲と、恋愛考察

2018-10-24 10:17:56 | 日記
  先日は高齢者の三角関係のもつれからの痛ましい事件について少し触れた。本人たちは真剣に愛し合っていて、結果が傷つけ合う事になるわけだ。悲しく想う。昔からどの国でもある深い問題ですね。


  恋愛みたいな感情や気持ちは、今の心理学ではまともに原因は究明されていないようである。分析は色々あっても。それだけ難しい問題である。性欲や寂しさだけでも説明はできない。今の僕は、「気」の問題ではないかと推察している。男の気と女の気が何かの事で合わさり、引かれ合う事だと。「気」にも愛が含まれているとしたら、うまく説明も付くわけである。但し、「気」の事は最近になって注目されてきた事だから、本当に僕の推察通り、恋愛の源が男女双方の気にあるのならば、解明はかなり未来になるだろう。そう言えば、日本では昔から好きな異性の事を「気になる」とか言ってきたではないか。

  さて、男女の気や心が重なり合うのが恋愛ならば、この世にはたくさんの男女がいるから、ふとした弾みで、一人が複数の異性と気が重なり、恋愛し、三角関係などにもなっておかしくないわけである。既婚者の場合は配偶者への責任もあるから、特に肉体関係は好ましくないし、それは別にしても独身の場合はその可能性も常にあると言える。ところが、そのようになった場合、ライバルの同性の人に強い嫉妬が生じたり、深刻なトラブルになる。二人の異性から愛された人も強い葛藤を持つ。それらは何なのかと僕も昔から疑問に思ってきた。婚約するまでは複数の異性と付き合った方が視野も広まり、よろしいのにとも思うわけだが。根には異性を独り占めしたいという所有欲があると心理学者たちは言っている。フェイスブックの友人でもある長嶋龍人著「お金のいらない国」では、貨幣のない世界では人間は所有欲も持たないから、複数の異性とも親しくなる事も可能らしい。その本は異次元の国を想定したものだが、宇宙に目を向けるとそのような惑星社会も存在しておかしくないと僕は思っている。また、今の地球でも、当事者たちが非常に自由な発想を持ち、所有欲に達観すれば、三角関係が生じても、葛藤は持たないようだが、現実にはそのような例は少ない。人間はいつまでも悟れない愚かな者かもしれない。そのような事も思うわけだ。

   付け加えると、恋愛は根を掘り下げると初歩経済の問題ともつながっているようである。


コスモス恋愛

2018-10-22 14:17:12 | 日記
   中高年にふさわしい恋愛の事である。無論、個人差はあるが、独身を続けても、大体、40歳を過ぎるとどんなに魅力を感じる異性と出会っても、若い時とは違って、感情的に熱くはなれない例が多いようである。僕もそうだし、男女の別なく、多くの独身を続けている人たちも証言している。ラジオでもそのような話を聞いた覚えもある。


   でも、僕は最近思ったのだが、恋愛は歌謡曲に歌われているような熱く、激しいものだと誰が決めたのか。それも恋愛には違いないが、異性の気を感じて触れ合い、静かに「君はいいなあ」と思う恋愛もあって良いのではないかと。丁度、秋に静かに咲くコスモスのように。

   ここ10年間、僕はミクシーなどで多くの独身・再独身女性と出会い、やり取りもしてきた。中には、文通にまで進んだ例も。中には仕事一辺倒の例もあるが、女性たちも40代になると結婚に焦るようである。「相手が身障者でも良いから、結婚したい。独身のままでは寂しい」と手紙などで訴えていた女性も複数いた。それで僕もメールや手紙のやりとりを多くの女性たちとしてきたが、全く結婚縁はできなかった。戦前はイエ制度の思想の下、結婚した例が多かったが、戦後はどうも恋愛感情が男女をつなぐらしい。結婚縁ができない理由について、少し前までは僕は「メールの限界。相手の姿が見えないから」だと思っていた。だから、恋愛感情も湧かず、御縁にもならないと。でも、違ったようだ。例え会えなくても、写真交換すれば、それに近いものが補える。実際は、僕も、出会った全女性も「恋愛は熱く、激しいもの」と思い込んでいたわけで、すでに中年期に入り、そのような気持ちがどうしても出なくなったから、相手の事を良いなあと思っても、それを恋愛の卵だとは気が付かなかった点にあったわけだ。気が付かなければ、何もできない。高校時代に読んだ数学者の岡潔氏の随筆集によると、「情緒とは何気なく、よいなあと思う事」だそうだ。ならば、むしろ、情緒性に根差す高度な恋愛の可能性に僕もこれまで幾度も出会ってきたが、以上のも固定観念があり、チャンスを逃してきたようである。コスモス恋愛が本当に可能ならば、気が付いて良かったと思う。

   因みに、40歳過ぎると、異性に熱くなれない理由だが、2つあると思う。一つは、性欲みたいなものの減退。体力も次第に衰えていく以上はそれは当然である。2つ目はもっと大きいはず。

   人生経験を重ねて、他人に余り期待しなくなるわけである。従って、異性にも、恋愛にも余り期待しなくなる。そうならば、熱くなれない。若い時の特に異性への期待感は、相手が私の心の支え・救世主になってくれるという幻想にも似た想いから来ているようである。でも、経験を積むと、自分の力の限界をまず悟り、次いで他人の限界も悟る。自分が他人の救世主になれないのならば、異性も私の救世主にはなれないと悟るわけである。それは当然にしろ、本当はそこから男女縁も始まってくるわけである。弱い男女が相手を深く思いやるという形で。弱さにこそ、人間の真の魅力はあるわけだから。

  長い独身例も日本では特に増えているが、考える材料になれば良いと思う。(尚、先のブログでも書いた通り、高齢者でも若者のように相手に強く期待して求め合う恋愛も増えているようです。人生経験にもよるし、ケース・バイ・ケースである事も付け加えます)

死意識と真の恋愛

2018-10-19 13:25:53 | 日記
  三木清という哲学者がいる。1945年まで生きられた人で、戦前の若者たちにその著作は人気があった。その哲学の核は「人生至る所に青山あり」。「青山」とは、お墓であり、死の事である。何分、戦前は中学生でも読んで理解できたとか。


  高校時代に現代国語で取り上げられ、また、僕もその本を買って読んでみた。さっぱり判らなかった。同級生全員が判らない。僕も、クラス一頭が良い人も「生きるのを論じるのが哲学なのに、何故、死ぬ事が核なのだ。虚無主義ではないか」と思ったわけだ。でも、今は判る。当然だと。また思うに、戦前は徴兵や戦争があったし(文末に注.)、結核が蔓延し、冬も暖房がなかったため、インフルエンザや風邪でも多くが亡くなっていた。まさに「至る所に青山あり」だったのだ。若くても、否、小学生の時くらいから誰でも死を意識しただろう。ならば、三木清の哲学も中学から判ってもおかしくない。現代では、大学生のかなりもその哲学は判らないのかもしれない。


  戦前の人たちの事を更に述べると、若者は一度恋愛すると双方深く思いやり、愛し合い、親が反対すると「駆け落ち」もしたわけである。戦前のものを扱った小説やドラマにもよく出てくるが。本当に魂ごとの恋愛になった。また、明治後半から大正期には、身障者や盲人などが盛んに恋愛した。結婚例も多かった。健全者たちも障碍者への差別はあるものの、恋愛の時は応じた例が多かったと。一部の本でもその記録の一部は残してある。恋愛のままの例もあれば、結婚して、例え貧しくても心合わせて幸福に生きた例も多かった。僕がその事を最初に聞いたのは、1977年、例のS園で文士である野口栄一氏の随筆集から。「昔は障碍者でも結婚できた」と書いてあった。当時の僕は「そんな事はないだろう」と心の中で思ったが、よく知らない事だから、反論はしなかった。後年、本やテレビでその事をたくさん知り、反論しなくて良かったと思った。それはともかく、死を意識すれば、少なくとも、恋愛面での身障者などに対する差別はなくなるようである。健全者同士もそういう状況だから、対身障者もそうなると言おうか。

   でも、戦後は張り詰めた恋愛は非常に減った。寂しいから男女が求め合う事が増えたわけだ。その場合、相互の思いやりに欠け、すれ違いに大体終わるし、結婚しても余り幸福にはならないわけである。確かに、平和で、暖房も完備され、インフルエンザで死ぬ事もないし、結核もかなり克服された。その上、死にそうな人たちは病院に。死を認識する事が難しい社会になっているわけである。ならば、恋愛も不活発になる。健全者同士でもそうならば、対身障者はもっと難しく、福祉関係の番組で時々話題になるように、身障者たちの深刻な恋愛・結婚難の状態になるようである。そこに更に社会的な孤立も重なり、僕が行ったS園の大人の身障園生たちはもっと困難な状態があった。僕がS園に関心を持った一番の理由もそれだし、そこに限らず、身障者のその件に強い問題意識を持ち続けていた。

   ところで、大体、30年前からラジオやテレビで、福祉関係の現場の人たちの声として、高齢者恋愛が増えているという事をよく聞くようになった。年々多く聞くようになり、近年は高齢者の三角関係による殺人事件という痛ましい事件も聞いた。「高齢者は死が目の前に迫っているから、一度恋愛すると猛烈に燃え上がる傾向にある」とも聞いている。

   更に、子や孫もいる高齢者カップルが結婚を希望したが、双方の子や孫が(二人が他界した時の)遺産分配が複雑になるからの理由で反対している、という事もラジオで流れていた。その後はどうだったのだろうか。「子や孫」もまさにイエ。昔は若いカップルがイエのために結婚できなかった例が多いが、今は高齢者も。非常に皮肉に思うし、イエ制度の問題は形を変えて今の日本にも深刻に在りつ続けている事も示している。

  以上の僕の意見だが、例え80代や90代だろうが、子や孫が居ようが、二人が好きなら自由に恋愛し、望めば同居恋愛なり、結婚もすれば良いと思う。「高齢だからダメ」はまさに差別に当たるし。それゆえに、そのようになった場合の遺産分配ルールや法律も作る必要もあると思う。そのように世論も変えていく必要があるとも思っている。

   どうも日本では、ある意味では、死の件以上に、恋愛や結婚の問題が見つめられていない気がします。そのしわ寄せを早くから身障者たちは受けてきたし、今は高齢者もそのようになりつつある。また、健全者たちも「非婚化・離婚増加」という形で、しわ寄せを受けているわけである。本当はそれも深刻な問題である。

   (注の説明。そのように書いたからと言って、徴兵制や戦争に賛成しているわけではないです。誤解を防ぐため、述べました)