トシコロのありのままの暮らし


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実録小説・シマハタの光と陰・第4章・開園まで

2018-07-21 09:25:52 | 日記
   1960年の内に、島畑氏から譲り受けた多摩市の小山の山腹の一角に、施設となる鉄筋コンクリート造りの建物が建ち始めた。林田博士は希望に胸を含まらしつつも多忙になっていった。施設の看護人員の募集と、金策に。


  「このまま建物ができて、障碍児が集まっても、看護する人たちが足りなければ、施設は成り立たない。それに、人件費や園児の医療費、食事代、暖房・光熱費も必要だ。寄付も方々から求めないといけない。赤字にしたら、大変だ。とはいえ、私は経済学は本格的には学んでいないし...」。

  新たな悩みが浮かんだ。それがゆえに、着工現場もそこそこに見ながら、林田博士と島畑氏は方々に駆け回ったり、手紙を書いたり、電話を掛けていた。

 

  「もしもし、林田です。NHK山形支局ですか。ラジオの地域広報番組のわずかの時間で良いですから、近くできるシマハタ療育園の看護職員募集の広告を流してもらえないでしょうか。その原稿は私が書いて、なるべく早くに郵送しますから。寝たきりなど、体の不自由なお子さんのための施設です。家みたいなものですね。病院を兼ねた...」。

 「もしもし、林田です。福島新聞でしょうか。その片隅で構いませんから、近くできるシマハタ療育園の看護職員募集の記事を書かせていただけないでしょうか。その原稿は...」

    東京の繁華街にある芸能チャリティ協会の事務所などにも行き

    「私は林田と申す者です。医者です。障碍児を世話して暮らす家みたいな所を作ろうとしていますが、お金が足りません。何とかお願いできないでしょうか」と深々と頭を下げることも多かった。医学博士として、世間から称賛を浴びてきたが、そのようなプライドもかなぐり捨てて、祈るように看護人員と寄付金を集め回ったわけである。他に、与野党の国会議員や福祉関係の役所にも、予算配分のお願い。そのほか、園児の生活プランや医療方針を立てなければならないし、医療機器の購入とそのための費用も必要である。島畑氏はかなりの金額も寄付してくれたが、足りない。

   「お金が足りない。これでは、開園後も赤字続きになるだろう。どうしたものか」

   林田博士はお金と人員のことをいつも考えて、医学の勉強は全然できなくなった。脳性まひ関係も、ポリオ後遺症関係も、医学は日進月歩しているのに...。




   世間は日米安保条約改定で大揺れのあと、岸信介内閣は退き、高度経済成長の夢を高らかに上げた池田勇人氏が1960年6月に総理大臣に就任した。人々の関心もお金に移っていった。多くの人たちが池田新首相の就任演説を聞き、金持ちになる事を夢見た。そのような世相の中で林田博士はシマハタ療育園建設を始めたが、必要なお金を得るあてもなく、その心配に明け暮れたわけである...。

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今まで「人格・人権」が認められなかった私見

2018-07-19 12:59:00 | 日記
 非常に長く続いた封建制社会のせいだろう。何も日本だけではない。アフリカと中南米諸国は「植民地化」のせいかもしれないが、それ以外の国々についてはそう言えると見ている。中には「明治以来の文明化や資本主義発達のせい」と言う人たちの声も耳にするが、江戸時代以前は身分差別も厳しいなど、更に人格などは認められていなかった。ミクロ的に見ても、大家族制で大家長の言う事が絶対的で女性の権利は弱く、男性も次男以下はそうだった。


  キリスト教も、イスラムや仏教も元々は人格などを認めていたが、それぞれ封建制に取り込まれ、認めないものに変質していった。アメリカの翻訳書には時々「キリスト教が人格の持つ力を否定して教えているから、(キリスト教圏の)多くの人たちが人格や魂の持つパワーに気が付かない」という文言が出てくるが、実際は「封建制度の影響を長く受けた教会」が正しい表現ではないかと思われる。ルネッサンス期には人間性回復の動きも出たが、まだ人格・人権の問題には知識人たちも気が付かなかったようである。時は経ち、フランス革命の後、ナポレオンが女性の人権をかなり認める法律を作るなど、本当に少しずつ人格・人権は認められる方向に動き、特に第二次世界大戦後は顕著になっている。その中でも、北欧諸国は認められ方のスピードが速いわけである。

   日本の封建制離脱は西洋に比べてかなり遅れて、1868年になったが、明治維新から見ると人格・人権はかなり認められているなど、進歩しているわけである。第二次世界大戦後に限って見てもそうである。まだまだ不十分とは言え、身体障碍者・知的障碍者・ハンセン氏病元患者の人格・人権も世間から注目されるようになったわけだし。

   その個人の人格も多様であり、それを知ると他人に対しても、自分自身に対しても実に様々な面が見えてくるから、それだけで交友は楽しくなるし、自分の事も面白くなるわけだが。楽しい人生や交友、男女交際、結婚生活もできるわけである。
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その「人格」の日本の歴史

2018-07-17 13:15:09 | 日記
 歴史的に見ても、人格が公に述べられたのは明治時代に作られた大日本帝国憲法の時であり、さらに強力に保証されたのは日本国憲法の時である。江戸時代までは封建制度で人格は認められず、明治になり、議論されるようになった。特に、大正デモクラシーの時はかなり認められる動きがあった。その時は女性や身障者、ハンセン氏病患者などの人格・人権を認める運動も起きた。しかし、アジア太平洋戦争になると、また人格は抑圧され、朝鮮半島では日本風に名前を変えさせられた。本格的に公に認められるようになったのは戦後である。ただし、それも次第にお金に価値がとって変わられ、人格第一主義にはあまりなっていない。つまり、「日本社会では、人格の観念の尊重途上」の状態である。少しずつは良くなる兆しは見えるかもしれないが、例えば、児童や障碍者への虐待事件が跡を絶たない事を考えると、まだまだである。


  社会自体がまだ人格を尊重から遠い状態ならば、人格ごとの愛などは思いつかない人が多いのも当たり前ではないか。そして、感情だけ、性欲だけとか、一面的な人格理解などの状態などで結婚して後はケンカになり、離婚か不幸になる事が多いのも当たり前である。元々は離婚は明治から多かったが、情報が流れなかったため、昔は目立たなかっただけなのだ。

  でも、いくら社会が未発達でも、気が付いた人たちはそうすれば良いではないか。少しずつの人たちから人格を認める事をしていけば、社会は変わっていくわけだから。

  人格よりもお金という高度経済成長期の風潮も、憲法に保障された人格・人権の観念がまだ浸透しない時に高度経済成長期に入ったから、そのアンバランスで起きた現象であり、福祉切り捨てやらい予防法もその関連で起きたような現象である。一切が関係しているわけである。
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人格ごと惚れ合う・愛し合うについて

2018-07-16 11:01:02 | 日記
 思えば、僕が求め続けてきている愛もこのようなものである。また、それは何も男女に限らない。日本では昔から「男心に男が惚れて」と親友間の心情も歌われてきているし。僕も二回経験がある。一つ目は、言うまでもなく、S園にいた寝たきりの文士の野口栄一君。特に、大正デモクラシー時代を述べたと思われる「昔は、身障者も結婚できた」という随筆的な文は僕の心を打った。もう一つは、詳しい事は省くが、生まれてきた子に障碍があると判り、クリスチャンではないのに、「神様にあずけらたと思って、大切に育てます」と手紙に述べてきたあるママである。それにも僕は惚れたが、それも人格愛である。そのような人格ごとの愛は今は滅多に出会えるものではないが、僕は求めてやまないものである。勿論、そのような人格ごとの愛から結婚できれば、幸福な結婚に至るわけだが。


   ところで、以前も書いたかもしれないが、感情的な愛から結婚してすぐ愛が冷めて、離婚や不和になる例が多い。世界的かもしれない。アメリカでは、その問題を心理学者たちが真剣に取り組み、恋愛感情は3年しか続かないと論文を書いた学者もいると聞いた事もある。深刻な状況だから、日本の心理学者たちも本格的に研究に取り組めば良いのにとも思う。

  では、多くの人たちの恋愛の何が欠けているのだろうか。全人格の求め合いかもしれない。人にもよるが、かなりは性愛を得たい気持ちが上すべりして、互いに相手の女の面、男の面だけしか見ず、深い深い人格を意識しない。性の面も人格の一部には違いないが、あくまでも「一部」であり、複雑多様・多面。これが人格だから。やはり、何らかの障碍を持つ人に対して、その障碍だけを見ても一面的な見方になり、交友は成立しないが、それと同じ現象が男女の間にも起きるのである。ただし、男女の間には性行為が伴う例が多いが、それが厄介である。相手から一面しか見られていない、人格を見てくれない事に気が付くと、非常に寂しくなると聞いた事がある。特に、女性は相手にその気はなくても、レイプされている気がして、情なくなり、相手を拒絶もするようになるそうだ。人格ごとの求め合いがない関係では、特に女性がそのように思うのも仕方ないし、イヤがる気持ちは男の僕も察する事ができる。又、男側も非常に寂しくなる。そのような声も複数僕は聞いた。

  相手と付き合う時、「あれは女だ・男だ」と単に思い合うのも男女差別に当たるかもしれません。双方が差別し合うと言おうか。やはり、障碍を持つ人にその障碍ばかりに目が行き、人格に気が付かない事は差別に当たるように。「女だ、男だ、障碍者だ」と思って良いのかもしれないが、肝心の「人格」を見落としたら相手に迷惑を掛けたり、差別する結果にもなるわけです。無論、外国人や社会少数者に対しても同じです。人は複雑多様な人格があるから、人間なのです。人格がなければ、アリと変わりがなくなる気がします。因みに、人格は本当に一つ一つ違います。(身障者で「性愛の対象にさない」と悩む・怒っている人も多いわけですが、皮肉な事にその男・女という見方にも以上の問題があるわけです。もし、社会の多くの人たちが付き合いで人格を重視するようになったら、身障者たちのその問題も消えるわけです。人格の問題にかなりの身障者も気が付いていないわけです。それでは、問題は解決しないのではないでしょうか。昔の僕も「性愛の対象にされない」事を怒りましたが、根本問題は「人格」でした。又、「己の如く、隣人を愛せよ」の聖書やコーランの教えも、自分・他人の人格を尊重しないと成立しないものです。仏教の「我が子のように、全ての人を愛せよ」も同様。人格尊重を背景に聖書などを読むと理解できるわけですね。)



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「空飛ぶ人」の写真

2018-07-13 15:19:25 | 日記
  インターネットにあったので、お見せします。顔や体は色々あるわけです。今は「人間みたいな者」が世界中で目撃され、写真にも撮られているわけです。

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