トシコロのありのままの暮らし


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玄宗皇帝は楊貴妃を愛していたか?

2018-09-22 10:40:22 | 日記
  「長恨歌」の通り、玄宗が楊貴妃に贅沢三昧の暮らしをさせていたと仮定しての話です。


  勿論、当時の低かった教育状況は考慮しなければなりませんが、玄宗には「女は、うまい物を食べさせ、美しい着物さえ与えれば、幸福になれる」という意識が僕には見えます。愛は物質という考え方ですね。確かに、昔も、今もそのような考え方は世界中にあり、それを求める女性もかなりいるらしいですね。それはともかく、玄宗に限って言えば、女の人たちを下に見ているように僕にはどうしても感じられます。尊厳とかは見られません。相手への尊厳のない愛は愛と言えるのか。言えないと言わざるを得ません。強いて言えば、玄宗自身の何かのエゴや欲望を満たすために楊貴妃にそうしていたと言おうか。皇帝という立場も、そのような意識を産んだのかもしれませんが。また、贅沢をさせることが、思いやりかと言うと、それも違うわけですね。その贅沢のお金の出所も当時の農民などの税金から取ったものだし。本当の思いやりや愛は、相手を越えて、本当に多くの人たちにまで繰り広げられるものです。狭かったわけでもあると。その面からも愛とは言えないと思われます。


  その種の問題は、全く裏返して、身障者の健全者への男女愛や親友関係にも言えますね。相手には贅沢はさせられないですが、相手への尊厳は非常に強いものがあると。そのような例も僕は複数見てきましたし。それと比べても、玄宗は楊貴妃を愛してはいなかったと思うわけです。更には、物欲に限りがない今の経済社会の問題にもつながってきます。「長恨歌」は決して過去の事ではありません。
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テレビのグルメ報道と、楊貴妃などの虚実

2018-09-21 13:57:20 | 日記
  日本でまだグルメという言葉がなかった1970年前後、フランスの高級レストランの様子が盛んに報道され、まだ小中学生だった僕は勿論、一緒に番組を見ていた父も「フランス人はご馳走をよく食べる。贅沢をしている」とステレオタイプ的に思ったものだ。その後、実際にフランスに勉強などで行った人たちから「実際は、多くのフランス人は安いものを食べて生活している。安いものをおいしく食べる工夫は盛んだが、贅沢をしているわけではない」と何度も聞かされ、テレビ報道はウソではないが、偏っていると思い知らされたものです。


  その日本がバブル景気に浮かれていた1980年代後半には、それで大儲けした人たちがグルメを多く食べ、その様子がテレビ報道されました。外国にも報道されたから、外国の人たちは「日本人の全てがご馳走を食べている」とステレオタイプ的に思う人たちも出たかもしれません。でも、僕はそうではなかったし、当時の僕の多くの友人たちもそうでした。外国の人たちにステレオタイプ的に日本人が思われたら、たまらないと思ったものです。

  近年は、中国の人たちがご馳走を食べる場面がテレビでよく報道されます。でも、今の僕は中国人をステレオタイプ的には見ていません。確かに、今の中国にもそのような人たちもかなりいるでしょう。その報道はウソではありません。でも、真実の一部しか伝えていないわけです。GDPが高い今の中国でも、ご馳走を食べるお金がない人や、お金はあっても、ご馳走が人間の幸せではないと気が付いている人もたくさんいるわけです。どの国も人々の生き方は多様ですから。報道の力には限りがあるから、偏るのは仕方ないのかもしれませんが、ならば、マスコミを信用しない事ですね。報道された事を「それだけか」と疑い、様々な角度から物事を見てみる事が大事かと思います。

  歴史を見る時もそうかもしれません。ラジオのNHK第二放送で、土曜日の午前10時から(本放送は、午後8時30分から)漢詩=中国古典詩の講義番組があり、僕はいつも聞いています。今年度は、長恨歌特集。唐の皇帝の玄宗の時に起きた事件ですが、確かに楊貴妃の一族が皇帝の権威を利用して、悪い事をしたのは事実です。でも、楊貴妃自身の生活はどうだったのか。歴史の事も多くの人たちが大げさに語られる話も付け加わりますから、どれだけ楊貴妃が贅沢な暮らしをしていたのか、後世の我々には判らない面もありますし、又、本当に贅沢な暮らしをしていたとしても、それで楊貴妃自身が幸福だったのか?は何とも言えないわけです。というより、時代状況もありますから、楊貴妃は何が幸せなのか、自分では判らなかった可能性もあるとも考えられます。本当に楊貴妃の霊に聞かなければ、判らない事でしょう。フランスのマリー・アントワネットにも言える事ですね。歴史を見る時も、自分の頭で考えてみないといけないと思います。マルクスの「資本論」を読む時も僕はそのように心掛けています。

  とにかく、ウソではないが、「偏った真実」を目にする時の判断は誰でも難しいわけです。
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フォアグラなどの問題を見るに当たっての注意点

2018-09-19 10:17:29 | 日記
  この種の件で批判・反省すべき事は、自分を含めた、他者を傷付けてまでもおいしいものを食べたいというエゴイズムだけです。その他は批判などには当たらないと思います。


  というのも、このような問題でよくガチョウにトウモロコシを無理やり食べさせる人とか、それを屠殺する人を「かわいそうだから」と非難する人が世間にはいるようですからね。でも、彼らは仕事としてしているまで。世間にそのようなニードがあるから、仕事として成り立ち、しているわけですね。世間の人たちの意識が変わり、動物共生に対する理解が増えた世間では、そのようなニードはなくなり、以上の人たちも別の仕事をするわけです。例えば、食べ物関係でも、豆類から人工肉を作る仕事とか。すでにアメリカでは、そのような人工肉の開発がされているらしいですが。


  従って、以上のような仕事をする人たちも悪くないわけです。悪い根、罪や残酷さの根は、冒頭に記したエゴイズムだけだと思います。それは根が深い問題ですね。残酷な事をしてまでもおいしいものを食べたいと思う人は欲望やエゴイズムに自分が支配されているわけですが。僕の友人にカトリックの人たちが何人かいますが、そのカトリックの7つの大罪の一つに、大食があります。僕なりに思うに、食欲に自分の心が支配されてはいけないという戒めでしょうか。それと全く同じ戒めが仏教関係にもありますが。それらは古(いにしえ)の知恵であり、信仰に関係なく、現代人も耳を傾けなければならない事ですね。(因みに、「資本論」には人々の欲望とか幸福の事は書かれていない。経済考察の鋭さは認めなければならないが、仮にマルクスの言う通りの社会が実現しても、今度は労働者や身障者が欲望やエゴイズムを求め、例えば、自然破壊や動物虐待など、どうにもならないしゃかいになるのではないか。現に、旧ソ連では、カスピ海などの汚染がひどかったし。経済構造も大事だが、それだけでも社会はないわけです)

  昔の僕もグルメを追及しました。ただし、日本に住んでいてフォアグラに出会わなかっただけで。出会っていたら、喜んで食べたと思います。ガチョウを肉を作る機械だと思って。その後、考えてそのおかしさに気が付き、又、グルメは人を幸福にしない・自分の求めているものではない事にも気が付き、更に今になり、フェイスブックで動物共生運動をされている方とも知り合い、改めて考えてこのような事を書く事に至りました。その運動をしている人たちには敬意を表しますし、又、情に流される事もないように願うわけです。
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フォアグラの問題から突き付けられている事

2018-09-18 13:39:09 | 日記
  昨日のブログの補足ですが、「共に生きるか」、それとも、「贅沢をするか」をフォアグラの問題は全人類に突き付けていると思います。他にも似た例はあると思いますが、僕はグルメの事はよく知らないし、お国を越えて一番判りやすい例なので、述べたわけです。


  現代では、アヒルに大量のトウモロコシを機械で食べさせるわけですね。アヒルは言葉は発せられません。一部の動物学者は、鳥類や狼、猿などにも言葉はあると述べていますが、仮に言葉はあっても我々人間には聞き取れないわけです。でも、感情とか、痛みを感じる事はある。そのような脳も持っているから。言葉が判らない動物をそのように扱う事は、やはり、同様に言葉が通じない外国人とか、言語障碍や聴覚障碍、知的障碍を持つ者にも無意識的に同じ感覚を当てはめ、切り捨てる事になると僕は懸念しています。それらの差別と大いに関係あると。

  また、視点を変えて、グルメ会は人を結ぶのか。難しい問題ですが、一緒にぜいたくな物を食べたり、高級ワインを飲んでも、構成員たちはどうしても飲食物に気持ちや目が行き、上べだけ仲良くなり、例えば、お互いの持つ悩みや社会への問題意識を語り合う事はないのではないか。友人や仲間になれないのではないかと。実際、僕もそのような会の場で経験したからよく判りますが。ごちそうを食べる会が終わり、帰宅すると、持っているはずの構成員の一人一人の悩みみたいな事が思い浮かばない。皆もそうだったらしく、「ごちそう会はおかしい」という手紙をいくつも頂いています。その会は元々は福祉関係の会でたが、会員、特に新人たちの自発性引き出しに失敗し、飲食会みたいになったわけです。僕もグルメを食べる為にその会に行ったわけでもなく、おいしいものを食べながら、寂しく感じていたわけです。

例えば、日本の場合、秋のさんま、冬のお餅など、季節に合わせたものをおいしく食べる事は大切な文化だし、そのような事は僕も大好きですが、グルメに偏った生き方とか発想は余りにも狭い気がします。時々「人間の幸せはおいしいものを食べて、楽しくやる事だ」という声も聞きますが、本当にそうなのか。僕には真実は判りませんが、自分は違うと思っています。それよりも多くの人たちと友人になったり、空の雲や星などを見たり、植物を見たりする方がはるかに楽しいと僕は思うわけですが。
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動物共生と障碍者問題

2018-09-17 12:52:21 | 日記
  ペットを飼っていないせいか、世間で言う所の動物愛護の事に疎かった僕だが、フェイスブックでそのような記事を数多く投稿されている方と知り合い、考え込み、この面にも目を向けてみた。


  まず、言葉の問題だが、僕特有の感じ方のせいかもしれないが、「愛護」という言葉が気にかかる。人間が動物を保護して上げるという感じで。我々人間も動物の一種に過ぎないし、しかも、後発の動物でもある。同じ命も持つ。彼らの言葉が判らないだけで、犬も牛も感情はあるわけで、痛みも感じる。だから、僕は「動物と共生」とか「尊重」という言葉を使いたい。


  前置きはともかく、動物たちは人間に通じる言葉を持たない。同種の動物同士は通じ合う言葉も持っているものもあるかもしれないが、我々には判らない。ものも言えない動物たちも尊重し、動物たちへの虐待や虐殺にも敏感になり、反対運動も繰り広げられている人たちは本当に優しい人たちだと最近気が付き、尊敬の気持ちも持った。考えてみれば、それは人間の中の障碍者問題にも通じるわけである。何故なら、重い知的障碍を持つ方たちがまさにそうだし、僕もそうだが、言語障碍を持つ人たちも同じである。例えば、何かの痛みに「アー・ウー」と、言葉にならない音声を発する事こそ、痛みや感情の究極の反応であり、真の言葉だとも思われるからだ。また、僕自身も子供向け科学の文にはよく生物の事を述べ、「命の尊さ」を述べているが、動物共生を目指している人たちと同じ目的を持っている事にも気が付く次第である。

  ところで、昔から僕が動物虐待だと思い、問題に感じている事に、フォアグラの事がある。ガチョウに無理やりトウモロコシを機械で流し込むように食べさせて、その結果、炎症を起こして油が乘った肝臓を食べる。今はそれへの批判や反対も世界中から出ているようだが、非常に残酷な事ではないか。ガチョウの痛みはどうなる。もし、牛など、他の動物を殺して食べなければならない宿命が我々人類にあるのならば、せめて苦痛を与えない殺し方をしなければならないと。

  また、フォアグラのように、他の動物に非常な苦痛を与えてまで、グルメを求める今の人間たちの生き方や価値観も何なのか。確かに、誰でもおいしいものを好むが、おいしいものを常に食べて、人は本当に幸せになるのか。個人個人の価値観にもよるが、僕はそうは思わない。グルメにばかり関心が行くと、他人の事も余り考えられなくなり、友人もできなくなるのではないかと。そんな気がしてならないからだ。おいしいものを食べる為に生きているとしたら、余り生きる価値はない気が僕にはするわけです。

  とにかく、人間は後輩の動物に過ぎません。地球の王様なんかではないし、自然を勝手に改造し、支配する事はできない。苦痛を与える事はできないわけですが。

  もう一つ。一部には動物虐待を意識的にする人たちもいるわけです。そのような人は他人や社会に劣等感を持っています。意識的・無意識的に自分と他人を比較して、自分は劣ると勝手に判断し、その反動で動物をいじめて、支配し、優越感を持ち、ウサを晴らすという。封建時代以来の「中心・トップと辺境」という社会構造が根にあるから、そのような人たちにいくら命の大切さのお説教をしても効果はないでしょう。でも、封建的な社会構造が消え、一人一人が中心になり、尊重されるような社会構造になった時、そのような動物虐待も消えると僕は見ていますが。そうなってほしいものです。そのような社会では、障碍者差別や家柄差別なども消えるでしょう。
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