初期S園=小説名.シマハタの様子は77、8年に職員や、三浦氏という身障園生の証言を基に僕なりに再現してみたわけです。「我が子のように愛せよ」と言われた事は事実です。また、一職員から「職員としての私の幸せは、園児たちの楽しみを我が喜びとする事。お母さんみたいに」とも聞いています。これが聖書の愛だと信じ込んでいた職員や後援会の人たちも多かったわけです。「(小説名)林田博士からそのように教えられた」との職員の証言もありました。
ところが、旧約・新約聖書には「己の如く、隣人を愛せよ」とありますが、「我が子のように」とは書かれていませんね。それどころか、旧約聖書の、神がアブラハムに息子を差し出せと言った事や、イエスが新約聖書の至る所で、父母への愛を相対化する事が書かれているなど、キリスト教と矛盾さえする事である事が今の僕には判っています。そのままストレートに述べたら、世間に聖書への誤解を広めかねないし、この場面を描かなければ、後の話の展開はできず、そのまま中止にもなります。困ったものだと思い、一ヶ月間、考えこんでいました。そして、改めて新旧聖書の親子観を見てみようと聖書を読み、注釈を付ければ良いと思い、そうしました。
思うに、林田博士は医者として忙しく、じっくり聖書を読む暇もなかったから、愛の事も誤解した面はあると思います。また、どういうものか、日本人のクリスチャンには同様の誤解をする例が多い。母性傾向が強い日本社会の風土がそうさせるのでしょうか。遠藤周作氏が追及したテーマでもありますね。でも、母性愛だろうが、父性愛だろうが、人間のする愛には違いなく、それも非常に狭い身内に限られた愛でもあり、愛の対象に対しては平等でもないわけです。親子愛的なものには限界があります。シマハタの問題の非常な大事な点でもあるわけです。それは「今後」に深く絡みます。
ところが、旧約・新約聖書には「己の如く、隣人を愛せよ」とありますが、「我が子のように」とは書かれていませんね。それどころか、旧約聖書の、神がアブラハムに息子を差し出せと言った事や、イエスが新約聖書の至る所で、父母への愛を相対化する事が書かれているなど、キリスト教と矛盾さえする事である事が今の僕には判っています。そのままストレートに述べたら、世間に聖書への誤解を広めかねないし、この場面を描かなければ、後の話の展開はできず、そのまま中止にもなります。困ったものだと思い、一ヶ月間、考えこんでいました。そして、改めて新旧聖書の親子観を見てみようと聖書を読み、注釈を付ければ良いと思い、そうしました。
思うに、林田博士は医者として忙しく、じっくり聖書を読む暇もなかったから、愛の事も誤解した面はあると思います。また、どういうものか、日本人のクリスチャンには同様の誤解をする例が多い。母性傾向が強い日本社会の風土がそうさせるのでしょうか。遠藤周作氏が追及したテーマでもありますね。でも、母性愛だろうが、父性愛だろうが、人間のする愛には違いなく、それも非常に狭い身内に限られた愛でもあり、愛の対象に対しては平等でもないわけです。親子愛的なものには限界があります。シマハタの問題の非常な大事な点でもあるわけです。それは「今後」に深く絡みます。