前日は詐欺対策を考えてきたが、例えば、10年前の僕が書けば、単に「警察と政治の怠慢。もっと国会は強力な取締法を作り、警察も取り締まりに努力すべき」としか書かなかっただろう。僕は元々はそのような考え方だった。
それがいつの間にか、「人々が強く連帯し、詐欺を防止する」という考え方に変わっていた。同様の人たちも日本では多いと聞いている。意識が変わった理由は色々とあると思うが、その事実は客観的に受け止めたいと思う。
何も詐欺だけでもないと思う。非正規労働者問題も、人々が連帯していった果てに解決されるものかもしれない。今の日本ではまだ連帯初めで、そのような人たちに「同情しても始まらない」という発想の人が多いと思うが、連帯していけば、誰もが自分の事みたいにとらえていけるようになる可能性はあると。
又、重度身障者たちの仕事の問題も、人々の連帯が緊密になっていった果てに解決できるかも知れない。その件だが、当然、一人一人やりたい事も違うし、40年前に障碍者団体でしきりに話し合われた事もあったが、結論などは出ず、僕含む、多くの身障者が「考えても問題は解決されない」と思い、投げ出した経緯がある。当時は世間の連帯という発想に非常に遠く、世間を抜かして、身障者のその問題ばかり見ていたから、何も見えなかったわけである。
同様に、障碍を持つ人たちを含む結婚の問題も、本当は世間の連帯が下敷きになるものだと思う。連帯がなければ、障碍の有無に関係なく、結婚した所で続かないではないか。
一足お先に北欧諸国では、そのような連帯福祉社会が築かれていると聞いている。少ししか僕は知らないので、コメントできないが、その真似はせずに、日本は日本なりの連帯社会を作ってほしいものだと思う。
(因みに、フェイスブックは連帯ができやすいサイトらしい。そこで知り合った東北地方の児童NPOと僕は縁ができ、子供向け科学の文を書かせていただいている。積み重ねれば、僕なりの仕事になるかもしれないわけで、連帯から全ての人の仕事ができるという例の一つになるのかもしれない)
追伸的に書くと、40年前の首都圏の身障団体は、身障者だけが集まり、「障碍者の仕事とは何か」とか「生活介護者」、「障碍者の結婚」みたいな事ばかり話し合っていた。全てに渡り、答えが出ず、会員たち全員が話せば話すほど、落ち込んでいった。当然だったと。「世間とのつながり」がない状態では、それらの問題は絶対に答えが出ないわけだから。「身障者だけ集まる」という発想もおかしかったわけだし。ボランティア関係も似たようなものだった。ボランティアだけの会合を作り、これも世間とのつながりは考えなかったから。
そうなっていた根の一つは日本の学校かもしれない。本当に先生と生徒、父母だけの世界を作り、世間とのつながりを欠いているから。今は社会学習を増やすなど、改善の方向に向かっているが、まだまだ閉鎖的である。そのような場に子供時代に通うと、世間とのつながりを考えないような人たちになってしまうと。その他にも理由は色々あるのかもしれない。