トシコロのありのままの暮らし


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「教義と、歴史的因縁」の補足

2015-06-30 13:37:09 | 日記




  「従順」にこだわった余り、アジア太平洋の時はその教派は大日本帝国政府の戦争政策に協力した。戦後、「何故、協力したのか?」の内部議論を延々と続けている。その会議の一つにも僕は出ましたが。答えは出ていないし、いくら論じても歴史が変わるものでもないのに。又、「これからどのように生きるか」という視点が欠けています。その教派を今後も本当に続けたいのか?という点も。とにかく、反省の気持ちを持ちながらも、未来志向になり、戦争相手の中国やフィリピン、アメリカの人たちと付き合って行かなければ仕方ないですが。日本人同士だけで論じても始まらない気がします。

  答えですが、やはり、「従順」にこだわりすぎたのと、聖書や神に従順でもなかった点もあったと思います。又、その本国の人たちがその事を教えなかった点も。教えられなければ、自分で学べばいいものの、そのようにもしなかったわけですね。


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その教派の教義と、歴史的因縁

2015-06-30 11:56:31 | 日記



  僕に述べられるような事ではないが、書こう。

  僕もそこで「愛=従順」だと教えられた。そこでは、断定的にそのように伝えられているようだ。しかし、パウロも実に愛について多くを語っているように、多様な面があり、「従順」だと語り切れないわけである。後年の福祉キャンプの経験から、むしろ、「愛=生かし合い。お節介にならない程度に、積極的なものではないか」と思ったほどだ。

  今の僕は「愛」には程度があり、従順も愛には違いないが、弱い愛だと解釈している。確かに、従順にこだわると、各自が消極的になり、他人や上の人に言われた事をする事しかしない。自主的な行動や勉強はしなくなるから。又、弱い愛の観念ならば、自分のエゴや欲望も抑えられないだろう。「性的虐待」の欲望が出ても、抑えられないものかも知れない。

  とにかく、その教派に深入りした人たちは自主性が弱く、他人や社会にも積極的に関わろうとはせず、内輪話や、内輪でふざける事を好む人ばかりだった。
  その教派が日本に伝えられたのは明治時代=19世紀後半。世界はまだ植民地化の時代だった。その教派は本国政府や商人、資本家たちと一緒になり、アフリカやアジアなどの地の植民地化に協力した。現地の人たちには、聖書の一部にしか過ぎない「従順」を強調して教えて、文字通り、従順に働かせて、経済や自然資源を搾取していった。何もその教派に限らず、多くのキリスト教派が植民地化に協力したようだが。一方、19世紀後半の日本も後進国には違いなかった。それで植民地用の教義を教えられ、以後も伝えているという推測が成り立つ。とにかく、人間は内輪の事ばかりに目が向くと視野も狭くなり、活力も出ず、小さな生き方になってしまうものだから。心が奪われたようになる。近代期、アジア・アフリカ・中南米の植民地支配が長期に渡ったのもわかる気がします。

  こんな比較はおかしいかもしれませんが、植民地支配は戦争よりも悪いかもしれません。侵略戦争でも自分の国の兵士がたくさん死にますね。血が流れる。でも、植民地支配は自分の国の兵士の血も流さず、相手の国の経済を根こそぎ搾取して、自分の国は栄え、相手の国は心身共、飢える。悪魔のする事です。今は植民地支配は許されない時代ですが、その歴史は誰もが心に刻まなければなりません。

  調べてみると、被害少女は何人もいて、長期に事件が渡ったようですが、近代世界の汚点である植民地化の重圧が少女たちに負いかぶさったと言わざるを得ません。

  又、日本国内の事ですが、宗教法人法の査定を厳しくした方が良いと思います。それが日本では、甘すぎます。そのような事も出てきます。
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「伊藤まつさん」の今後の文

2015-06-30 09:53:51 | 日記


  その外出関係の文は一回目のもので終了します。というのも、あの後、H会は潰れ、その次は「問題の教派」の人たちと一緒に行ったからです。教派名は書かないとは言え、僕としては書く気がしなくなったし、社会的に見ても書かない方が良い気がしますから。

  何も外出だけが付き合いでもないし、例えば、伊藤まつさんの好きだった絵を描いている様子などを思い出したら、書いていきたいと思います。
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ある痛ましい出来事と、性的虐待について

2015-06-29 12:56:46 | 日記



  6月12日、インターネット上のある記事から極めて痛ましい事件を目にした。何年も前の事だが、日本のある所の教会でその一人の牧師が少女に性的虐待を行なった事である。その少女の心の傷は一生癒えないだろう。しかも、聖書の福音を伝えるのが仕事である牧師がそうした。記事を読み進めると、その教区の牧師たちはこぞって、事実を隠ぺいしようとしたそうである。これも非常に罪は重い。隠ぺいは一種の「ウソ」であり、これも聖書に反しているわけである。1995年には沖縄県でアメリカ兵による同様の事件も起きた。この種の事件は日本でも厳罰化の方向に進んでいる。数か月前も厳罰化の推進を求める広告書を目にした。

  今回の少女への祈りの次に僕が思った事は、そのような事件の原因を徹底的に解明して、以後は起きない社会にする事である。これしかする事はないと。それに限らず、厳罰化だけでは、全ての犯罪は根絶しないからだ。ほとんどの国では殺人は死刑や終身刑、長期懲役刑になるが、それでも跡を絶たないではないか。それと同じである。

  性的虐待の理由は非常に難しく、僕が無責任に推察して語れるような事ではない。それゆえ、心理学や性医学、社会学などを総動員して、原因を徹底的に解明し、起きない対策を作るべきである。それと、地域社会やネット社会などの人間関係。その絆が薄れているところほど、性暴力も起きやすい傾向がある。人々は連帯して、心支え合い、生かし合い、愛の世界を作らなければならない。そのような社会ができるまで、全ての犯罪は根絶できないであろう。

  因みに、その教会には行った事がないが、その教派は30年前の僕が少しだけ関係した所である。だから、内部も少し知っているわけである。宗教の問題は微妙であり、教派名は記さないが、可能な限り、そこの教えの事なども次の文では述べていきたい。

  面識はないとは言え、その少女への祈りをお願いする次第である。
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フェイスブックの旧友にあてたもの

2015-06-26 12:01:04 | 日記
  今の僕は特にフェイスブックで、生活に根ざした事を複数の党の国会議員に訴えたりもしています。僕なりの社会活動。どんな立場の人でも、自分の生活に絡まなければ社会活動とか、社会進出とは言えないと思うわけです。子供向け科学の文シリーズも僕の生活を深く絡めていますし。
  20代の僕は福祉団体、親睦団体、宗教団体、施設や療養所にただ行く事だけが社会進出・活動だと思っていた。自分の生活を絡める事は考えていなかった。30代が見えてきた29歳から、それはおかしいと考えるようにもなり、それまでの次々と会に端から入る行動を止めたわけですが。年齢からくる変化でしたね。
  以上から察しましたが、70年代後半の学生ボランティたちも似た面があったのではないかと。自分の生活と絡めず、ただ施設に行ったり、在宅身障者の車いすを押す事が社会活動だと考えていた例か多かったと。でも、卒業して、次第に自分の生活と絡めない行動は何だと思い、ボランティアを止めていった。そのような例が多かっただろうし、何人かの人から実際にそのようなお手紙も頂いています。
  ボランティア活動も本当は自分の生活と絡めてするものですね。身障者の社会参加も同様です。
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