トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

十数年前の支援法反対意見

2020-12-31 14:43:26 | 日記
まだ「自立支援法」と呼ばれた2006年から10年ごろ、ヘルパーさんたちから「この法案の反対意見が世田谷区でも多い。相当の区内の身障者が反対している」という声を聞いた。他にも、関西でも反対の意見が強かったし、青森県のカトリック信徒の一身障者の反対意見の文もいただいて読んだ事もあった。当時の僕は判らなかった。身障者が自ら介護人を作る指名介護制よりもマシだと思っていた。それに、第一、反対しながら、その身障者たちは対案は出さない。「それもおかしい」と当時の僕はヘルパーさんたちに述べたのを覚えています。


 今日述べた事も反対意見の一部にはあったかな?とも思うわけです。しかも、多くの身障者たちはケアマネの事も知らなかったでしょう。ならば、対案とか改善策も考え付かなかった。反対するしか、できなかったのではないかと。そういう面もあったと思います。悲しいよね。

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 転じて、今も何割の身体障碍者が支援法を使いこなせているのだろうか。多くの障碍者が使いこなせない制度ならば、本当に仕方ないわけだ。



障碍者支援法の欠落点

2020-12-31 13:38:10 | 日記
障碍者支援法。一人一人の体や生活に柔軟に合わせて作られているが、一つ大きなものが欠落。介護利用者個人の声や情報をくみ上げ、介護会社・主任・各介護士に伝えるケアマネージャー的な存在が抜けている。在宅・施設の別なく。
 支援相談員は単なる介護調節者。以前、ケアマネと同じかと僕は誤解したが、違った。介護会社とは別会社の人で、各介護士の様子は細かく知る事が出来ないわけです。無論、行政の派遣するケースワーカーとも違う。どちらも声伝えも、個人情報も流せない立場です。以前、一介護士に自立生活している重度身障者の例を聞きましたが、その人の妹がケアマネしているようなものです。大体、かなりの一人暮らし身障者は兄弟姉妹・親戚の誰かがケアマネしているようですね。それは施設関係にも言える。ケアマネがいなければ、例えば、一職員に変な扱いされても訴える所がないですね。それがエスカレートして、ニュースなどで伝えられる暴力事件やセクハラにまでなる事は考えられます。おかしいと。
 僕も時々介護士たちから「ケアマネに当たる人がいない。だから中途半端な状況だ」と言われるわけです。来年3月でケアマネが付くからいいようなものの、後輩の障碍者たちの事を思うとこの件は必要だと。大体、事務仕事経験がないから身障者自身が介護事務みたいな事は不可能だろうし、大半の高齢者もそう。その為のケアマネでもありますが。
 ケアマネが15年前から僕についていれば、僕の意向もかなり介護会社に伝わり、例えば、土日の介護者も13年くらい早くに来てくれたかもしれない。気持ちも変わり、早くに一人暮らしでマンション住まいもしたくなったかも。外出も増えた事も考えられる。
 僕についている支援相談員の方が、支援相談員とケアマネの違いを説明し、支援相談員制の限界も語られていたわけです。

「シマハタの光と陰・第17章」を書いて

2020-12-28 11:00:47 | 日記
  高度経済成長、全学連、グループサウンズと、それまで活気が非常にあった世相から潮流が変わり始めた1970年の日本である。また、島田療育園も発足して9年になった。どう見ても、悪い意味での慣れとか、甘え、介護仕事への疑念も出てくる時である。


  「島田療育園は、1973年秋から始まった石油危機で職員ストが起こり、そこから狂った」と何度も聞いた。検索しても、確かに石油危機からの狂った行動や発言が増えている。確かに、大きな経済危機であったし、その波を島田もまともに受けたのは事実だが、例えば、麻薬投与や人体実験などの原因は全て「経済」に断定できるだろうか。経済は無視できないものの、それだけに原因を求めることも余りにも短絡的だと思う。他にもっと大きな原因が複数あると見ている。その一つが「気鬱」ではないかと。「女子園生の子宮は職員の手を煩わせるだけだ。切除すればいい」と言った果て、「疲れました」と言って小林博士は園長を退任するわけである。石油危機だけで人が変わるとは考えにくい。

  章の終わりに、「金さん」という名前も出てくる。次の章の布石である。今回は述べるわけにはいかないが。

  この年の11月に三島由紀夫割腹事件が起きたから、大事な事として付け加えた。本当に総理大臣や国会議員も殺す計画もあった。その通りになれば大変な事になっていた。島田の職員たちも恐かったに違いない。不安感を書いたつもりである。やや違うが、1995年のオウム真理教も総理大臣や天皇も殺害計画もあった。どのような思想であれ、殺害テロはもう起きないでもらいたい。

  皆様のおかげで1970年分まで書き進められた。感謝する。


実録小説・シマハタの光と陰・第17章・気鬱

2020-12-26 11:58:30 | 日記
   1970年も5月。テレビは連日大阪の万国博覧会と、日米安保条約、学園紛争、ベトナム戦争を取り上げている。しかし、それまでとは違い、藤圭子の「夢は夜開く」という落ちこぼれ女性の歌が流行るなど、気だるい感覚も世間の底辺から出ていた年であった。何もその影響を受けたわけでもないだろうが、創立九年になったシマハタも少しずつ流れが変わってきた。


 

 当初ははつらつとしていた林田博士だが、ときどき院長室でお茶を飲みながら、心の疲れを感じ、風邪でも良いから、このまま数日間、寝込みたい気持ちにもなる事が次第に出てきた。頭髪も白くなり、かなり抜けている。鏡を見て、


  「白髪三千丈の漢詩も判るな」と独り言もつぶやく。でも、すぐに我に返り、


  「落ち込んではいけない。園児たちの命や、職員たちの生活が私の手にかかっているから」と思い直すわけである。




  職員の中にも、気鬱になる人が次第に出てきた。「腰痛・頚腕痛・気鬱」は、三つのシマハタ病と呼ばれるようにいつしかなった。

 「私はここに来て五年になるの。去年までは張り切って、看護をしてきたけれど、今はだんだん園児たちの声を聞くことが面倒に感じられるわ」。


  「毎日、同じことの繰り返し。何故、そうするのか、考えちゃう。もちろん、答えなんて出ないけれどね」

  「僕は頭が良くないから、そのようなことは考えれないけれど、毎日のこの生活に、気だるさを感じるな」




  園児たちがかわいそうに思いながらも、「どうしてもやる気が出なくなった」と言って、泣きながら退職していった人もいた。

  林田博士は

  「精神科医の言う所の気鬱症かもしれない。私には専門外でよくわからないが、自覚症状がないだけ、厄介だ」と

  それについて述べている。

  確かに、気鬱症とか鬱病は心の病気であり、病変もないから、わかりにくく厄介である。医者自身もそれにかかってもわからず、「落ち込み」としか思えない例も多いわけである。


 

  少しずつ無気力な職員が出てきたことを敏感に感じ取った精神薄弱室や身障室の園児もかなりいた。精薄室では

  「矢追さん、最近、ぐったりね」と指摘する子も現れたし、身障室では

  「金さん、体は元気だけど、心は疲れているみたいだわ。心配よ」と声をかける園児もいた。


  身障・男子部屋の最年長園児の秦野幸雄は


  「私が来たころはみんなはつらつとしていた。今も愛はあるけれど、シマハタの心が薄れてきた気がする。しばらくは持つだろうが、先行きが気になる」と、職員に日記を代筆してもらった。その職員は一瞬考え込み、


  「幸男君の言う通りかもしれない。歯車が少しずつ狂ってきた。それを戻す方法はあるのだろうか。世間も万博で浮かれているけれど、景気のよいことはいつまでも続かないし。不景気になったら、シマハタはどうなるだろうか...」

  と返答した。




  それから半年が過ぎ、11月25日。世界を震撼させる事件が東京で起きた。作家の三島由紀夫が自衛隊仲間と共にクーデターを計画し、失敗。割腹自殺した事件である。首をはねたシーンは朝日新聞の夕刊にも載り、シマハタの一同も目にした。職員たちは


  「恐いね。ドラマで見る226事件みたいだ。後続もあるのかな。あと、昭和10年代みたいに戦争になったら、シマハタも終わりだ。そうなってほしくない」。


  「美濃部都政誕生や、学園改革など、今までは世論が革新的になり、その余波で福祉も増進してきたけど、これからは逆コースになり、福祉は切り捨てられるかも知れないわ。これからどうなるのかしら」

  と不安を述べ合った。林田博士も

  「戦争の世の中になることだけは御免だ。神よ、日本を守りたまえ」と祈った。

 

  万国博に開けた1970年は三島事件の余韻の内に消えていった。少し前まで盛んだった全学連だが、右翼系の底力を見せつけられ、挫折感も出て、低調になった。海外では、アメリカのニクソン政権がベトナムからのアメリカ軍撤収を模索するようになった。日本も、世界も大きく変わろうとしていたわけである。