トシコロのありのままの暮らし


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全ては人格尊重から始まる

2019-11-30 10:50:28 | 日記
先日、少しだけ述べたハンセン氏病元患者の伊藤まつさんとの付き合い。その始まり。


  当時の日本だから、ハンセン氏病感染の誤解は世間に大きくあり、僕の家族や親戚の人たちも、僕の感染を恐れました。仕方なかったですね。でも、僕は「感染力は弱く、うつらない。本当にうつるならば、全生園の医者や職員もうつるのに。昔は医学が発達していなかったから、うつるとされたが、今の医学では感染は否定されている。また、付き合っている伊藤まつさんは、無菌である事も証明されている。菌があれば、全生園は付き合いを許さない」と説明し、判ってくれました。家族だけでなく、用事が東京にあり、時々来ていた長野市のおばの一人も。

  「医者や職員もうつらない」と述べたのがミソだったかもしれませんが、家族や親戚の人達の理解力の他、僕は伊藤まつさんとの人格の交流に専念していたから、集中力も出て、以上の事も思い付いたわけです。人格を一切無視して、全生園にいる人たちを元患者のサンプルみたいに見ていたら、集中力もでず、以上の説明はできず、変に思われただけだったでしょう。

  更に大事な点として、伊藤まつさんの方も僕の人格を認めてくれた事です。それがなく、例えば、僕を単なるハンセン氏病問題啓蒙の道具みたいに見れば、僕としても付きあえなかった訳です。

  戦争では、敵も、味方も、人格は認めませんね。平和時でも人格を認めない事はいけません。認められなかった側は非常に強いトラウマがその後も何十年も続くわけです。詳しくは述べられませんが、1970年、ボランティアたちに人格を認められず、単に「介護の対象」とされ、他の多くの身障者と同じ扱いを受けた身障者が以後ずっとボランティアたちを恨み続け、心の傷に悩んでいる例も知っています。かなりいると。無論、昔の施設や地方の養護学校にもそのような例の身障児者は多いわけです。

   それと、見落とされがちですが、他人の人格を認めなかった側も、後年は自滅状態に陥っている。そのような例も僕はたくさん見てきました。ひどい例は放浪者にもなっている。あるいは、人と付き合えなくなったり、基礎勉強もしなくなり、一生を棒に振った医学生の例も見てきました。恐らくは、他人の人格を認めないと、自分の人格も無意識的に認められなくなり、基礎勉強もできなくなったり、自他すべての人の人格を認めなくなり、誰とも付き合えなくなるとか。これはもっと恐ろしい例かもしれません。認めなかった側の方が不幸になるわけです。

  昔、僕が入った複数の福祉会や身障会でも「社会変革」をかなりの人たちが唱えましたが、百%挫折しました。その根本理由も一人一人の人格を無視した社会変革運動をしていたからなのですね。あるいは、人格無視の教育論議とか。

  伊藤まつさんと僕との関係のように、人格は大切だし、何かの啓蒙とか、社会変革や平和運動の源も一人一人の人格。特に、誰もが自分の人格尊重から始めなければなりません。

もし、僕が光明養護学校の小説を書けば

2019-11-29 10:48:40 | 日記
小学・中学時代と、自分のクラスの児童たちの交友やケンカ、遠足などの事ばかり書くだろう。それだけでは、学校関係の小説や論文は「失格」である。骨抜きの小説になる事は僕も見えている。


  学校関係で一番大切な事は「先生の児童たちへの教え方」。授業や道徳面。僕のクラスの児童たちも一人一人理解度や得意・苦手が違い、その上に筆記難などもあった。それを懇切丁寧に先生たちは教えて下さった。ものすごい努力をし続けていたわけだ。ある時は教壇から、ある時は教壇から降りて、勉強が判らない子の所に行き、徹底的にも教えてくれた。

  ただし、小説などに「教壇から降りて、算数の足し算が判らない〇○君の所に行き、わかるまで教えました」とだけ書いても、読者には様子が伝わらず、再現にはならないわけである。再現するとして、本当に教えた話を非常に細かく描写する必要がある。例えば、小学1年から3年までの担任の先生はすでに他界したわけだし、聞くわけにはいかない。聞いても、教員経験も、教職課程も学んでいない僕にはその様子は判らず、再現もムリである。ましてや、聞かずに書く事はもっとムリ。「わかるまで教えた」の具体的な描写は本当に、クラスの児童たちへの人数分を何度も、何百回も書く必要がある。完全に僕にはムリだし、書かなくて非常に良かったと思う。学校関係を書く事は、教員経験者以外は不可能である。書いても、何かの子供会風にクラスはなってしまうわけだ。それは許されない。


  乙武氏の例の「五体不満足」も、本人が先生に教えられた事は書いても、他の児童たちへの教えについては書かれていない。「一身障者の本」だから売れたが、教育関係の本としてはどうだったのか。教職課程をしっかり学んだ乙武氏でさえも、自分の事しか書けないわけである。

  ついでに書くと、ラジオであるアメリカ人から聞いた話だが、アメリカやヨーロッパでは、重複障碍を持つヘレンケラーを一生懸命教えたサリバン先生が「奇跡の人」と呼ばれているそうだ。ヘレンケラーではなく。それだけ「教育は難しい。ましてや、障碍児の教育は」とラジオで語っていた。「日本に来て、ヘレンケラーが奇跡の人になっている事には、驚いた。そのような障碍児はアメリカの黒人街にはいくらでもいる。」との事。ヘレンケラー関連は僕はよく知りませんが、サリバン先生はものすごかったし、教師たちの仕事はものすごい事だと思います。甘く見てはいけない。僕も先生たちには改めて感謝しないといけないと。


共同体筆記の難しさ

2019-11-28 16:07:19 | 日記
実録拙小説「シマハタ」だが、一旦、1965年(昭和40年)の事を書いて、その前に大事な事項が発見され、2、3年逆戻りしたわけだ。近く、8章以降のものを並べて再公開したいと思っている。しかし、こんなものだろう。大体、人間という動物は心身共に常に変化する。特に「心」が誰でもくるくる変わる。ならば、その人間たちの多く集まっている共同体とか、社会はもっと変化するわけだ。日本国も一概に「〇○だ」と断定できない。新憲法発布以降を「日本国」とすれば、1947年ごろと1968年ごろ、2000年と、かなり政治・経済・社会と大きく国風は違っており、断片的には語れない。島田療育園も同じである。


  そこで思い出す事がある。縁あって、1976年、東京VYSという福祉会に入った。入りたての時は母校の光明養護学校の事を断片的に語っていたが、語ると何かその会員は光明養護学校に偏見的な印象を持ち、変だった。入会して半年後に、「断片的にばかり光明養護学校の事を語っているから、皆は判らず、変に思われるのだろう。いつか、しっかりした文が書けるまで、光明養護学校の事は語るのを止めよう」と思うようになり、そこに島田療育園への問題意識も重なり、母校の事は以後語る事はなくなった。以上の想いすらも忘れてしまい、その後は他の福祉会、親睦会、キリスト教関係と語る事はなくなった。子供向け文に遠足や林間学校の事を語るだけで。

  振り返るに、それで僕は良かったと。例え良い事ばかりでも、光明養護学校の事を語り続けたら、誰も誤解するだけだから。それはまずいわけである。今の僕が思うに、もし、光明養護学校の事を述べるとしても、僕の在校中に限っても、体験小説という形しかないのではないかと。それなら、時間ごと、順序立っての話ができるから、読者は判ってくれると。但し、小説を書くのには「強い問題意識」が必要。どんな学校関係の小説を書くとしても、教育に強い問題意識を持つような人たちでないと書けないわけである。僕はそうではない。本当にそうならば、例えば、放送大学で教職課程講義を学び、乙武氏みたいな教育関係の生き方をしたわけだ。その場合は、島田療育園にも、多磨全生園にも行かなかったと推察している。こんなものである。人間は一度に複数の問題意識は持てないわけだから。

  「断片的」な話がダメである例も少しだけ知っている。ある身体障碍者が「昔の養護学校のリハビリはきつかった」と学生ボランティアに言ったところ、その学生は「だから、養護学校はダメだ」と思い、その前から養護学校に悪いイメージを持っていた事もあり、更に、反養護学校の考え方になってしまったという。強いて言えば、そのような事は医者や医学生に言うべきだったと。何も養護学校に限らず、1960年代の日本のリハビリは非科学的で、きつい訓練ばかり身障児者に強いていたわけだから。その学生も、養護学校の事を順序立って聞く事はなかったわけです。もっとも、小説形式にしない限り、全ての人たちは自分の学校時代の事をまともに語る事は不可能でしょうが。とにかく、共同体筆記は難しい。オウム真理教の全容がなかなか掴めない理由の一つでもありますね。

実録小説・シマハタの光と陰・第11章・国会にて

2019-11-28 13:57:51 | 日記
  国会でも野党の社会党議員から取り上げられた。経済が第一の池田勇人首相もさすがに答弁に困り、元気のない返答をした。


  小林武治厚生大臣は


  「日本はもともと宗教性の薄い国民でありますから、深い愛を必要とする福祉関係の人材育成は難しいかと思います」

と返答をして、野党席の議員たちから

  「答弁になっていないだろ」

  「問題をすり替えるのか」

と怒りの野次を浴びせられていた。

  

テレビで国会中継を見ていた水上勉は

  「厚生大臣は何を述べているのか、判らん」

とため息をついた。

 「池田首相にあてたものと同じものを中央公論に載せるから、せめてそこからでも世間の注目を集められたら良いな」

と独り言も言った。



「拝啓,池田総理殿」で始まる長い文を昭和38年(1963年)6月に載せた。その返答という形で、7月には池田首相に代わり、黒金官房長官がシマハタなどへの公金補助を大幅に認める返答を致し、水上は感謝した。




  小林博士は

  「補助金のめどはついたが、相変らず、人材が不足している...」と心の中で次の行動を考えていた...。