トシコロのありのままの暮らし


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小林博士の「ボランティア=アマチュア活動」は福祉だけだったか?

2019-09-30 15:55:11 | 日記
「小林博士を一度拝見」の文の終わりに記した、小林博士の「(私の福祉活動は)ボランティアだった」のボランティアの意味は、善意が絡んだアマチュア活動とか、素人活動だと思えば、判りやすいだろう。確かに、福祉のプロ意識が欠けていたかもしれない。


  では、本職であるはずの医学・医療はどうだったのか。これも今の僕は疑問を持たざるを得ない。医者のプロ意識は、患者の苦痛を治す・軽くして、少しでも気持ちも解放させる事の手伝いに尽力する事である。また、患者の体を大局的に見ての治療とか。その為の勉強も欠かせない。福祉関係同様に、これも善意みたいなものでは中途半端になり、どうにもならないわけである。非常に深い人間愛が必要である。誰でもできるようなボランティア活動とは根本的に違うわけである。

  だが、例えば、脳性まひの硬直対策の医療用麻薬投与。大体、それは手術用に開発されたものであり、常用は想定されていない。誰でもしっている知識だろう。それを常用すると、誰でも神経が働かなくなり、特に脳性まひの場合、ただでさえ動きにくい手足が長い目で見たら、もっと動かなくなるのではないか。胃腸の動きも悪くなり、便秘にもなるとか。脳性まひを持つ人で、自分の意志でそれを飲む人たちもいるが、それは自分の意志で飲むわけだから、誰も止めさせられないが、それでもそのような人たちに対しては医者は副作用を徹底的に説明しなければならない立場である。それを医者である人が自ら「投薬」。おかしかったし、そこからプロ意識が問われるわけである。

   勿論、「人体実験」はもっと問われるし、極秘にしようとした事も同様である。更には、1977年9月初めのまだ炎天下の日に、身障園生たちは「日光浴」。僕も一緒にそうして、園生たちも、僕も体調が悪くなった事があった。僕は肩付近の血液が熱で凝固したらしく、肩が非常に痛くなった。園生たちも端から気持ち悪くなったり、発熱例も。熱中症(当時は、日射病)である。その後、福祉関係では、暑い時期の日光浴は行われなくなった。日本は低緯度の国で、北欧とは訳が違うと。当時も日射病の事は医者たちもよく知っていただろうに。確かに、ヨーロッパの医学書には「日光浴の効用」が書かれているが、テキストをそのまま取り入れる事は何なのかと。本当の医者ならば、北欧と日本の気候の違いとか、園生たちの体力も考えて、臨機応変に対応するはずなのに。関東地方の場合、温暖化が進む前も、「日光浴」は10月から4月までの間でなければならない。夏季はムリである。おかしかったと。(僕自らが肩が痛くなったのも何かの因縁だと今は思っている。だから、尚更、書けるわけである)。

  とは言え、プロ意識に欠ける医者は、無論、小林博士だけでもない。島田にいた元園生M氏も、後年の千葉の施設で人体実験手術が好きな医者とまた会ったようだし、前に述べた通り、北海道では、歩ける脳性まひの人に首の手術を強行して、寝たきりの状態にさせた無責任な医者もいたそうだ。対脳性まひ者に限らず、そのようなプロ意識に欠ける医者は日本中に多いと、昔からよく聞くわけである。その理由の一つも、明治の時にそれまでの東洋医学を切り捨てて、西洋医学だけにした事が原因かも知れないと思うわけだ。東洋医学の他に、医者として一番大事な「伝統的な医者の心」も無意識的に切り捨てて、単なる科学者の心として医学や患者を見る傾向が出たから。無論、それは第二次世界大戦中の日本の軍医が行なったと言われている人体実験の事にも絡んでくることも言うまでもない。僕の見た島田療育園の医学関係の歪みは、日本の医学の歪みの一部でしかないわけである。非常に難しい問題ともつながっていた所であった。


小林提樹博士を一度拝見しました

2019-09-30 11:11:19 | 日記
  1977年5月。僕の所属していた福祉会主催の小林博士の講演会で。会話はできなかったが、姿を拝見し、講演も聞いた。大柄な身体で元々はものすごく体力がありそうだったが、69歳になられていた77年は見るからに活気がなく、痛々しそうな表情だった。話の内容は僕も一部だけ覚えているが、要領を得ない話し方だった。


  「職員たちを御殿のような所に住まわせてあげたい」

  「療育関係の仕事をしていると、宗教的な気持ちになるね」の2つの言葉を覚えている。いずれも小林博士の心の内面から出た言葉だから、僕は解説できない。但し、後年の僕が知った事だが、後者の「宗教的な気持ち」はどのようにも取れる言葉である。大体、宗教とか信仰は観念は一人一人違うし、同じ人でも時期によって変わる。お国や時代によっては、もっと多様な意味であから。


  因みに、今調べたが、その3年前の園長退任の弁では、自らの仕事を「ボランティア活動に過ぎなかった」と強く反省していたわけである。その時にマスコミに「疲れました」と言ったのは有名な事である。

  その後、例の「子宮切除発言」にもなるわけだが、上べはナチスと似ていたが、ナチスは当時の優生思想が絡んでいた。そのような思想ではないわけで、本当に疲れ切り、紛争まみれになった島田療育園に「投げやり的な気持ち」になったわけだから、そこから出た言葉ではなかったかと、今の僕は見るようになったわけである。やはり、職員たちの中に投げやりになり、虐待やお仕置きに至った人たちも現れたように。人間は投げやりの気持ちになると、どんな事でもする面があるわけだし。

  もし、小林博士が最初から無気力な人ならば、島田療育園なるものは成立していなかったわけである。

  77年5月の僕は島田療育園の植物人間室には行ったが、まだ身障室には行かず、僕の運命に強い影響を与えてくれた3人の身障園生にも出会っていなかった。だから、博士の話の理解も余りできない時期だったが、今はこうして僕なりの仕事にも関係している。10年年長の従兄弟の川本兼氏は、学生運動から人権思想関係の仕事に入って行ったが、僕も若い時の活動が自分なりの仕事になりそうである。人にもよるかもしれないが、若い時の何かの活動はその人の人生に強い影響を与えるものだとつくづく思う。

愛も、友情なども外向きになると発展するようです

2019-09-27 13:33:04 | 日記
今朝の医学関係の投稿文は、元々は40年来の医者の一旧友にあてたものです。フェイスブックでは、(韓国・中国系含む)各コミニティにも投稿し、「イイネ」も頂きました。コミニティに投稿すること自体が社会性がある内容だという事ですね。その医者の方とは、昔から福祉や社会の話をして、互いに目を外に向け合った仲でした。詳しいやり取りはさすがに忘れましたが、その延長の一つが今日の投稿文につながったわけですね。そのような人と付き合えて、良かったと思います。


  しかし、各会で多くの交友失敗例や大ゲンカ、恋愛レスの様子も僕は見ています。以上のやり取りと、何が違うのか、考えてみました。失敗した関係はいずれも「内向きになる」か「社会批判」に終始するようになっていた例ばかりですね。ITがなかった頃は、何かの会に入らないと人と出会えなかったですが、「会」というものは、続けると会長・役員に次第に目が集まり、内向きになるわけです。役員制がなくても、仲間内にしか目が行かなくなるとか。そうすると、構成員たちは互いに視野も、発想も狭くなり、他人の心を受け入れる事もできなくなってしまう。その場合、少しでも自分の気に入らない事を言うような人たちが許せなくなり、ケンカにもなる。無論、社会に無関心になるか、批判しか能がなくなります。確かに、社会は矛盾に満ちていますから、批判も当たり前かもしれませんが、それだけでは何もよくりませんね。改善策を考え合う事も必要ですが、視野や発想が狭くなった場合は改善策などは考え付きませんよね。批判だけに終始するような人も出てきたわけです。

  また、互いに他人の心を受け入れ合う事ができなければ、異性の気持ちも受け入れられないわけです。恋愛レスとか、恋愛しても短期間で終わるようにもなっていたわけですよ。健全者同士でもそうならば、障碍を持つ者はもっと相手にされなかったわけです。

  やはり、心を受け入れられない状況があれば、特に聴障を持つ人は相手にされにくいのではないでしょうか。そのような例も見てきているわけです。

  無論、会の中に限らず、ITなどで個人と個人のやり取りしても、内向きになれば、同じになるわけです。夫婦もそうでしょう。離婚にも至ると。

  僕の見てきた会の中で、一番内向きだったのが、僕の行った教会関係でした。教会組織自体を神として絶対視もしていた。おかしかったわけです。後年の「レイプした牧師の事実隠ぺい」はその果ての姿だし、内向きになり、他人の心を受け入れられないようになれば、レイプする牧師も出ますよ。ハンセン氏病療養所も内向きだと言われていますが、そこもそのような人は出ないわけで、それよりもはるかに内向きでした。レイプされた方に遠くから、微力ながらも祈っています。

  恋人関係なり、夫婦関係ができて、愛で満たされれば、同様に多くの人達にそうなってもらいたいと思うのは当たり前かもしれません。それゆえ、子供の有無に関わらず、世間に・世界に慈愛の眼差しと心を向け、できる範囲の社会活動をするようになっていく...、その様子を脳裏に思い浮かべても、真の愛とか友情は外向きが当然になるわけですね。そのような事も思います。

フェイスブックの医者の旧友にあてたもの

2019-09-27 10:56:21 | 日記
素人的な医学考察で失礼しますが、人間の生存率は「医療・栄養状態・住居状態や暖房(地球温暖化の今は、冷房も含まれる)」で決まるのではないでしょうか。身障児者や難病を持つ者には特に言えると思います。この三つの内、一つでも欠いた見方をすると、中途半端な見方になると思います。
僕は数学の知識に乏しく、以上を数式化はできませんが、脳性まひ児者の生存を歴史的に見ると特にそのようになるし、考えてみれば、それは全ての人間の生存にも言えるわけですね。
以上、思った事まで。

島田療育園の小説は丁度良い時期に書き始めたようです

2019-09-26 16:17:02 | 日記
 書き始めたのは去年5月14日。最後にそこを訪れてから、丁度40年たった日でしたが、書き進めて、掘り起こしてもいる内に、日本だけでも、これから書いていく施設関係のウィルス感染症対策とか、脳性まひ者の硬直への対応策、医者の人体実験、投げやりになった医者や介護職員の問題などは「今」でも通用する事ですね。決して古くもないわけです。


  さらに、世界的なスケールで見れば、現在、医療が発展途上で脳性まひ者が激増している国々もあれば、これからそうなる国々もあるわけです。大体、脳性まひは出産の時の医療ミスや、交換輸血しなかった事で起きます。その他、鉛や水銀の毒とか。日本の場合も以上は元々多かったですが、江戸時代までは医療が発達していなかったのと、暖房や栄養状態の関係で、脳性まひの子は生れてすぐに亡くなっていました。将軍家などは育った例もありましたが。9代将軍家重とか。それは稀でした。それが明治辺りから医療の進歩で少しずつ生きられる例が増え、戦後は医療、暖房、栄養の向上で生き長らえるようになり、増えた。でも、首都圏や大阪圏などでは、1960年以降は交換輸血や出産技術の向上で次第に脳性まひ児の発生は減っています。その代り、人工呼吸器も発達し、極めて重度な脳性まひ児者も今は生き長らえる時代になっています。知的障碍の原因は様々ですが、やはり、出産ミスで脳への酸素供給が滞って起きた例が戦後の日本では多かったわけです。遺伝子障碍とは違い、脳性まひは医療、暖房、栄養の3状態で増減などが起きているわけです。


  そのような脳性まひや、出産ミス原因の知的障碍が激増した時期に島田療育園は生れたわけですね。そして、数々のドラマと悲劇も産んだわけです。僕はフェイスブックで非常に多くの国の人達と付き合っていますが、例えば、エジプトの人が島田療育園の話に関心を持ってくれた事もありました。本当に多くの国々の人達が。ありがたいし、世界に通用する話に今はなっているようですね。島田を訪問して良かったと思っています。また、外国の人達とも交流できるようになった「今」書いているのは非常に正解だったと思います。

  「時間」とは何でしょうか。昔の事が今も通用する事は極めて多いですね。社会・個人と。古いも、新しいもない。時間は幻想であるのかもしれません。そんな気もしています。難しい事ですが。


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  ここで変わった話をします。78年1月、島田の身障園生M氏は面白い事を言っていました。「これからはコンピューターの時代だよ。コンピューターとコンピューターが通信し、各個人で手紙を送り合い、文章も送り合える。恋人も見つけ合える。こんな時代がもうじき来るから、(あなたも)コンピューターを学んだ方が良いよ」と。当時の僕は訳が判りませんでした。コンピューター=電子計算機としか認識していなかったから。どうして、計算機でやり取りができるのか...。気が付けば、90年代から始まったIT時代の事を指していたと。後年の僕は驚いたわけです。例の紅白歌合戦出場の縁で、そこはNHKと縁ができたから、NHKを通して、NASAとアメリカ軍の秘密情報が島田にも入り、M氏も知り、僕に話してくれたと思います。但し、M氏は当時の5年後くらいにもそのような社会が来ると見て、以上を話したと思います。あるいは、僕に「島田の事を広めてくれ」と頼んだのも、理由の一つはこのような事だったかもしれません。ITができるまでは、世間に伝えようがないですからね。

  ITに通じる情報も入っていたとしか思えない以上、島田療育園は極めて社会性が豊かな所だったと言わざるを得ません。だから、僕も小説として書けるわけです。でも、その社会性はその後は消えて、閉鎖的になっていく。閉鎖的になる事は怖ろしいと思います。