トシコロのありのままの暮らし


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「感情型ファシズム」を書いて思う

2018-06-30 13:15:34 | 日記
  「同期の桜」という日本の軍歌がある。日本軍用機のパイロット、神風特攻隊を桜になぞって歌ったのである。そのテレビ・ドラマが1967年に放送され、その歌が流行っていたので、小学6年だった僕は男子の有志たちと学校のクリスマス会で歌った思い出もあるから、尚更覚えているわけである。その歌詞の一部に「見事散りましょ、国の為」というものがあるが、戦士を美しい花に例えるのは世界中探しても日本くらいしかないかもしれません。今思うと、とても奇妙な歌です。


  但し、それは戦前の小学教科書の最初の「サイタ、サイタ。サクラガサイタ」の果ての姿に僕には思われて仕方ないわけです。因果関係が深いのではないかと。その他、戦前の天皇の勅命という形で児童に施された教育勅語。その意味自体はともかく、どんな形でも、誰が下しても、「命令」という形で子供たちが覚え込むと、考える力は育たないのではないか。その結果として、政治が腐っても多くの国民は無関心になり、軍部が政治を支配する結果になったのではないかと。学校などで教えられている「政治の弱体化で軍部が台頭した」はその通りにしろ、まだまだ根がありそう。その根の一つに、教育があるように見えてなりません。

   中国侵略開始後、次第に軍部は軍人たちにコンパを提供したようです。一つには、当然ながら、慰安もありますね。でも、もう一つ目的があったかもしれないと。軍人たちは日本各地から来て、面識もなく、意思疎通も難しい。でも、軍隊として一緒に戦うには、相互の親睦を図り、仲良くさせる必要がある。しかも、短期間で。それで軍人たちには好きなだけご馳走とお酒を与えて、一緒に楽しみ、仲良くさせて、軍隊のチームプレーをさせた面もあったかもしれません。戦後の社会の至る所でもそのような事はしていますね。但し、当時の日本社会は貧しかった。軍人だけが贅沢したし、お金もかかったわけです。飢えた人たちも多かったのに。又、目的は何であれ、コンパして人為的に仲良くなったところで、仕方ない気もしますが。僕もそのような経験も複数の会でありますが、フィーリングだけの上べだけの付き合いに終始するわけです。今は結婚目的のコンパもありますが、それで急造的に仲良くなり、結婚してもフィーリングばかりで、不幸な夫婦になる事が多い気がしますが。戦時下の社会の事は今につながっているように思われます。
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「感情型ファシズム」さらに

2018-06-29 13:18:32 | 日記
    それは戦後の日本にも影響を与えているはずである。過去の影響を受けない「今」はあり得ないから。


   例えば、日本国民の価値観が池田勇人首相が出現した1960年あたりから経済主義一辺倒になったのも、政治の事をよく考えず、無関心な人が多いのも、教育も進学目的で、少し前までは丸暗記教育だったのも。本来は理性・理論中心に進めなければならない左翼系運動でも、感情論が目立ち、すでに1970年の時点で左翼系の人たちの内ゲバが深刻になり、次第に衰退したのも。感情的なやり取りの果てに結婚できなかったり、結婚しても離婚する男女が多いのも、感情中心の気風が尾を引き続けているせいもあるはずだ。戦前に作られた落語でも伝えられているが、日本では実際は戦前から離婚が多かった。今は夫婦よりも、親子関係の方が問題かもしれない。子供に対しても感情的になり、虐待を結果的にしてしまう親が多いから。夫婦は離婚できるが、親子は離れられないから、問題は更に深刻である。児童相談所の力を強くしても、問題自体は解決しないわけである。父母がそろおうが、一人親になろうが、今の日本では多くの子供たちが親の感情攻撃、ヒステリー攻撃に猛烈に苦しみ、傷付いているわけである。今の日本の一番の問題も児童関係だろうし。

   今の日本社会の諸問題も今や戦後だけを見ていては解決できない。少なくとも、明治時代の初期、又は、幕末あたりまでさかのぼって見ないと根は捉えられない気がします。
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「感情型ファシズム」の補足

2018-06-28 16:16:26 | 日記
   そこから「神風特攻隊」と「戦前の日本のハンセン氏病患者への強制隔離」を連想させられた。前者から話そう。


   戦死、特に敵艦に体当たり攻撃をしての死を美化し、散りゆく桜の花になぞらえる。実際は美しくもなく、敵・味方の別なく、恐ろしい事だが、その発想を産んだ旧日本軍人たちも、それを受け入れ、指示した当時の日本国民の気持ちも、「サイタ・サイタ・サクラガサイタ」で始まった戦前の教育の結果に僕は思われて仕方ないが。考えすぎだろうか。


   一方では、「感染防止」の名の元、ハンセン氏病患者は明治の内から次第に隔離され、特にアジア太平洋戦争の時に隔離のピークに達したという。でも、例えば、結核など、ハンセン氏病よりも感染性が強く、致死性も高い伝染病はいくらでもあるわけである。何故、ハンセン氏病が狙い撃ちされたのだろうか。理由の一つとして、普通の人たちと比べて顔や体の形が変わっており、多くの人たちには汚く感じられるからだろう。確かに、この患者は太古から人々に嫌われていた。顔や体で人を判断して差別するのは困ったものだが、何も日本だけの問題ではないにしろ、日本の隔離政策は徹底してたとよく聞く。そのような人たちとも理性的に意思疎通していけば、心も通じ、付き合えるのに。それにも以上の影響を思わざるを得ません。

   第二次世界大戦が終わり、昭和天皇は一時キリスト教に心を傾けられ、「日本が戦争の道を歩んだのは、キリスト教精神がなかったからだ」とおっしゃられたと聞いた事があります。キリスト教の理性的な愛が欠落していたと思ったと。昭和天皇は外国人たちとも多く付き合っているから、キリスト教の愛は理性的なものである事は御存知だったかもしれません。でも、以上の教育を受けた多くの日本国民ならば、キリスト教の愛も感情中心に誤解して解釈して、甘えにもなり、大して変わらない結果になるのではないかと思います。感情中心ならば、隣人の事も深く思いやれないから、隣人愛も成立せず、自己中心・自国中心になり、狭い見方になり、戦争の道も歩んでしまうわけですが。更に言うと、その問題は昭和天皇は語られていない。昭和天皇御自身は日本国民の事をどれだけ理解していたのか。「日本帝国のお父様」と呼んだ多くの国民の心理も理解できていたのか。そのような情報すらも入らなかった。...。極めて難しい問題ですね。因みに、例のS園では関係者にはクリスチャンが非常に多かったですが、最初は良かったものの、愛と甘やかしを区別できないクリスチャンが多く、問題化していきました。心ある職員からもその事を聞きました。はっきり覚えています。他の所でも「聖書の愛とは何かね。判らない」と言って、悩んでいるクリスチャンや牧師の声も僕はたくさん聞いています。ならば、戦前に日本でキリスト教を普及させたとしても、感情や感覚中心で、理性の頭脳を鍛える教育をしなければ、歴史は大して変わっていない気が僕にはしますが。

   とにかく、難しい問題です。戦前は男子も理科教育が不十分だった。女子は尚更そうで、それゆえにそのような女性たちが母親になり、障碍児を持てば、ものすごく悩み、困ったり、育児放棄や甘やかしにもなったわけですね。その一母親の貴重な証言も聞いていますから、実録小説では書いていく訳です。教育の問題は大きいです。
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感情型ファシズム

2018-06-27 10:10:04 | 日記
  永井荷風は自らの「断腸亭日記」で、早い時期から第二次世界大戦の日本の敗北を予測し、又、「日本軍の快進撃に酔いしれる日本民衆」を冷ややかに見ていた。終戦になり、今度は誰もが人が変わったように、平和主義になった事も皮肉に思われていたようである。貴重な史料である。


  戦争の時はただ自国の軍の進撃を喜び、世界を大局的に見る事を知らず、反戦者の口を封じようと躍起になり、終戦後は平和主義に。当時の日本国民の大多数はただ感情的になっていただけである。感情は常に変わる。だから、終戦後は多くが別人化したわけである。もう一つ指摘すると、その国民の感情は戦争の前から軍部、権力者、マスコミが非常にあおった面もあった。それも悪かっただろう。

  その他に、戦前の日本の教育も問われる。児童・生徒の考える力・理性を伸ばしていただろうか。戦前の教育を受けた父は「中等学校の歴史の時間は、歴代天皇の名前を丸暗記するだけだった」と述べていた。父に限らず、そのような教育しか受けられなかった人たちは歴史に疎く、大事な歴史的事実も知らず、更には、歴史観も育たないわけである。その他、父は「理科も程度が低かった。戦後の教科書は理科も、社会科も詳しく書いてあり、うらやましい」と述べていたわけである。確かに、社会科も、理科も生徒の思考力や理性を育てる大事な材料だから。


   戦前の小学校は「サイタ、サイタ。サクラガサイタ」で始まり、天皇を国のお父さんと教えるなど、僕にはどうも感情・感性に偏った教育だったと思われます。その結果として、感情的に動くだけで考える事ができない人が非常に増え、特に理性的に深く考える政治家と役人、軍人が育たず、戦争の道の原因の一つにもなった。そのような事も僕は考えてしまいます。

   戦後もその大きな余韻が続いたせいか、考えられる人は少数派らしいです。又、キリスト教の愛は本当は理性を基盤としたものなのに、それを情緒的に捉えるクリスチャンも多く、その結果、甘えや甘やかしにもなっていく。僕が実録小説とて書き始めたS園が次第に狂っていった理由の一つもそのような事もあった気がします。

  話を戻して、戦後は確かに理科や社会科の教科書は改善されましたが、自分の頭で考えられる人はどれだけ増えたのか。かつての日本のファシズムは「感情型ファシズム」という性質もあったと思いますが、その復活は許してはなりません。
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実録小説・シマハタの光と陰・第3章・林田博士の苦悩と、出会い

2018-06-22 13:34:20 | 日記
  第3章・林田博士の苦悩と、出会い





ここで林田博士の説明を少ししよう。林田聖樹。1908年長野市生まれ。奇しくも私と同郷である。若い時からキリスト教信仰を持ち、その愛に従い、医学の道を歩み、西洋医学を修め、特に戦後はまだ世間も目を向けなかった障碍児医学を次第に行なっていった。戦前以前も障碍児はたくさん生まれたが、医学が未発達だったため、その多くは生後間もなく、死亡していた。しかし、戦後になり、日本の医療水準は上がり、又、健康保険制度でほぼ全国民が医療の恩恵を受けられるようになり、障碍児も医療ケアが行き届き、その幼児死亡率も低下したわけである。でも、諸々の障碍児の状態を詳しく知る医者はまだ少なかった。その中で林田博士は働き盛りであったこともあり、障碍児医療にバリバリ取り組んでいた。当然ながら、診察の時は母親たちの話を多く聞き、障碍児を持つ家庭の状況の大変さも知っていった。診察の場面から。


   「うちの子は歩けるけれど、目を離すとどこかにすっ飛んでしまうの。大変だわ」

  博士は

  「それはご苦労な事ですね。精神薄弱ですね。精神薄弱児にも様々な症状がありますが、体は丈夫でも、判断力みたいなものがないわけです。脳神経の不具合で起きるものです。冬は特に火鉢などの管理に注意してあげて下さい。火のある所にはなるべく行かせないように。火事になったら、大変ですから」。

  「うちの子は、寝たきりで、こっちの話す言葉も判らないようです。いつも『アー、ウー』としか言わないわけです」。

  博士は

  「脳性まひと精神薄弱の重複ですね。養育は特に難しいわけです。消化力もよわい。だから、おじやや、リンゴのすり下ろしたものをいつも上げて下さい。食べ物がのどに詰まらせないように気をつけて」。

  アドバイスしか送れない事に、いつも自分の無力さを感じていた。

   そうしている内に、パチンコ関係の大立者、島畑尚三郎と出会った。彼の息子の一人、明男君が重い知的障害とテンカンを持つ障害児だったからである。

   林田博士は明男君を診断して

   「これはひどい障害だ。しかも、重複。目をご家族も離せないでしょう。いくらお金があっても、大変だ」と驚いた。

   林田博士と島畑氏はその後も何回も話し合い、日本で初めての重度心身障碍児施設を創る方向で進んだ。島畑氏は多摩地区に広い土地を持っているので、それを提供してもらって。
   林田博士は島畑氏に

   「欧米ではキリスト教会が盛んである事もあり、すでに多くの障碍児のためのナーシング・ホームが作られています。日本でも作られて当然です」と熱く語った。



  そうして、日本初の重症心身障害児施設のシマハタ療育園が東京都の多摩市に、1961年(昭和36年)作られたわけである。当時の日本は池田勇人首相の下、高度経済成長路線を走り始め、また、東京オリンピックと新幹線開通も目前に迫っていた。日本国民の関心は経済問題に集中していたわけである。その中、障碍児者問題は日が当たる事はなかった。林田博士はキリストの力を借りて、障碍児問題にも光を当たらせることを決意した。

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