トシコロのありのままの暮らし


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X君も当たり前に生きられる社会とは・文芸誌投稿文

2019-06-28 10:52:25 | 日記
  X君の問題は三点ある。テンカン、性欲抑制困難、激怒しやすい事。内、テンカンについては、すでに発作を抑える薬も開発されているし、今後は更に進歩すると思われる。性欲の件についても、医学の進歩に期待できるから、僕は書かない。激怒の件だけ述べる。
 怒りやすい人はどこにでもいる。ただし、X君は、脳の器質障害で怒りやすく、怒れば、相手を殴る・平手打ちするなどをすると聞いている。現に、僕も知的障碍者作業所の女性職員を平手打ちした場面を目撃もしている。
 ところで、人は何故怒るのか。ハイキング予定が雨で中止になれば、雨に怒るが、その場合を別にすれば、対人ストレスが原因である。心の交流がうまくいかなかったり、自分にふさわしくない扱いをされた時に怒るわけである。以上の女性職員も、対知的障碍者のように優しくX君に対したから、求愛されたと勘違いして、恋愛ではなかったから、激怒して平手打ちにしたわけである。その他の過去の彼の多くのケンカも、心の交流がうまくなかったためだった。ならば、心の交流がうまくいき、ストレスがなければ、いくら脳に問題があっても、怒らないではないか。怒る原因=脳の欠陥のせい、でもなかったわけだ。
 以上は他の多くの人たちにも言える。脳の病気でなくても、短気で怒りやすい人たちは多いからね。いくらでもいる。そのような人たちも、心の交流がうまく社会を想像すると、怒らないわけである。また、大半の人たちは対人ストレスがあると、それを抑え込み、ストレスをため込み、後に重大な病気の原因にもなってしまう。ストレスを作らない社会では、そのような事は起こらない事が容易に想像が着く。
 そのような心の交流がうまく社会は今の状況ではムリだが、但し、どれだけ心や意識の事が科学的に判っているのか。ガリレオ以来、物理学は急速に進歩したが、心や意識、命の正体については研究が遅れている。一時は、心などは体内、特に脳のタンパク質の変化だという考え方が流行り、精神病患者に脳のロボトミー手術も20世紀に行なわれたが、うまくいかなかった。近年は、量子物理学ができ、そこから意識や心、命についての本格的な研究が始まったそうだ。つまり、その心についての科学が発達すれば、対人ストレスや心の交流についての対応策もでき、ストレスが生じないか、生じてもトラブルや病気にならない社会作りの糸口ができると見ている。因みに、その対人ストレスの様子は、例えば、日韓とか、アラブとイスラエルみたいに歴史的な葛藤を持つ国々の関係にも非常に似ている。規模の違いを別にすれば、同じ性質だとも言える。それ故に、心や意識の研究が進めば、世界平和に近づく事は間違いないと見ているが。X君の件は非常に大きい問題につながっていたと言えよう。付き合って良かったと思う。

                             以上.


希望がないのはナチスの方だった

2019-06-27 11:01:18 | 日記
「希望と引きこもり問題」の文で、参考までに書いたアウシュビッツ。虐殺された人たちは気の毒だが、では、虐殺したナチスやその賛同者たちはどうだったのか?、考えてみました。


  「希望」なるものはゼロに近かったと言えるでしょう。

  まず、ナチスは特に二つの発想から成り立っていました。「第一次世界大戦でドイツを叩いた国々への報復」と、「ユダヤ人の経済搾取への憎悪」。前者は後ろ向きな気持である事は言うまでもないですね。確かに、それらの国々もドイツに過度な弁償金を求めて、それでドイツ経済を破たんさせたなど、悪かった面はあります。でも、だからと言って、報復攻撃をして、何になるのでしょう。仮に、ナチスが核ミサイルを作り、イギリスやアメリカを破滅させたところで、ドイツ人たちの為にはならないわけです。ユダヤ人関係も。経済的な不公正が本当にあれば、法律関係で対抗すれば良いわけです。殺してもドイツ人の為にならないし、ユダヤ系の中にも良心的な人とか、子供みたいに搾取とは無縁の人たちも多かったわけです。子供たちまで殺したのは、もっと悪いですね。

  報復の件に限らず、ナチスの考えには未来向きのものが欠落していました。例えば、「ユダヤ系を抹殺か追放し、遺伝的病因も取り除き、健康な人たちがあふれるドイツ社会を目指す」。その具体的な姿も語られていない。どのような社会になるのか、ナチスの人たちも実際は判らなかったと。本当に体力がある人たちだけの社会になれば、病気がちの人たちはいなくなるから、体を皆思いやる事もないわけです。ならば、思いやりのない社会になる。体が丈夫で、思いやりのない人たちだけならば、一旦何かのトラブルが起きれば、それこそ、腕力に任せた大ゲンカが多発して、警察も仲介できず、どうにもならなくなりますよ。また、恋愛や結婚も。思いやりのない恋愛は性欲だけのものになる。これも一度トラブルが起きると、大ゲンカになる。短気で別れるはずだし、結婚してもすぐ離婚。子供も生まれなくなるわけです。社会崩壊。

  未来ヴィジョンというものがナチスにはなかった。ヒットラーは本当は希望がない、過去しか向いていない人だったし、ナチス幹部は勿論、それを支持した多くの当時のドイツ人たちもそうだったと言えます。希望がない事は怖ろしいわけです。

  また、収容されたユダヤ人みたいなものを「絶望状況」と呼ぶのならば、その絶望の中には「希望」も含まれています。明るく強い希望が。その言葉もおかしい気がします。

  むしろ、希望に気が付かない人たちの方が問題だと言わざるを得ません。かつて、僕の行った教派も、以上のナチスに通じる深い問題がありました。でも、その教派の人たちの事を時間を掛けて、徹底的に考えて、「希望の大切さ」を悟れた以上、そこに行って僕は良かったわけです。


希望とひきこもり問題など

2019-06-26 10:43:26 | 日記
引きこもりの人たちにも、中年以降になった人達に対しても、その人に合う「希望」を持たせれば、変わってくるかもしれない。


  ところで、こんな事に気が付いた。「希望を持てない」事と「絶望状況」は違うのではないか。「絶望状況」の典型とされているのは、ナチスの強制収容所に入れられたユダヤ人たちと聞いている。確かに、彼らにも毒ガスで殺される運命は判っていた。自由を奪われ、人権も奪われ、家畜以下の存在と見なされ、殺されていった彼ら。でも、アンネが典型的であるように、書く事が得意な人は思い切り書き残し、また、書く事が苦手だったり、まだ字も書けない子供たちは絵を徹底的に書いた。後世の世界中の人たちに何かを残そうとした。無論、彼らの想いも一人一人違うが、結果的に後世に生きている我々の心を打ち、虐殺や民族差別のない世界を作る動きにつながっている。つまり、彼らにも「希望」はあったわけである。本当は極めて大きな希望が隠されていた。彼らの事を「絶望」と呼べるのか。少なくとも、絶望状況と希望が持てない事は違うのかもしれない。

  何もひきこもりの人たちだけでもないだろう。今の日本には、希望が持てない人は多いわけである。明治以来の日本社会の一方的な価値観が原因かも知れない。明治以降は富国強兵が国の価値観になり、国民に浸透させていった。与謝野晶子が弟に対して「君、死に給うことなかれ」という、戦死するなと述べた詩を発表した所、多くの人たちから叩かれた事は有名である。戦争の度にそれが強くなり、1945年の終戦で終わった。それ以降は平和主義を求めた事もあったが、次第に「富国」だけになり、1989年までその価値観が日本社会を覆った。戦前、戦後と価値観の多様性を認めなかったわけである。戦前は強兵に希望を託し、戦後は経済だけに託すような人が多かった。ところが、バブルが崩れ、人口も頭打ちになり、富国もうまくいかなくなった1989年以降は日本社会自体に希望がなくなり、日本自体がひきこもり社会になっている気がします。そこに就職難が重なり、就職できなかった人たちが顕著に引きこもりになっていった。僕の推察通り、本当に日本社会自体に引きこもりの要素があるのならば、引きこもりの人たちを更生させるのはこのままでは難しいでしょう。

  「多様な価値観を認める」事も大前提にある気がします。一人一人が違った希望を持ち、尊重し合えるような社会になってほしい。与謝野晶子が叩かれたような社会は御免です。


未来志向=希望がないと

2019-06-24 13:52:14 | 日記
まず、未来志向という言葉は「希望」に置き換えられる。あるいは、希望の方が判りやすい人たちも多いかもしれない。


  希望の意識は常に未来に向いている。「今」をしっかり踏みしめ、過去を客観的に見つつも。未來を向く点が大事である。未來を向かなければ、他人と付き合っても、相手の今後の気持ちの変化は読み取れない。行動をしても、自分にどのように跳ね返ってくるかも判らない。つまり、他人への思いやりとか、愛などは不可能になる。そこで気が付いた問題がある。レイプ。短期間だったが、昔僕が行った教会関係の教派で、二人、レイプした牧師が出て、インターネットなどで知り、僕も驚いたものだ。あり得ない事が起きたから。それ以来、その問題も常に考えるようになっている。レイプの原因=性欲という説は短絡的で、どうしても賛成できない。それなら、力士みたいに体力がある男は全部そうしちゃうからである。思い出して考えると、どうしても未来志向がその教派に欠ける点にぶつかる。複数の牧師、神学生、若い信徒たちが証言していたわけだし。

  希望がなく、未来志向が持てないと以上の通り、他人の気持ちの変化も読みと取れなくなる。そこにたまたま性欲が強い男が、女性や少女を見ると、強引に性行為しても心が傷付く事は予想できなくなり、性欲のままにそうする。これがレイプ犯のメカニズムではないか。そして、二人のその牧師もそうしたと。それで説明付くわけである。

   その教派も過去の戦争協力みたいな事は反省している。でも、未来を向く事がないため、反省の為の反省に終わっているのが実情。そこに以上の件があり、事実上の崩壊になったわけだ。今のキリスト教や仏教関係は未来志向になれない所が多いので、同様の件もかなり起きている。日本でも同様の事件のあったキリスト教派も他にもあるわけだし、仏教関係にも多い。アイルランドでは大規模に起きて、社会問題化もしているわけである。何も性事件だけでもない。横領も起き得るし、僕の想像もつかない不祥事から潰れていっている教派も多いと思う。僕が知らないだけで。何も宗教関係だけでもない。未來に希望が持てずに犯罪に走ったり、麻薬にのめり込む例も多いと思う。最近の川崎市の子供たちを殺傷して自らも死んだ犯人もそうだし、心愛ちゃんの父親もそうだと。

   新約聖書の後半のパウロ書の所に「希望、信仰、愛は常にあるが、一番大きいのは愛である」という事が書かれているが、それについて疑問に思うようになった。希望無き愛はあり得ないからだ。むしろ、愛の基礎部分に希望や未来志向があり、切り離せないのではないか。二人の牧師は希望を持てなかったため、愛も信仰もできず、あのような大罪を犯したと。又、それを取り巻く複数の牧師たちも、希望が持てないから、愛も信仰も生まれず、教会組織だけを守ろうとして、隠ぺいというこれも罪を犯したと。

  希望が持てず、未来志向になれないと、他人の心も判らなくなり、そこに何かのエゴや欲が絡むと、相手を深く傷つけるわけである。何もレイプや殺人に限らない。我々も希望が持てないとそうなるわけだから、決して他人事ではないわけである。僕も自分の問題でもあると思っているし、全ての人間がそうである。

  今は希望が持てない時代だが、小さくても良いから、一人一人希望を持とうではないか。そうしていく事により、新しい文明価値観も湧いてくるわけだから。新文明はそうしてできるわけである。

「未来志向にならないと人は結ばれない」から見た封建時代

2019-06-22 11:23:51 | 日記
先のブログから封建時代の事も少し思ったので、書きます。


  確かに、封建制時代はどこの国もイエ中心の社会で、結婚も大体がお見合いでした。イエの繁栄のために仕事をして、結婚もした。子供の教育も親か、親の決めた家庭教師みたいな人が教えていました。どの国の時代劇を見てもよく判りますね。

  それでも、人々はイエ単位で結びつき、それが長く営まれていた。現代とは違い、イエが未来を作り合う活動主体になっていたからです。他にあるとして、宗教関係だけでしたね。

  古代から中世に掛けての各イエは大家族制で、その目的はイエが富栄える事がほとんどでした。現代の会社の役割を兼ねていたようです。イエに尽くすか、宗教関係に行くしか人々の生き方はなかったわけです。他は乞食になるだけ。また、女性の人権は非常に無視されて、子供を産む機械みたいな感じでしたが、結婚前も、嫁した後も、イエに尽くすしか生き方の選択肢もないし、生き方を考えられるだけの教育も受けていない例がほとんどだったので、それしか知らなかったため、女性たちも泣きながらもそうしたわけです。忍従しながら。

  勿論、大家族のボスになる為の争いは多かったですが、大家族制はずっと続いた。それが近代になり、交通機関が発達して、人々が出会い、また、産業も発達して、会社も生まれたので、未来志向の場は会社関係に次第に移り、大家族制度はヨーロッパから次第に衰退した。日本でも明治維新後から少しずつ衰退し、戦後は新憲法もあり、消滅したわけです。

  例えば、会食とか遊び、会話をするみたいな関係は親戚間で現代でもあります。それは構いませんが、もう一族間で未来志向の事業をしたり、生きていく事もないため、大家族制に戻る事はあり得ませんね。人間は未来志向でないと共に生きる事はあり得ないでしょう。(昔のもう一つの未来志向の場だった宗教関係が現代になり、衰退の一途をたどっている事も以上の理由だと思われる。「未来志向でなければコミニティもできない」事に気が付かず、深く悩み続けている牧師たちの姿も見てきた事がある。当時の僕も気が付かなかったから、助言はできなかったが。無論、仏教のお坊さんたちも同じだと。福祉関係でもそれに気が付かず、単に友人になったり、仲良くすればコミニティはできると構成員たちが思い、潰れていった福祉会も複数見てきた)。