唯脳主義のルーツをたどると、ルネ・デカルト(1596年から1650年)にさかのぼるからです。デカルトは「コギト・エルゴ・スム」というラテン語を述べましたね。日本語には「我、思う故に我有り」と翻訳されていますが、思うの所はかなり「考える」という意味が含まれていると思われます。また、脳を人体の特殊な器官と考え、脳にある松果体に霊魂が宿っているとも説いたわけです。霊魂の問題はここでは置いておきますが、その辺りから西洋では思考や理性、人知第一主義になっていった。時と共にその発想が深まっていき、例えば、神様よりも人知を重んじる考え方も次第に出てきます。明治期には日本に入り、多くの日本人は「西洋は人知第一主義」と誤解したわけです。今もそのような日本人もいるようですが、但し、長年西洋をリードしてきたキリスト教はそのような考え方ではないですし、やはり、それと並んで西洋思想の核となってきたソクラテスは「無知の自覚」を強く説きましたね。「謙虚であれ」と。だから、西洋思想=人知第一主義とも言えないと僕は見ています。
さて、ナポレオンもその流れでしたし、マルクスは「労働者の連帯が共産政府を指導」と述べましたが、後継のレーニンが早くも人知第一主義になり、その後のソ連体制は知的エリートが人民を指導という体制にすり替わっている。マルクスというより、「デカルト体制」みたいだったと思います。ナチスの問題、日本の明治以来の官僚支配などにも言える。その間に資本主義と個人主義が発達。資本主義で人間の欲望は膨れ上がった。「理性で欲望は抑えられない」事はすでにシャカ、パウロ、ムハンマドたちが指摘していたわけですが。また、理性で人はつながるのでしょうか。疑問ですね。
僕も高校時代から以上ではダメだと思うようになり、高校の時は仏教に関心を持ちました。同級生にも、唯脳主義の限界を悟った者もいた。卒業後も同様の疑問を持つ者たちと多く出会った。その中には「江戸時代の方が良かった」と言い出す人も現れた。さすがに僕は同意できなかったものの、今思うと気持ちは判ります。確かに、考えるだけではどうにもならない。かと言って、昔は遺伝子科学は発展しておらず、そこからの共生も考え付きませんでしたからね。そのような懐古的な発想が出てもおかしくないでしょう。
唯脳主義では相手の気持ちが判らない。島田療育園の医者たちもそうだった以上、「人体実験」にも至ったと今は気が付いていますが。そこで僕が対決した真の相手もデカルト思想だったと気が付きつつある。小林博士を名指しで非難しなくて良かったと思います。はるかに大きい問題があったようです。
さて、ナポレオンもその流れでしたし、マルクスは「労働者の連帯が共産政府を指導」と述べましたが、後継のレーニンが早くも人知第一主義になり、その後のソ連体制は知的エリートが人民を指導という体制にすり替わっている。マルクスというより、「デカルト体制」みたいだったと思います。ナチスの問題、日本の明治以来の官僚支配などにも言える。その間に資本主義と個人主義が発達。資本主義で人間の欲望は膨れ上がった。「理性で欲望は抑えられない」事はすでにシャカ、パウロ、ムハンマドたちが指摘していたわけですが。また、理性で人はつながるのでしょうか。疑問ですね。
僕も高校時代から以上ではダメだと思うようになり、高校の時は仏教に関心を持ちました。同級生にも、唯脳主義の限界を悟った者もいた。卒業後も同様の疑問を持つ者たちと多く出会った。その中には「江戸時代の方が良かった」と言い出す人も現れた。さすがに僕は同意できなかったものの、今思うと気持ちは判ります。確かに、考えるだけではどうにもならない。かと言って、昔は遺伝子科学は発展しておらず、そこからの共生も考え付きませんでしたからね。そのような懐古的な発想が出てもおかしくないでしょう。
唯脳主義では相手の気持ちが判らない。島田療育園の医者たちもそうだった以上、「人体実験」にも至ったと今は気が付いていますが。そこで僕が対決した真の相手もデカルト思想だったと気が付きつつある。小林博士を名指しで非難しなくて良かったと思います。はるかに大きい問題があったようです。