トシコロのありのままの暮らし


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僕もデカルトと対決していたようです

2019-10-31 17:10:48 | 日記
  唯脳主義のルーツをたどると、ルネ・デカルト(1596年から1650年)にさかのぼるからです。デカルトは「コギト・エルゴ・スム」というラテン語を述べましたね。日本語には「我、思う故に我有り」と翻訳されていますが、思うの所はかなり「考える」という意味が含まれていると思われます。また、脳を人体の特殊な器官と考え、脳にある松果体に霊魂が宿っているとも説いたわけです。霊魂の問題はここでは置いておきますが、その辺りから西洋では思考や理性、人知第一主義になっていった。時と共にその発想が深まっていき、例えば、神様よりも人知を重んじる考え方も次第に出てきます。明治期には日本に入り、多くの日本人は「西洋は人知第一主義」と誤解したわけです。今もそのような日本人もいるようですが、但し、長年西洋をリードしてきたキリスト教はそのような考え方ではないですし、やはり、それと並んで西洋思想の核となってきたソクラテスは「無知の自覚」を強く説きましたね。「謙虚であれ」と。だから、西洋思想=人知第一主義とも言えないと僕は見ています。


  さて、ナポレオンもその流れでしたし、マルクスは「労働者の連帯が共産政府を指導」と述べましたが、後継のレーニンが早くも人知第一主義になり、その後のソ連体制は知的エリートが人民を指導という体制にすり替わっている。マルクスというより、「デカルト体制」みたいだったと思います。ナチスの問題、日本の明治以来の官僚支配などにも言える。その間に資本主義と個人主義が発達。資本主義で人間の欲望は膨れ上がった。「理性で欲望は抑えられない」事はすでにシャカ、パウロ、ムハンマドたちが指摘していたわけですが。また、理性で人はつながるのでしょうか。疑問ですね。

   僕も高校時代から以上ではダメだと思うようになり、高校の時は仏教に関心を持ちました。同級生にも、唯脳主義の限界を悟った者もいた。卒業後も同様の疑問を持つ者たちと多く出会った。その中には「江戸時代の方が良かった」と言い出す人も現れた。さすがに僕は同意できなかったものの、今思うと気持ちは判ります。確かに、考えるだけではどうにもならない。かと言って、昔は遺伝子科学は発展しておらず、そこからの共生も考え付きませんでしたからね。そのような懐古的な発想が出てもおかしくないでしょう。

  唯脳主義では相手の気持ちが判らない。島田療育園の医者たちもそうだった以上、「人体実験」にも至ったと今は気が付いていますが。そこで僕が対決した真の相手もデカルト思想だったと気が付きつつある。小林博士を名指しで非難しなくて良かったと思います。はるかに大きい問題があったようです。


唯脳主義からの卒業

2019-10-30 10:01:44 | 日記
「日本の歴史・上巻(網野善彦著・岩波新書)」の「縄文時代の身障者・病人介護」の所をこの秋に読み返し、遺伝子力の働き・連帯だと推察し、それで僕の世界観は変わったようだ。今までの唯脳主義から卒業できた。唯脳主義を少し振り返りたい。


  確かに、脳は一人一人違うから、他人の考えも全然判らず、つながりもないから、唯脳主義では誰でも孤独・孤立する。それを埋めるものなんて、存在しないわけだし。又、どんなに頭の良い人でも思考力には限界があるから、社会問題を考え詰めても勿論、自分の生き方を考えていってもなかなか見えず、結果的には何もできない。僕も長年そうだったし、高校時代の卒業作文に、学年一頭の良い人がそのような事を書いていたのも思い出される。何もできないならばまだ良い。生き方を考え詰めて判断を間違い、一生を棒に振ったような人も旧友にもいくらでもいた。


  20世紀の歴史を見ると、更によく判るだろう。唯脳主義で考え詰めた代表はヒットラーとスターリンだったと思われるからだ。ヒットラーは当時の科学を基に、ドイツやヨーロッパの社会を徹底的に考え詰めた果て、「わが闘争」などの難しい理屈を述べ、ユダヤ人や障碍者、難病患者、ロシア人などを「劣った人たち」と考えるようになり、虐殺していった。確かに、脳はつながっていない以上、ヒットラーにしてみれば、殺される人たちの気持ちも判らず、恐ろしい政策や戦争をしたわけだ。自分に反対する者たちを「血の粛清」していったスターリンも同じ。スターリンは更に、自分の意識は死後は消えると考えるようになり、恐怖感を持ち、晩年はノイローゼになっていった。粛清はともかく、今の日本(世界中そうだろうが)の高齢者たちには、死後は意識が消えると考え詰め、暗い気持ちにもなっている例が多いと僕も多く聞いている。人間の思考、脳の力は死を超える事はできないのに。死の事は置いておいても、ヒットラーも、スターリンも「人をつなぐもの」があれば、世界観も変わり、虐殺や粛清は絶対にしなかったと今の僕は気が付いているわけです。二人共、頭脳聡明でしたが、本当に頭でっかち、「脳だけ」の人でした。ならば、他人とのつながりもなく、殺しにもなりますよ。何も二人だけでもない。昭和初期以降の日本軍部、1965年以降ベトナム戦争を起こしたアメリカ政治家と軍部、1979年以降アフガニスタン戦争を起こしたソヴェト政治家と軍部、オウム真理教を作った麻原などにも言えると思います。彼らは殺される側の気持は判らなかった。多くの戦争と虐殺がすでに唯脳主義の限界を示していたわけです。

   現代人の孤独感や離婚、非婚の問題にも言えるし。その問題も、対策も考え詰めていっても、解決策はないでしょう。あるいは、度々話している僕が見聞した、考え詰めたり、話し込んで、ボランティアや身障運動が挫折した問題も根は同じだと。昔は遺伝科学が発達していなかったから仕方ないにしても、「同じ遺伝子を持つ人間同士だから、関わり合う」で良いわけです。(フェイスブックのコミニティでもよく目にするが、身障者が異性から恋愛対象にされにくい理由の一つも、特に身障者と向き合うと考え込み、頭でっかちな気持を健全者側が持っちゃうのだな。身障者側も持つ例もあるけれど。その件は一筋縄ではいかないが、僕の経験上もそのような問題があると思う。大体、恋愛の科学的なメカニズムはまだ解明されていない以上、対策も立てられないのも当然だと。これも唯脳主義や、恋愛は性欲説では解明もできず、解決などはできないと思われます)。

  とにかく、個人レベルでも世界観の変化は大きく、今年の僕の一番の出来事であると思うわけです。また、「人体実験・職員の園生虐待」など、島田療育園が狂った理由や、戦後日本のらい予防法などのハンセン氏病元患者への隔離政策なども、唯脳主義の流れも大きいと思われるわけです。無論、その事は例の小説にはストレートには書きませんが、今後の書き方の参考には大いになるわけです。

  脳単位に人々を考えたらつなぐものは何もないですが、遺伝子本位に考えたら、100%近くは同じだから、人はつながる。言えていますし、又、古くからある「劣った家系や遺伝」の迷信も、新しい遺伝子科学で消えていくと僕は思っています。科学的に物事を見て、迷信は排除する姿勢も大切ですね。(最新科学で言えるのはここまで。それだけでも素晴らしい事だと思う。あと、死後の問題は、臨死体験や前世記憶の催眠引き出しなどの証拠が多くあるが、もう少し科学が発達しなければ出てこないだろう。坂本政道氏など、科学者たちがそれを研究しているから、彼らに期待したい)

遺伝子活性化・それを阻害したもの・日本の公立学校問題

2019-10-29 10:44:49 | 日記
70年代後半、短期間ながらも僕も入り、色々な活動場を持っていた福祉団体。例えば、そこに住んでいないのに、高島平団地の一角に行き、子供会を毎週したり、島田療育園や、下町の盲学校に行ったり、多磨全生園に行き、元患者の伊藤まつさんと親しくもした。その全部ではないが、僕も同行し、ワクワクしていたのをはっきりと覚えている。会の仲間たちも同様だった。恐らくはメンバー一人一人の遺伝子力がそれらの場に行き、活性化して、又、活動場の相手とも遺伝子力が通じ合っていたのではないか。子供会はサポーターたちは子供たちを弟妹みたいに感じていたから、毎週楽しく行けたと。子供たちもお兄さん、お姉さんみたいに思って。盲学校や島田療育園でも同じだっただろうし、歳は逆転していたものの、伊藤まつさんと僕の関係も、遺伝子が共鳴して、本当に「おばあちゃんと孫」という関係になっていたから、まつさんが昇天するまで行き続けられたと。以上は今の発達した遺伝子科学でやっとメカニズムが説明できるようになったわけだが。それを多く見て、又、自らも体験した事は僕にとってもものすごい事だったと思うわけだ。


  でも、まず、部外者にはそれらの様子は判らない。説明する必要があるが、メカニズムが判らなければ説明もできない。また、人によっては、何故、子供会などに行くか、自分で納得できない例も出て

、メンバーは「何故、行くのだろう」と考え込む、話し込むようになった。そのヒントを得るため、福祉や教育関係の本を読み漁った人もいたが、無論、どんな本にも答えなんかは書いてない。僕含めて、今度は頭でかっちの状態になった。脳の思考部位だけが働く状態にメンバーはなっていったわけですね。そうするとワクワク感も消え、どの活動場にも行きたくなくなる人ばかりになり、メンバー間も心通じなくなり、それで福祉会も終わったわけです。メンバーの遺伝子力は衰えた。活動場に行っても、相手との遺伝子共鳴が起きなくなっていたと推察付くでしょう。それで恋愛もできなくなる・他人と付き合えなくなる例も増えていきました。病気がちになった人たちも出たわけです。遺伝子力は健康にも影響しますから。

  ならば、考え過ぎ・理性偏りが遺伝子活性化をストップさせたと言わざるを得ません。80年代、社会福祉協議会などの人たちから「高校生ボランティアはそのまま自然体で相手と付き合うからボランティアも続く。大学生ボランティアは本を読んで、勉強しちゃうから、変に考えて続かない。本は読むものではない」と聞きましたが、かなり当たっていますね。また、以上と同じ時期に入っていた身障会は話し合いばかりしていた。早くに行き詰まり、潰れていますが、それも頭でっかちに早くなった為だと今の僕は気が付いています。その結果、一部の身障者しか使えない介護制度を作ってしまった。それはすでに撤廃されていますが、頭でっかちの付き合いをせず、皆でワクワクした状態にしたら、そのような事はなかったと見ています。

  肝臓でも、心臓でも、他人の臓器を移植すると、移植した臓器の人の性格とか記憶が乗り移るという不思議な現象が相次いでいますが、それも遺伝子の働きであり、精神みたいなものは脳ではなく、本当は遺伝子で作られると僕は見るようになりました。そうでもしないと、以上の全ての現象が説明付きませんからね。遺伝子の役割は従来考えていたよりも大きく、脳の役割は意外と小さいかも知れません。


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  でも、以上のボランティアの経験は今の介護や保育関係の役には立つと思いますが、教育関係の根本的な改善策にはならないでしょう。昔から、教育関係にボランティアや障碍者関連を取り入れて改善を図る声が出ていますが、福祉や障碍者に生徒たちの目が向く効果はあっても、学校現場の活性化にはつながっていない。今は「先生同士のイジメ」まで起きてしまった。改善すればするほど、悪くなる例も多い。ある中学教師は「資本主義社会のせい」と言っていますが、日本特有の問題が多すぎ、それも的外れの気がします。

  明治期の教育方針にまでさかのぼるかもしれない。「富国強兵」目的で日本の公立学校は作られましたが、戦後になり、かなり改善されたものの、歪みを残し、その後は戦前とは別の歪みが多く生じて、今に至っている。誰も問題点が判らない。「判らない」事こそが今の日本の教育の根本問題だろうからです。羽仁進氏は1970年ごろから教育に警鐘を鳴らし、公立学校の在り方を厳しく批判していましたが、それから50年して、その歪みはもっとひどくなっている。一筋縄ではいきませんね。難しい。


実録小説第9章の説明

2019-10-28 13:09:09 | 日記
うずもれた感はあるとは言え、水上勉氏も登場させなければならないと思い、「小町天使」の章の前にさかのぼり、書いてみた。書いている内に悩みが生じた。最後の方に書いた時の池田勇人首相への手紙の内容である。その注釈の通り、そのまま載せれば盗作になりかねない。仮に法に触れなくても、僕の本意ではない。それに、例えば、水上氏の小説の「くるま椅子の歌」は非常に判りやすい文章なのに、その手紙の内容は判りにくい。当時だから「オシ・メクラ」みたいな言葉があったのも仕方ないが、それを現代の言葉に直しても、判りにくいわけである。尚更、載せる事はできない。


  考えた果て、僕なりに読者が判りやすい言葉と内容に変えて、書く事にした。今は天国だが、いつも難しい話をする脳性まひを持つ人と付き合い、今も旧友たちに彼の言葉を判りやすく要約して述べているので、その手法を応用したわけである。島田を「シマハタ」と書くなど、事実をフィクションを交えて書いているので、それは許されるのではないかと思って。又、「難しい話をしていた」脳性まひの旧友との付き合いも役に立っているようである。詳しくは申し上げられないが、天国にいる彼に「ありがとう」と言わせてもらう。

  さて、小説章の順番。第10章が「秋田小町」。第11章が11月中に書き上げる予定の章。12章に、前にも述べた、光明養護学校初代卒業生で作家・俳人・身障運動家の大物の花田春兆氏を登場させます。今回は水上氏と「心の対話」をして、また悩みましたが、花田氏を登場させる時も僕はそうなるでしょう。


実録小説・シマハタの光と陰・第9章・作家の水上勉、シマハタに行く

2019-10-28 11:22:52 | 日記
   シマハタの状況はテレビ・ラジオ・新聞を通して日本中に広まり、それに深く注目した人の一人に、作家の水上勉氏がいた。自分の次女が身障児である事もあり、シマハタに注目した。


   「障碍児たちが多く療育されているシマハタはどのような所だろうか。行って、この目で確かめよう」

と思い、1963年(昭和38年)の4月に、豊島区の自宅から車を運転して二時間かけて、シマハタに行った。しだれ桜がバスから時おり見えたが、心はシマハタのことに向いたままであった。バスから降り、少し歩いてシマハタの建物に入り、受付の職員に

  「水上勉です。見学させてもらえませんか」

と述べる。



職員は


  「作家さんの水上さんですね。私もあなたの作品をお読みしました。喜んで案内させていただきます。林田園長にもさっそく連絡します」

  と返事をし、水上氏はそばにあるソファーに勧められて、腰を下ろした。少しして、林田博士が現れ、話を少し交えた。水上氏は

  「新聞やテレビでシマハタのことは拝見しております。実は、私の次女も重い身体障害を持って生まれました。それで、親として、障碍児をたくさん療育していらっしゃるシマハタのことが他人事として思えず、非常に気になっています。私にできることはたかが知れていますが、それでも文人としてシマハタのPRができれば良いと思い、見学をまずはさせていただくことにしました」。



   林田博士は


   「さっそく、ご案内しましょう。まずは娘さんと似た障碍の状況の子が多い部屋から」。

   二人はそこに向かった。水上は多くの身障児を初めて目にした。一人一人動作や発する言葉が違った。非常に個性的に見えた。

   「おじさん、こんにちは」

と大きな声を掛ける男の子もいた。思わず、水上も

   「こんにちは。おじさんは今日はここを見に来たんだよ。元気がいいね」

と返事をした。中には寝たきりの子もいた。自分で自分の頭をなぐっている子もいた。水上は衝撃を受けた。だが、もっと目に着いたのは、明らかに腰をかばいながら、園児のトイレの世話をしている一職員である。

   「腰をかばいながら看護をしているようにも見えるが、あの女性職員の姿勢はおかしいと違いますか」

   林田博士は

   「確かに。彼女はかなり前から腰の骨も変形している。一度に何人もの子供の看護をしているからね。休む日もなく。本当はしばらく休ませないといけないわけだが、休むと代わりに子供を看護する人がいないから、そうなるわけだ。他の病室も同じ状況です」

   それを聞き、水上は深くうなだれた。腰の骨が変形しながらも、自分に鞭を打って看護を続けている、まだ18歳くらいの女性職員が痛々しく見えて仕方なかった。思わず、

   「哀れだ」

とつぶやいた。

   他の病室も少ない人数で看護する若い女性の職員のあわれで、けなげな姿が目についた。水上は

   「政府は何をしているのだろう。オリンピックや道路整備ばかりに予算を使って。おかしい。こうなったら、池田総理大臣に直訴するしかない」

   と心の中で思い、林田博士に

   「あのう、ここの職員を増やす措置と、補助金の増額の手紙を私が池田総理に訴える手紙を書かせていただきたいと思いましたが、いかがでしょうか」

   と尋ねると、林田博士は微笑んで


   「それはありがたい。大変感謝します。作家さんは手紙の書き方もうまいから、きっと素晴らしい手紙になるでしょう」


   と返答した。





    内容と文面を徹底的に考え、またもう一つの障碍児施設のことも考慮して書いた。

「拝啓。池田総理大臣殿。あなたは定時制高校の生徒の問題に心痛められるなど、優しい心をお持ちですね。そこでお知らせし、提案も致します。東京の郊外にはシマハタ療育園があり、又、滋賀県にも同様の療育園があります...。尊い心を持つ職員さんたちによって運営されていますが、人件費が足りず、職員も少ないままです。徹夜勤務も多いし、職員一人が多くの園児の看護をしなければなりません。シマハタ療育園に私も実際に行ってみましたが、腰の骨が痛んだ若い女性の一職員が園児たちの看護を痛々しい姿勢でされており、見ていて涙が出そうになりました。かわいそうです。このままで、日本の障碍児の看護はよいのでしょうか。その対策として、シマハタと琵琶湖の療育園にそれぞれ年二千万円の予算をお与えいただけないでしょうか。実は、私の娘も重い身体障碍を持っており、何とか我が家で育てられていますが、障碍児の親として、シマハタなどのことは他人事とは思えないので、一筆啓上いたしました。無礼をお詫びいたします」。




  池田首相に送られたほか、雑誌・中央公論にも載せた。読者から返信があるなど、反響は上々だった。池田首相も心は打たれたが...。



(注. 水上勉氏の手紙は実際は大変長く、また、判りにくい内容である。インターネットにあるものをそのまま写すことは盗作に当たりかねないし、仮に法に触れなくても、僕の本意ではない。又、載せても読者に判りにくければ仕方ない。考えた末、内容を要約し、判りやすい言葉にも変えて、書いたわけである)