トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

人間関係歴史

2021-11-27 14:38:39 | 日記
戦前の日本は大家族制で結婚もイエのためのものであり、恋愛は社会的に抑圧され、また、身障者・在日コリアン系・被差別民の結婚差別は深刻でしたね。
 でも、戦後は別の問題が。五体満足で金もあり、被差別系でもない人たちも非婚が多い。旧友にも多いです。詳しく考察すると、結婚どころか、恋愛もできない例ばかり。それ以前に、人付き合いや友人関係もできない。一緒に酒を飲み、ムードだけ仲良くする程度で。そばに悩む人がいても、付き合い方も知らないから、話を聞いても冷たい態度しか示さない。他人の心を受け止められない。そのような問題を僕も70年代後半から諸々の福祉会、親睦会、教会関係で聞いています。そのような状況を話す人自身が他人に冷淡の例も多い。そこに戦前からの結婚差別の伝統がありますから、身障者などは「結婚差別」と怒る例が多いですが、実はそれ以前の事です。
 マイホーム主義の中で育つと他人との付き合いになれていないから、どうしても他人の悩みに対応できず、冷淡にもなるのではないかと。友人になれない。他人のことに気が付かないから、魅力的な異性がいても男女共に無関心とか。付き合えなければ、恋愛どころでもないわけです。寂しさとか肉体的興味で結婚しても、すぐに離婚。とに角、人付き合いは学校以前に、家に来るお客や親戚から子供は学びますからね。
 しかし、マイホームが崩れて久しい今は以上とは状況が違うと思います。平成=1989年以降、児童館や保育施設が増えた事もあり、次第に子供たちはそれらから人付き合いを学んでいる。シングルママ世帯には、ベビーシッター・子守を頼む例も多く、そこからも同様の効果が。それと例の大震災効果もあり、21世紀世代は明治以降では、最も人付き合いがうまい世代になっていると聞いた事もあります。交友、恋愛、結婚は復活。ただし、その結婚はマイホーム作りは意図しないものでしょう。多種多様。しっかりした交友に根差すものならば、恋愛や結婚での差別も起きない。自己を確立した結婚ならば、リモート機械を仲介した、別居婚でも構わないし、入籍しないものでも良いわけです。
 光も見えているかもしれませんね。

ホーキング博士が語る昔のヨーロッパの教会

2021-11-26 11:27:47 | 日記
  ヨーロッパの昔の教会の対障碍者については、一部はホーキング博士の最後の著書「ビック・クエスチョン(NHK出版)」に書かれているようです。ヨーロッパの昔の教会が非常に障碍者を差別したと、怒りのこもった個所もありました。ヨーロッパの障碍者差別については、僕は知らないので書き写すことはできませんが、興味のある人はその本を読んで下さい。
 但し、僕が思うのは、本当にホーキング博士の言う通りならば、ヨーロッパには障碍者尊重の伝統はないわけだから、教会を否定した後の国民国家・徴兵制度や資本主義も、共産国も障碍者を尊重しないものになるわけです。
 それともう一つは、教会と本来のキリスト教は区別しなければなりませんが、ホーキング博士はその区別が付いていないようです。本来のキリスト教は障碍者差別はしません。

フランス革命の影の根

2021-11-25 16:54:57 | 日記
  自由・友愛・平等。船井幸雄氏は「自由と平等は両立しない。フランス革命の観念が経済にも入り込み、より経済自由を求める資本主義と、より経済平等を求めるマルクス主義に分かれたが、すでに後者は終わった。資本主義も間もなく終わる」と多くの著書で書いたが、自由と平等の事は今回は置いておく。漢字で「友愛」と訳されている観念は何なのか。因みに、1970年ごろの中学の教科書には「博愛」と訳されていたが、誤訳だったようだ。友愛は日本や中国、仏教で用いられているそれとも違う観念のようだ。要するに、仲間や革命同志の内にはうんと濃いが、敵対する者には非常に憎む性格の愛。フランス革命時に王様やマリー・アントワネットをギロチンに掛けたような憎しみが込められている。フランス語が判らなくても、歴史を見れば判るわけである。その革命精神を受け継いだナポレオンは封建的だった他の国々を憎み、戦争ばかりしていた。その後の世界各国の革命と政治・民族思想にも同様の発想が流れ込んだ。ナチスはその典型でユダヤ人を虐殺。戦後のシオニズムやイスラム原理主義にも流れている。内向きでもあり、困った面もある。それゆえ、フランス革命批判する本も多い。一理はある。でも、強くは批判はできない。当時はフランス国王と修道院などを潰さなければならない理由があったから。

  それ以前は王権と教会の権威が結びつき、王侯貴族は農民から徹底的に搾取するなど、ひどく、教会も搾取に協力。異議を唱える人たちは宗教裁判に掛けられ、悪魔や魔女として火あぶりとか、過熱し、液体になった鉄や銅を手足に流すなど、後年のナチスよりも残忍な事を常にしていたから。そのような土台があれば、その反動で敵を憎む思想が出るもの。そのような背景もあった。無論、魔女裁判は聖書に明らかに反している。それでキリスト教はおかしいにはならない。聖書=ヨーロッパでもないが、魔女裁判になった理由は中世末から近代初めのヨーロッパ社会のたくさんの歪みが根にあると思われる。そして、資本主義などの経済構造から、以上に関係ないはずのアジアや中東にも憎しみの思想が入り込み、多くの戦争に至っているのかもしれない。難しい歴史因縁がありそうだ...。

市民意識とは何ぞや

2021-11-24 10:08:35 | 日記
  中学の時、社会科の先生がフランス革命を起こした市民の事を「大商人など、金はあるが、政治発言できなかった人たちの事です」と説明してくれた。聞いた人の全員が過去の事だと思った。僕含めて、市民意識は持てなかった。後、70年代末、富士福祉事業団役員の一人から「日本人は市民意識が薄いからボランティアは広まらない」とぼやきの声を聞いた事がある。でも、同じころ、無教会の伊藤節男伝道師が「市民意識では何もできない。個人と個人の間にできる愛だけが人を結ぶ」と違う見解も述べられている。今の僕は、例えば、島田小説を書かせているのも個人としての意識である事に気が付いている。障碍者として書いているわけでも、市民意識で書いているわけでもない。大体、問題の核は経済であり、障碍者問題でもないわけだから。

  フランス革命後のヨーロッパだが、お金を巡り、資本家と労働者の対立が激しくなり、市民は分裂。マルクスの述べた通りである。20世紀になると、男と女とか、健全者と障碍者、少数民族などの対立軸が多くでき、市民連帯・意識は分裂に分裂をした。70年代の時点でヨーロッパでは市民意識はどうだったのだろうか。因みに、明治になり、日本にその観念が入ると、国家役人たちは「臣民」、つまり、天皇の下の市民意識という独特の観念を作り上げたが、実際はそのような意識を日本人は持てたのか、僕には判らない。

  今の僕は確かに障碍者意識なるものはおかしいと気が付き、捨てた。でも、相変らず、市民意識は持てない。これで良いと思う。大体、今の日本で市民と呼ばれる人たちはどのような人たちなのか。精神障碍者やアイヌ、在日韓国人・ロシア人などの多くの日本人から差別されている人たちに「同じ市民だよ。連帯しよう」と言うことは非常に失礼に当たると考えるからである。更には、外国国籍を持つ何十憶もの人たちや、やがては地球に来るだろう、宇宙人に対して通用する観念なのか。聴障者に対しては、とか、疑問だし、判らなければその観念は持てないわけである。シャカの説いた「自己を拠り所にしろ」であり、それでもできなければ、神に人とのつなぎを頼む。これで良い。(「市民意識は人間中心の観念。それとキリスト教は両立しない」とラジオで神学者や牧師の講義もよく聞きます)。

  最後に、大切な事。市民意識が持てないからと言って、政治に無関心だったり、棄権してはいけないと思います。選挙権は個人個人に与えられたものであり、個人が単位だから。本来、立候補するのも、投票するのも個人が単位です。今の政党組織単位の政治はおかしいかも知れませんね。この問題も歴史が長い時間を掛けて解決すると思われます。

人間同一視の根を探る

2021-11-22 10:39:30 | 日記
  僕含め、かなりの身障者が他の身障者と同一視された事を証言している。ハンセン氏病元患者や在日韓国人も同様な事をされる事が多いとよく聞く。もっとおかしな事は、身障者たちも自分たちを同一視し、話し方も主語が私ではなく、「障害者は」になる事も。同一視を怒りながら、自らもそうするわけである。もっと広く見ると、「アメリカ人は・ロシア人は・中国人は」という見方の会話も方々で目に付く。外国の小説、映画、市民へのインタビューにも、外国人や少数民族への同一視がたくさん出てくるし、自らも「イギリス人は」みたいな発言をよくする。どこの国もいるのは多くの個人個人であり、例えば、イギリス人なる人物はいないのに。

  以上の理由はマスコミ報道だと聞いた事がある。確かに、そのような表現の報道も多く、うなづけるが、歴史を見ると否定される。マスコミが発達していなかった時の南北戦争前後のアメリカの「風と共に去りぬ」でも、黒人や北部同盟の人たちの同一視が見られるし、マスコミがなかった時のシェークスピアの「ベニスの商人」でもユダヤ人同一視が。「ユダヤ人はダメだ」みたいな。マスコミに関係なく、黒人やユダヤ人は同一視されていたし、ヨーロッパ系の人たちも自らを同一視していた事も容易に想像できる。自分たちを仲間みたいに同一視しているから、そこに差別意識が絡み、少数民族や外国人への同一視が顕著になるようだから。

  今の僕の以上の根の探究はここまで。非常に深い理由がありそうだが。しかし、理由は判らなくも、対策はちゃんとある。

  自分は自分、他人は他人と割り切り、しっかりと自分を持つか、又は、自分と神や仏としっかり意志疎通し、いかなる他人に対しても個性と人格を認めて、接していく事である。前者はシャカが説き、後者はイエスやムハンマド、親鸞などが説いた。これが慈悲とか愛であり、人と人を結ぶわけだ。でも、人間のする事だから宗教関係でも次第に忘れられ、自教派も、他教派の人たちも同一視し、宗教差別や戦争にもなったのかもしれない。百年前に生きた内村鑑三が鋭く指摘していた事だが。

 もう一つ。人間個人の持つ力は本当はものすごく強いのかもしれない。または、個人は神と意思疎通でき、力を与えられると言おうか。何かのプロジェクト目的は別として、いかなる仲間関係も作る必要はないのだろう。愛が大切である。