トシコロのありのままの暮らし


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共有経済を今の時点で考える

2016-10-31 17:16:00 | 日記
  最終的な評価は歴史の審判を仰がなければ出てこないが、ヨーロッパに今は限られているとは言え、新しい動きには違いない。


  思えば、今までの共産主義の多くは「生産手段(工場や農地)の共有」だった。私有財産のことは放置されていた。資本家たちの持っていた工場や、地主の持っていた農地は没収されたので、社会主義になると私有財産が取られると思った人たちもいるが、それは誤解である。唯一、私有財産の問題に1975年以降のポル・ポトはカンボジアで取り組み、人民の私有財産を権力を使って取り上げた例はあったが。それに抵抗した人たちは容赦なく殺されるなど、非常に残酷な展開となった。人々の意志はポル・ポト政府の下では無視されたわけであり、それは許されるものではない。


  でも、今回のヨーロッパの例は、構成員の合意に基ずく財産共有化であり、ポル・ポトとは大きく状況が違う。人間は誰もが自分の財産は大事であり、いくら仲が良くても、夫婦以外は分かち合いたくないものである。人間が太古から培い、特に18世紀以降は強くなった深い性分である。それが「分かち合い」。新約聖書の使徒行伝には、財産の分かち合いの記録が記されているとは言え、ものすごい事であり、僕も関心を持ったわけである。

  思えば、財産を巡り、兄弟姉妹が争うような事件が世界中で多発したり、離婚夫婦も財産分配で憎み合うようになる事も多いなど、お金というより、お金への欲望が不幸をもたらす事も多い。でも、信頼できる仲間で共有すれば、そのような不幸も少なくなるのではないかと。人々も本当の絆が生まれて、友情や心を大切にしあえるようになるわけである。我々は子供の時に学校で、「友人を大切にしなさい」とか「お互いの心を大切にしなさい」、「兄弟姉妹は仲良くしなさい」と教えられたはずだ。それがお金が人間関係の中に入り、醜い争いになり、殺し合う例も後を絶たない。学校・先生の教えも帳消しにするようなお金への欲望は何なのかと。お金よりも大切なものはたくさんあるわけだし。

  それともう一つ大事な点は資源問題。どのような資源もすでに足りなくなっており、共有しないと何もできなくなりつつある。ヨーロッパもそのような状態になっているわけである。資源を好きなだけ使っている国は日本、中国、アメリカくらいである。その中国も、農民層か多く、やはり、そのような人たちは経済成長の恩恵を受けられず、中国でも問題化しているし。日本とアメリカがこのまま、世界中の資源を使い放題にする事は許されないわけである。資源の面から考えると、日本やアメリカも共有経済になる事は時間の問題かもしれない。(そう言えば、話はずれるが、日本近海では各国共、魚の取り合いが年々激しくなっている。国際協定を結べば良いという話でもないだろう。魚の問題では、東アジアに於いては、すでに大変な事になっているわけである。これからはグルメへの欲もある程度は抑えなければ、やっていけないだろう。魚を取り合う戦争が起きれば、大変である。怖いと思う)

ヨーロッパで始まっている共有経済

2016-10-29 14:35:46 | 日記
   近年、時々テレビで見かけます。先日も、NHKスペシャルで少しだけですが、取り上げられており、考えさせられました。何分、自動車などを仲間でお金を少しずつ出し合って買い、必要な時に使い合う事です。洗濯機などとか。先日は、高齢者の家に食事作りのサービスもする様子も出ていました。かなり前から、ヨーロッパでは、労働時間削減の対策として「ワーク・シェアリング」なるものが行なわれていますが、その延長の姿なのでしょうか。


  但し、仲間の中で同じ時間に同じ車を使いたい時はどうするのでしょうね。話し合って、問題を解決するのでしょうか。それには、仲間の間の信頼と意思疎通がどうしても必要ですね。車に限らず、何かを共有する時は強い信頼関係がない限りは、ケンカになるものですから。また、アダム・スミスが述べた「利己心」とは異なる、共生・共有の哲学・思想も構成員たちには欠かせないわけです。物品やお金だけでなく、それ以上に「心の共有」も必要。マルクスが述べた事は、「生産設備(工場や農地などの)」共有化だけでしたが、明らかにそれを越えています。確かに、生産設備だけを共有しても、分かち合いの生き方や経済は出ないのかもしれません。

  又、地球資源には限りがある以上は、そのような分かち合いもこれからは必要になってくるかもしれません。

  とは言え、共有経済は最近始まったばかりです。ヨーロッパを越えて、ロシアやアメリカ、日本や韓国、中国などに広まるかはまだ判りません。世界的に広まるかは、根本に人類普遍の哲学があるか、どうかでしょう。それについては、僕もまだ知りません。ただ、かつての共産主義運動とは違い、穏やかな社会変革の動きを感じます。アダム・スミスやマルクス、ケインズなどを越える深い哲学を伴うか、注目したいです。

  翻って、我が日本。数年前の東日本大震災の後に「共生の哲学。日本の東北地方には、昔から共生の哲学があった。大震災を機会に、それを復活させて、世界に広めて、共生の地球を作り、世界平和にする」とよく言われたものです。それならば、今はヨーロッパを上回る共有経済と共生哲学が具体的に出てもおかしくないのに、そうではない。その声自体も最近は聞かないし、新聞にも余り書いていません。その事も思い、日本という国が、日本人が情けなく感じられました。5年前の共生哲学はどうしたのでしょうか。また、災害はやってきますよ。災害以外の社会変動もいつ起きるか、判らない。その時にまた大きな被害を出して、同じ事を言う。その繰り返しでしょうか。一方では、日本人は外来文化を取り入るのがうまいですから、案外、ヨーロッパの共有の動きを取り入れて、新しい文明を作るのでしょうか。未来は我々にかかっています。どうせなら、良い文明を作りましょう。

アダムスミスは、「共感が人をつなぐ」と述べましたが...

2016-10-29 10:51:45 | 日記
  彼は利己心や道徳などを重んじ、又、人をつなぐものとして「共感」を挙げました。その共感とは何でしょうね。長年僕も考え続けていますが、判りません。但し、1930年代のドイツ。心理操作をした面は考慮しなければなりませんが、当時のドイツ国民の多くがヒットラーの演説に共感したのも事実です。規模はそれよりも小さいですが、1990年代の日本でのオウム真理教の信徒たちの麻原彰晃への共感とかも。勿論、良い面への共感もありますが、反面、悪い人への共感もあり、世界を悪くした例も歴史にはいくらでもある。アダム・スミスというより、18世紀のイギリス社会は人間について楽観的に見ていた事も判ります。「原罪」とまではいかなくても、人にはマイナスの面もあり、人をつなぐとそのような面もつながって強くなり、社会を戦争などに導く事もあるわけです。又、アダム・スミスの百年後の阿片戦争では、道徳も、共感も役に立たなかったようです。勿論、それに反対したイギリス人もいましたが、戦争を食い止められなかったですね。


  先日、NHKのテレビ番組で、アダム・スミスが表題のように言っていた事を視聴したので、考えたわけです。もし、タイム・マシンでアダム・スミスさんに会ったら、「人間を甘く見過ぎているのではないかな。そんなに甘いものだろうか」と言いたいですが。

  そのテレビ番組から知った事もこれから書きます。

  それにしても、「共感」とは何でしょう。また、それが当てになるものでしょうか。僕は判らないから、皆さまに問いかけるわけです。

資本主義と旧共産圏の違いは、富と権力の独占者の違いでしょう

2016-10-28 13:00:53 | 日記
  高校時代から、僕にはそのように思えて仕方なかったです。確かに、資本主義の国々はマルクスの指摘通りの資本家支配であり、富を使い、政治も支配という事になってきます。


  でも、その体制を打倒したはずの諸々の共産圏でもあのように。官僚が今度は富と権力を支配も。但し、官僚のする事は万事が計画的で、硬直的だから、資本主義諸国に比べても非能率で、予測不可能な災害や公害にも対応できず、早くに潰れたわけです。但し、地形的な影響もあるのでしょうが、北朝鮮は変化の波が及びにくく、官僚支配の体制にもなっている。今の金正雲も官僚のボスだとも考えられますから。官僚体制に、封建制も結びつき、王朝みたいにもなっているわけです。特に、その国では、富と権力は高級官僚に集中していると。

  日本は。戦前も、戦後も両方の体質が国にあるのかもしれない。官の支配の証拠の一つが戦後の「ライ予防法」だったと見る事もできます。薬害エイズとか。官支配の特徴は、都合が悪い事を隠す事ですから。戦前の軍隊関係はもっと隠す体質だったし。だから、国民も搾取者はどっちなのか、見分けが付かなかったし、意見も常に分かれていました。

  もっとも、搾取者を特定して糾弾しただけでは、問題解決にもならないでしょう。今度は糾弾した人たちが同じ事をする事もあり得るわけで。糾弾ではなく、物欲や権力欲の愚かさみたいなものに気が付き、自分含めて、多くの人たちの気持ちも変えていく事も必要かもしれませんね。いくら富を得ても人は死んでいく者であるし、又、富からは他人との連帯もできず、寂しくなるだけ。生きている間も不幸になるわけですが。

資本家搾取と国家搾取が二重になった例のアヘン戦争

2016-10-27 15:51:40 | 日記
   いくらでも例がある。その中で、歴史を見て僕が一番印象的な事件は、1840年過ぎのイギリスが起こしたアヘン戦争である。貿易不均衡を是正するため、イギリスはインドで取れたアヘンを清帝国=中国に売りつけ、当然ながら拒否した清に対して、当時の最新鋭の軍艦を派遣して、戦争を起こした事件である。中国人ではない僕が述べる事は限界があるが、当時はまだ人道主義や世界平和の観念のない時代だったとは言え、イギリスの行為は許されないわけだし、資本主義と国家の両搾取が結びついた典型例である。戦争後、安いアヘンを吸引させられて、脳が犯され、人生が狂った多くの中国の人たちの苦悩はいかなるものやら。又、戦争で他界された多くの中国人は勿論、少数だったかもしれないが、やはり、他界されたイギリス兵たちの事も。その歴史を思うと、僕は嘆かざるを得ない。我嘆阿片戦争。


  ただし、その根の根も、お金というよりも、物欲に目が暗んだ当時のイギリスの資本家や貴族たちの愚かさということになる。そして、そのような戦争の性格はその前後の戦争の問題にも共通するわけである。アヘン絡みの戦争はもう起きないだろうが、人類は物欲の次元を超えて、例えば、芸術などの文化活動とか、創作や社会活動などの欲望に振り替えていかない限りは、戦争はまた繰り返されるのではないだろうか。