トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

宇宙を一緒に見ましょう

2017-07-28 13:28:32 | 日記
夏です。夜もさむくなく、星空もいくらでも見られますね。ぼくは子供の時から星が大好きです。みなさんも好きでしょう。星や宇宙の話をこれからします。
 
小さい時、ぼくは火星のことが気になりました。むかしは「火星には火星人がいる」と言われたから、どんなすがたをして、どんな言葉を話し、どんな食べ物を食べているか、知りたくて。でも、その後、火星には人も、動物や植物もいないことがわかりました。われわれの住んでいる地球とはちがい、火星は水や空気が非常に少ないから、生物は住めないわけです。ふだんはありがたいとは思わない、水や空気ですが、生きていく上では一番大事なものですね。
 
ところが、最近、はるかに遠い宇宙で水と空気があり、気温も地球みたいな星がいくつも見つかったことが発表されました。科学者たちが見つけたわけですが、そのニュースを聞き、ぼくはワクワクしました。みなさんの中にもニュースで知った人もいるでしょう。そのような星には生物がいるかもしれない。いるとはまだ決まったわけではありませんが、どんな動物や植物があるのか、早くも科学者の中には想像図を描いている人もいるわけです。おそらくは我々の想像(そうぞう)を越えた生物がいるでしょう。中には植物が知能を持ち、人間みたいになった生物もいると思います。あるいは、言葉は話さず、脳から脳に電波みたいなものを出して、話をする宇宙人とか。テレパシーですね。また、宇宙人たちも本当に姿(すがた)はさまざまでしょう。中には、リスみたいな姿とか、背中にハネがあり、空も飛べる宇宙人もいると思います。食べ物もさまざまでしょう。科学の非常に発達した宇宙人は空気から食べ物を作っているかもしれません。丁度、中国のお話の仙人(せんにん)が雲を食べているということになっているように。そう考えるともっと面白いわけです。
 
そう言えば、今の地球の中でも本当にさまざまな人がいますね。肌(はだ)も黄色、白、黒と。ぼくみたいに歩けない人もいれば、走るのがはやい人もいる。目が見えない人も、耳が聞こえない人も。でも、どんな人間、生物にも「命」はあります。宇宙人にもあるわけです。命はお金では買えません。その「命」をわれわれはいつも大切にして、また、命が育つじゃまにならないように、野原や山、海や川にゴミを捨てることもないようにしましょう。また、大人のしたことですが、原子力発電所を作り、あの大地しんの時に放射能(ほうしゃのう)が出て、多くの草や木が枯れたり、虫などが死にました。みなさんが大人になったら、そのように多くの生き物を殺すものは作らないようにしていきましょう。

 ぼくのお話を読んで下さり、ありがとうございました。
                      

中学一年の林間学校の思い出

2017-07-20 10:57:27 | 日記
 1968年7月後半。梅雨が明けて間もなく、光明養護学校からバスで軽井沢の星野温泉旅館に行った。僕の学年は要介護の身体障碍をもっている生徒が多かったが、YMCAなどの学生ボランティアと介助員、先生の介護で林間学校の生活の始まりだ。それまでの光明養護の林間学校は中学、高等部でも母親がついて行ったが、それでは、自立心も付かず、生徒同士で話したい事も話せないため、生徒たちの意向を組み、父母や先生たちもそうした。

 初めての親離れの旅行だが、僕ら生徒たちは緊張しているものの、生き生き楽しく、冗談などを語り合って、バスの中を過ごした。旅館に着き、自分でできる事は自分でやり、出来ない事は「チャックを締めて下さい」と頼む。学生ボランティアの人たちも初めて接するから、お互いに一生懸命心傾け合う。濃密な時間が流れる。また、「彼のあだ名は?」とか、学生ボランティアたちも楽しそうに聞いてくる。僕の担任の先生も若かったので、一緒に「彼はがさつな人だ」とか冗談を言う。本当に楽しかったし、他人との関わり合いも学んだ。

 鬼押し出しで見た溶岩のゴツゴツした姿と、ヒカリゴケの美しさが心に残っている。ヒカリゴケは本当に青白く光っていた。

 「自分で何ができて、何ができないか」を判断し、出来ない事は人に頼む。これが介護の基本だが、それを楽しみながら、そこでは学んだわけだ。僕は今は毎日ヘルパーさんのお世話になっているが、その基礎作りにも林間学校の経験はなっている。

 それから、そこの朝礼で歌った「牧場の朝」も心に残っています。

 僕の7月の思い出でした。

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大体、7月20日から行ったので、それを記念しての公開です。たまたま物理的には僕が書きましたが、当時の先生、介助職員、YMCAボランティア、生徒たちの全員が書いたものですね。


日本の妖怪カッパ

2017-07-15 14:58:33 | 日記
  カッパは日本各地で云い伝えられた妖怪である。人間みたいな形をして、頭部は中央に毛がなく、周囲に毛が生えている姿である。色は緑色で、足に蛙みたいに水かきがあり、水泳が得意で、出会うと「オラオラデ」とも言うらしい。特に、江戸時代に目撃や遭遇の話が多く、何故か明治維新後、そのような話は消えている。10年くらい前だろうか、ラジオで「それは日本各地に潜伏したカトリック宣教師の事である。『オラオラデ』はスペイン語やポルトガル語そのものである。そのような人たちは森の奥に住み、時々魚を取るために川に出て、それを目撃されて、カッパと言われるようになった」とある歴史学者が述べていた。確かに、江戸時代に盛んに目撃され、明治になり、止んだ理由も説明が付くわけだ。まだ物的証拠がないから説にしか過ぎないが、うなずける。


  ところで、録画しておいたアメリカのアニメの「トムとジェリー・ロビンフッド」を先日見ていたら、登場人物に、頭部の中央に毛がなく、周囲に毛が生えていて、カッパそっくりの者が出てきた。アメリカで作られ、しかも、ヨーロッパを舞台にしたそのアニメ。作者もまさか日本のカッパを意識して描いたわけでもないだろうに。ヨーロッパやアメリカにも、カッパそっくりの髪形をした人たちが昔からいたわけだ。

  江戸時代に目撃されたカッパたちも、今のUFOと同じく、正体は様々だったに違いない。例えば、猿を見間違えた例とか、旅人や漁師とか。多様だったと思う。その中に宇宙人が含まれていたら、尚更面白いと思うが。でも、その中に以上のアメリカのアニメに出てきたような髪形をしたカトリック宣教師もいたかもしれないと歴史の彼方に想いを馳せるのだ。今の日本は暑いが、こんな時こそ、楽しい想像も良いかもしれない。

「元医者」の文の補足

2017-07-13 16:56:29 | 日記
  勿論、僕はあの文で統合教育の賛否を述べているわけではありません。教師経験のない僕が賛否を述べても、それこそ、例の会長さんと同じ事をするようになりかねないし、「障碍児」の観念も昔と大きく変わっているからです。発達障碍とか精神障碍という言葉自体も昔はなかったから。また、「僕は養護学校が良かったか、公立学校が良かったか」と述べる事は過去は変えられない以上、これも非常におかしい事だし、書いてはいけない事ですね。


  でも、「社会的な目的の為にどんな人も利用してはいけない」事は言えるし、それは昭和天皇を利用した日本陸軍や、シアヌーク国王を利用したポル・ポトの問題にも通じてくるわけです。又、患者をモルモットにする傾向がある日本医学関係の体質も非常に問題です。根が深い。

元医者の反学校運動と、日本の医学教育の欠陥

2017-07-13 14:53:43 | 日記
  70年代後半の東京でそのような例を見てきた。元々は小児科医。優れた医者だったようだが、自ら障碍児の行く学校を選別判定する任務に疑問を持ち、更に学校教育自体にも疑問を持ち、近代欧米と明治以来の学校教育の事を徹底的に学び、特に国家目的に学校教育が利用された事を知り、能力本位の教育にも反対し、教育関係の運動を志した。そして、障碍児も公立校に入れる機運が高まっていた社会状況の追い風もあり、障碍児を公立校に入れて、能力本位の学校を改革する運動を展開した。「反学校」を唱えたそうである。そのような会を作り、会長にもなった。僕もその会長の講演を聞いた事がある。76年11月だから、かなり古い事だが、障碍児一人一人の事を考えていないなど、非常に冷たい印象を受けた。障碍児を学校改革の道具としか見ないような感じだった。実際、方々で色々な考え方の人たちからそのような非難を受けていたわけである。保守的な考え方の人たちも、左翼系の考え方の人たちからも叩かれていた。それから、僕は「目的の為には法律を無視して良い」という言葉も聞いたが、それも変に感じた。でも、その会長は一部の障碍児の母親たちに近付き、その運動を展開した。僕は教育畑ではないので、その道筋で公立校に入った障碍児たちの行方は判らない。だが、養護学校の先生たちからは「そのような子は不幸になっている。育たない」と聞いた事がある。


  学校改革の道具みたいにされては育つ訳がないだろう。悲惨な運命になって行った事が僕にも読み取れる。確かに、冷たい。大体、教育関係は本で勉強すれば良いものではない。実際、教師になり、子供たちを何年も愛情を持って育てないと教育関係は判らない。その会長は教師経験はない。それでは教育関係の運動などはできないわけである。愛情が明らかに欠けている。

  「本を多く読んで、教育関係を知った気持ちになった」ことから今の僕は気が付いているが、それは明治以来の日本の医学教育の手法である。それを教育関係に当てはめたわけだ。だから、おかしな運動になったと。確かに、日本の明治以来の医学教育では患者を機械のように見て、生身の人として見る事が少ない。だから、マスコミが取り上げるまでは、方々で患者相手の人体実験が陰で行なわれて問題になっていたが、以上はその図式と同じである。「本を読む」は勉強のほんの一部であり、むしろ、人間的なふれあいから学ぶ事の方が医学関係でも多いわけなのに。

  因みに、日本の明治以来の医学教育はドイツから導入された。ドイツではその後、ナチスが盛んに人体実験を行なったが、ヒットラーも、ゲッペルスも医者ではないし、何も彼らが考え出したものでもないだろう。元々近代ドイツの医学関係には人をモルモットみたいに見るように冷たい気風があり、それがナチスにより、発展して恐ろしい事になったり、日本に導入されて、患者をモルモットにしていったのではないかと。そんな気がする。

  以上の「会長」だが、畑違いの教育ではなく、「患者をモルモット」みたいな日本の医学関係に目を向ければ良かったと思う。そうしたら、素晴らしい運動ができたのに。非常に残念である。(因みに、5月末以来、以上の関係の問題を思い出していたから、ブログを書く回数が減っていたわけである)