トシコロのありのままの暮らし


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「富士福祉事業団を退いた理由」の大事な補足

2015-10-31 13:26:18 | 日記



  僕が一番欠けていたのは、富士福祉事業団の役員たちへの感謝の気持ちでした。もし、それがあれば、当時の勉強不足も十分に補い、続けられたと思います。

  感謝どころか、富士福祉事業団自体に目が行かなかったと。僕の目は所属団体の人たちや、元患者の伊藤まつさんの所ばかりに行っていた。内向きになっていたわけですね。また、広い社会や日本の政治の事にも目が行きませんでした。

  所属団体の人たちとの交流ができたのも、富士福祉事業団の役員たちがいてこそだったのに。この件を振り返っても、感謝の大切さを感じます。感謝は愛よりも本当は大切かもしれませんね。そのような気がいつもするわけです。

  当時の役員たちは皆、今は天国ですが、数十年遅れで「ありがとう」と言います。

フェイスブックの旧友たちにあてた回顧的な話

2015-10-30 17:05:07 | 日記
  表記に限界があるが、S園での僕は余り知られていないね。そこに行かれた方の二人向けのものだが、僕は介護はできないから話し相手。身障園生相手ね。内、野口君という園生とは関係が良く、彼が天国に行くまで文通続けた。でも、二人が。共に僕を美化・過大評価視し、その姿が独り歩き。又、東京VYSに対しても。いくら話しても変わらない。内、一人が園当局と紛争ており、その介入を僕と東京VYSに求めて、大変だった。又、それ以前に、「美化・過大視」がイヤだったね。簡単に言えば、偶像化されたからね。それは全生園の伊藤まつさんでも同じだった。まつさんも僕をずっと誤解しつづけた。S園よりも。ただ、全生園は紛争がないから、トラブルにもならず、一緒に外に行けただけで。まつさんはその縁者たちにも自分のイメージの姿の僕を話し続けた。まつさんのサポーターたちとの付き合いは今はないが、それもそのような理由だね。縁者たちは僕の偶像化された姿を思い抱いたわけだから。
  以上、行き始めた77年は想定していなかった事だが。施設や療養所の人たちは世界が狭く、人生経験も限られるから、視野も深いが狭くなり、どうしても他人を自分のイメージで見ちゃうのだね。又、友人になっても、そのような人たちの寂しさは消えない。かえって悪化も。社会参加だけが解決策だが。今はネットがあるから、施設関係でもネットしている人は寂しさは感じないし、まともに付き合える。でも、今でもネットにも無関心な施設の人との交流は難しいと。
 S園は1年でやめたし、全生園は求めてきた伊藤まつさんだけ付き合ったと。それで良かった。伊藤まつさんは外出が好きだから、一緒に外出してつきあえたと。外出も嫌いな元患者なら、続かず、大ゲンカになったとも見ているわけだが。

回顧的な話・富士福祉事業団を退いた理由

2015-10-29 10:58:21 | 日記



   1976年から82年まで、富士福祉事業団という、当時としては大きい福祉団体に僕はいて、その傘下の複数の福祉会で子供会や身障施設キャンプもさせて頂きました。でも、次第にそこで述べたい事もなくなり、行き詰まり、自ら退くようにもなっています。その理由が今まで判らなかったです。後年、「続ければ良かった。社会的にも伸びたのに」と釈然としない想いもあったわけです。その理由がふと昨日判りました。

  当時の僕は政治・経済・法律に疎かった。それでは、特に福祉関係の話をしたり、文を書く事はできません。富士福祉事業団では雑誌や機関誌も発行していましたが、当時の僕は投稿などはできなかったわけです。福祉に限らず、社会問題全般についても言えますね。せいぜい医者の友人たちに、脳性まひの医学的な事を手紙で書いて送るくらいで。例えば、障碍年金の事も経済に疎ければ、訴える事もできません。本当に何も書けない状態でした。

  85年から放送大学で学ぶようになり、政治・経済・法律は全ての人にとっての生活に欠かせないものだと知り、それから福祉関係の訴えもいつの間にか、できるようになったわけです。
  富士福祉を去り、僕は交友範囲が狭くなり、外出の機会も激減するなど、マイナス面が多かったですが、理由を知り、納得もしたわけです。

フェイスブック投稿から・儒教の事

2015-10-26 16:56:29 | 日記
 江戸時代、日本では儒教が武家支配目的で使われ、以降、「儒教は堅苦しい」というイメージができ、特に戦後は「封建的」というイメージも重なった。中学、高校時代もそのように学校で習った。でも、本当の儒教は違うらしい。僕もまだよく知らないが、本当に堅苦しいものなら、とっくの昔に中国や朝鮮半島では滅んでいたと思う。実際は、「天」の下のユニークな思想ではないのか。また、それが土台になり、日本でも愛好されている中国古典詩も生まれたのではないかと。
  とにかく、真の儒教を知らなければ、韓国・北朝鮮、中国・台湾との関係は出てこないでしょう。

韓国歴史ドラマ「広開土太王」を見て

2015-10-24 11:54:51 | 日記



  東京MX系で放送されていた韓国の歴史ドラマ「広開土太王」を見終えた。在位期間が391年から412年の高句麗(コレジョ)の偉大な大王のドラマである。高句麗や広開土太王の名前は学校の教科書にも出てきたから知っているが、高句麗内の社会の様子や王様の業績の事は知らなかったので、勉強になった。

  広開土太王の個人名はタムドク。第二王子だったが、若い時に兄が隣国の後燕の陰謀で殺されて、父王が引退後、後を継ぎ、王様になった。非常に民を重んじる考え方をして、役人の不正には厳しく対処した。何回も「民と共にある」と言うセリフを述べている。儒教には「民の声は天の声」という政治思想が根強くあり、広開土太王自身も儒教の経典を徹底的に学んだことがうかがえる。民主主義の今の世の中でも、政治家たちに通用する事ですね。

  それから、外交や軍略にも非常に秀でて、多くの国と外交関係を結んだり、自らも戦の最前線に立った場面も出てきます。

  当時の日本は倭国と言い、主に今の西日本一帯の地域の国でしたが、まだ産業も起きておらず、朝鮮半島南部を支配する百済(ペクチェ)と手を組み、鉄と農業技術を百済から得る代わりに、雇い兵を送るという関係で、高句麗と百済が対立した時、倭国も百済に肩入れする兵を送りましたが、かなわず、惨敗する場面も出てきます。当時の倭国の兵は弱かったと僕は見ています。武器も貧弱で。日本が国として整い、「日本」なる国名を持ったのはその時代から3百年近くも後の事です。因みに、日本の人たち向けにお話ししますと、それよりも前に朝鮮半島南部に「任那の日本府」があったと戦前は勿論、戦後もかなり遅くまで小中学の教科書に書かれてありましたが、そのような事実はなかったそうです。「日本」という名前があったのかも疑わしいし、日本では多くの国が西日本に乱立し、とても朝鮮に植民地を作れる状態ではなかったわけです。

  さて、当時の中国は分裂状態で、多くの国がありました。それゆえに高句麗が中国北部の国々と争う事は僕にも推察が着いていましたが、隣国の後燕と激しい戦争をした事は知りませんでした。ましてや、高句麗が勝ち、後燕やその西の北魏まで支配下に収めた事も知らなかったです。また、支配下に置いた後燕の地の民にも細かく太王は気を配った事も。後燕の民も太王を支持しました。もちろん、高句麗内の支持は絶大で、今も韓国では人気が高いのもよく判ります。当時の高句麗は庶民も限られた範囲とは言え、かなりのものを食べていたようで、食べ物屋に人々が集い、ご飯を食べたり、酒を飲む様子もたくさん出てきます。また、天を重んじる本当の儒教の言葉もたくさん出てきて、その面でも勉強になりました。

  最後に、日本では江戸時代に儒教が重んじられた事になっていますが、「天」の思想が薄められており、昔も、今も日本人で本当の儒教を知る人は少ないです。政治家でも。今も韓国・北朝鮮、中国・台湾と儒教精神は根深くありますが、日本人は理解できない例が多い。それが日韓や日中の摩擦の原因の一つとなっているわけで、政治家はもちろん、多くの日本人も、例え信じられなくても良いから、人類の古典の一つとしての儒教を学び、尊敬していく必要もあると思います。大事な事ですね。