トシコロのありのままの暮らし


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実録小説の書き方変更に伴うこと

2019-07-29 11:09:27 | 日記
それは僕と付き合った身障園生たちの名前である。僕と一番親しく、また、寝たきりの文士だった野口栄一君以外、小説名を付けて書く事を考えている。すでに実名を書いた所も、変えるだろう。


  当初の予定では、次号以降は一園生の証言を基に、身障園生の室の様子を再現し、彼らの立場を中心に話を展開していくはずだった。それには感じをなるべく出すため、実名が良いと考えていた。でも、「小町天使」を書きあげ、これまで通り、職員と林田博士を中心に述べ続けた方が島田の様子を再現できると気が付きつつある。身障園生の在りし日の姿も書くが、それも職員たちの記述の延長で書けば、十分再現できるし、職員サイドから見て「いつまでも子供と思っていたのに、自我が芽生えて、対応できず、お仕置きに至った経過」は園生中心に書くと、著述は不可能になるとも気が付いている。園生中心に書くと、職員たちは単なる差別者になりかねない。そのように書いた身障ミニコミの例も知っているわけだし。1980年ごろならばともかく、今時、職員を差別者として書く事はないと僕は思っている。書くに当たり、今の僕は「身障者としての立場」を超えて、一市民とも違う、非常に客観的な見方の立場が求められている事に気が付く。歴史により忠実と言おうか、よくは判らないが、作家の立場と言おうか。とにかく、「親子愛中心は封建社会に通じ、障碍児だけでなく、人間全ての自立を阻む」事が明らかになった以上はそうなる。島田療育園には、障碍者問題も、聖書の誤解の問題も越えるような問題があった事を書き続けて、気が付いたわけである。

  因みに、野口栄一君の場合は僕は文士としての面を色濃く見てきた。文士として、実名を書きたいと思っている。「社会の片隅に、こういう人がいた」ことを小説を通して世間に知らせたい気持ちが強い。彼も生前は盛んに文を代筆で書き、何とかして、この世に何かを残したいと思っていたし。その意向をくみ取り、特例として、実名を書く事を強く検討しているわけである。でも、他の園生は、園生中心の書き方はする事もなくなったため、実名は出す事は中止になると。

  しばらくは執筆は休み、今後の話の展開や、園生たちの小説名を考えたい。後者の名前が決まり次第、すでに名前を出した一園生の名前も変更するわけです。


かつての島田療育園で感じたもの、その後の僕に与えられたもの

2019-07-27 15:39:46 | 日記
  まず、最初に行った時は1977年5月。そこの一番障碍程度が重い人たちがいる所だった。当時は通称.「植物人間室」とボランティアの間で言われていた所である。脳の何かの理由で、心身の発達ができず、寝たきりで、言葉も話せない、呼び掛けの反応も難しい園児ばかりがいた室だが、それはかなり高度な医学知識がないと説明できないため、僕は今後も述べない事にする。ただし、小説には盛り込む予定でもある。さらりと盛り込めば良いと思っている。尚、僕としては当然だが、そこには何もできず、一回で退いた。当時の僕も「そこは医学の次元の問題だ。医学生でもない僕が行けるはずもない」と思ったわけである。


  そして、その年の6月から、度々話している身障室に行った。当時の電動タイプライターで絵を描いている一園生と少し話をした。また、歩きながら、大きな声で話しかけてきた園生もいた。野球や漫画の好きな小学生くらいの男の子も一人いた。でも、世代的には僕と同じか、やや年長の人ばかり。18歳未満の園児はすでにいなかった。地方でも、養護学校や普通学校にすでに障碍児は行っており、在宅医療もすでに整い、日本では障碍児が島田療育園みたいな所に行く必要もなくなっていたためである。その一園生も、もう少し遅く生まれていたら、光明みたいな養護学校に通えたのに。残念にも感じた。日本の障碍児教育の遅れを痛感したわけである。それでも、多摩小学校の熱意ある一教師が訪問授業して、勉強はかなりできたことが救いだが。


  その7月。別の園生二人と出会った。6月は(病気か、何かで)会えなかった人たちだ。一人は職員の代筆で、素晴らしい詩や随筆を書いている野口英一君。寝たきりの身でもある。僕よりも一つ若い。それでしっかりした文を、しかも代筆で書いている。尊敬さえした。彼とは後で非常に気が合ったわけだ。早くに天国に行ったが、付き合って良かったと思う。

  もう一人は、園と紛争している人である。その時は少ししか彼も話さなかったが、僕は、判らないなりにも、世間や政治のケア不足も思った。そこから島田療育園には、日本のそれまでの高度成長時代の陰の部分が凝縮して現れている事を早くも察した。又、同時に職員が園生たちを子供扱いしている事も、その時点で気が付いた。その園生と職員とのやり取りを聞いて気が付いたと。その園生氏は「職員は我々をいじめる悪い奴らだ」と言っていたため、てっきり僕もそうだと思い、ずるずる紛争に巻き込まれていくわけである。無論、僕のその様子を書いても島田療育園の説明にはならないから、それは書く予定などはないが。その件にも根が深い問題が隠されている事も察した。また、明らかに、結婚出来る状況からも遠ざけられている事も気が付いた。但し、当時の僕は勉強不足で、社会や人間心理の何が島田の人達を追い詰めているのか、見当も付かなかった。未來への宿題みたいになった。

  後、僕も一身障者には違いないから、自ら子供会とか観光の場みたいな所に出向き、福祉啓蒙した方が社会を変えられるし、それが僕の障碍者運動であり、仕事や生き方ではないかとも思い、翌年には縁かあり、子供会関係にも出向いた。後年も学校関係にも少しだけ行ったが、何となく、しっくりこない。かつての島田の事が気になり。確かに、児童や生徒は勿論、教師たち相手にさえ、島田療育園の事を述べる事は難しい。述べようとしても、どうしても断片的になるから、述べられないわけである。何故、そこが狂ったのかも長年に渡り、判らなかったし。乙武氏がしているような障碍者運動は僕のする事ではないと次第に気が付き、好きな子供向け文を書く事だけにして、止めたと。そして、去年初めに島田の歴史の実録小説化をすれば良いと気が付き、書き始めたわけである。完成には程遠いにしろ、こんなに書けるとは思わなかった。テンポも予想以上に早いわけである。

  ならば、その後の僕に与えられたものは「僕なりの仕事」になる。与えた者は「歴史」。歴史が僕を島田に行かせ、今は実録小説を書かせていると。因みに、歴史を操っているのは、強いて言えば、神様になるのかもしれないが。神が歴史を通して、そのような仕事を僕に与えたといわざるを得ない。今の僕が言える「与えられたもの」は以上である。希望としては、僕のその仕事を理解して下さる独身女性の一人から妻も現われてくれたら良いが、今はそれは希望でしかない。でも、今の時点でも、僕なりの仕事が与えられた以上は満足だし、そこに行く事をサポートして下さった人たちにも深く感謝しているわけである。


「子供扱い」は島田療育園だけではなかった

2019-07-26 10:52:45 | 日記
僕が島田療育園に行った1977年ごろの日本社会を思い出して気が付いた事です。日本社会全般に、疑似親子関係がありました。一番判りやすい例は政治関係だったかもしれません。当時の自民党と社会党は内部に派閥が分かれ、それぞれ派閥の長が親みたいになり、子分みたいな派閥員たちに選挙の戦術を親切に教えてあげていました。当時の自民党の田中派は、長の田中角栄氏が選挙資金を派閥員に大量に融通したので、「金権政治」と問題になっていましたね。また、小政党の場合は、党首がその役割をしていました。


  ほとんどの会社もそうでした。「家族的雰囲気」を各会社は求めた。父もよくその事を話していました。社長などが親みたいになっていた。その他、福祉団体や身障団体もそうだった。会長が親みたいになり、面倒を見る代わりに、指示を出して従ってもらう方式。諸々の学校もそうだったかもしれません。校長が父親の役割。プロ野球などもそうだったようですね。キリスト教関係もそういう面がありました。主教みたいな人が父親役割。その他の宗教関係にも言えました。日本社会が当時はそうだった。「家庭的」を誇る会も多かったようです。それは確かに暖かい雰囲気ですが、親分格の人とメンバーは対等ではないという矛盾もありました。日本国憲法に書かれてある「法の下の平等」に明らかに反していましたし、基本的人権にも触れかねないものでした。

  では、更に過去にさかのぼると、どうだったかと言うと、戦前は「日本国民は天皇の赤子」と言われ、国の枠組み自体が疑似親子関係でしたし、「地主と小作」の関係もそうでした。もっと強く現れていた。その前の江戸時代は、潘体制など、社会の枠組み自体が。明治時代よりも強かった。

  つまり、40年前にあったそのような関係は、1868年の明治維新まで長く続いた封建社会・意識の残滓だったと思われます。家庭的で暖かさもあったから、かなりの人たちがそれを好んだ面もある。でも、それは明らかに平等とか民主主義に反するものでした。又、その体制では、親分格の人の言う事は聞いても、他の人たちの言う事には耳を傾けないから狭くなるし、第一、非常に冷たいわけでもありました。「暖かさ」は実は上べだけでした。親分格の人はメンバーを「子供扱い」していたわけでもありますね。それが当たり前になり、誰もそのおかしさに気が付かなかったわけです。

  話を戻して、島田療育園の場合はそこに障碍者差別も絡み、「子供扱い」が強く現れたわけです。

  因みに、障碍者がいくら子供扱いされるからと言って、発想と立場を逆転させて、障碍を持つ人を親分にしても仕方ない事は、オウム真理教の例でも明らかです。教祖の麻原は視覚障害も持っていましたが、自分が親分になり、信徒の健全者に指令ばかりを出していましたね。サリンや殺人の面を仮に差し引いても、障碍のある人が親分になっても、障碍者が逆に差別者になるだけで、何も問題は解決しないわけです。オウム真理教も忘れてはならない事です。

これからもこの要領で小説を書き続けます

2019-07-25 10:59:12 | 日記
今までは林田博士を中心に、職員たちの様子も描いてきました。1964年(昭和39年)まで書き進めてきました。1965年以降は、僕の知っている3人の元園児たちもそこに次々と入所するわけです。


  当初の予定では3人の子供時代の園内の様子を詳しく再現する所でしたが、それは縮小して、これまで通り、職員たちをメインに書いていきます。その方が島田療育園の様子を色濃く再現できると気が付いたからです。特に、低賃金・重労働・管理職との軋轢など、心身・経済的に追い詰められた職員たちが、自我が芽生えてきた身障・知的園児たちを折檻などの虐待をする場面も再現したい。追い詰められたり、差別される身の人たちや民族・国がより弱い人たちをそうする例は歴史にいくらでもあるわけです。犯罪や戦争などの例にも非常に多く、心理学や歴史学のテーマにもなり、多くの推理小説にも書かれていますね。それにも十分通じる問題も以上にあるわけだから。又、それだけ、根が深い問題でした。(園児たちの在りし日の様子を詳しく書くと、「友情とケンカ」とか、児童福祉的な内容になってしまうでしょう。それは本意でもないわけだし)


  今の障碍者支援法では、女性障碍者たちの生理のケアも盛り込まれているようですね。でも、昔、それも40年くらい前はその問題は公に出なかったし、それ以前の問題として、健康な女性たちのその件も隠されていたわけです。それがいつの間にか、女性の生理ケア製品のテレビのコマーシャルが流れるなど、その件でも世間の人たちの意識は変わり、その流れで障碍者支援法にも盛り込まれたのかもしれませんね。障碍者問題は健全者問題の一部であり、両者は切り離せないわけです。障碍者問題だけを見ても、何も見えてこないわけですね。