トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

小中学生の皆さんへ・2015年6月

2015-06-22 10:38:01 | 日記
 (「恐竜と我々」の裏に印刷しました)



 この裏は恐竜というより、そうぞう上の恐竜人間の話ですね。ぼくが好きな事だし。読んで下さい。写真はぼくの家でのようすと、5月に行った井の頭(いのがしら)公園という所です。そこには池や、小さな動物園もあります。写真の一つのツル。鳥は恐竜の子孫ですね。子供の時、恐竜の肉はどんな味だろうと思いましたが、それは今の鶏肉(とりにく)に似ていると聞いた事があります。ならば、ローストチキンみたいな味でしょうか。このように考えるのも楽しいですね。

 さて、6月は雨の季節。小学の時、5年、6年と教室の前に大きなお砂場があり、晴れたらそこで遊びましたが、雨が続くとムリですね。そこで先生は考えて、この季節は「雨の日文庫」という童話のたくさんの本を借りて、多く読む競争(きょうそう)をしたり、チェッカー大会をして、雨なりにも楽しく過ごす事をしました。チェッカーとは、赤と黒のマスの盤(ばん)に、赤と黒のコマをそれぞれ12個置き、ななめに進んではコマを取り合うゲームです。勝ったり、負けたりして、楽しかった。大会には出ませんでしたが、先生も時々児童とやりました。先生に勝てた子はいなかったわけです。梅雨になると、この2つの思い出がよみがえり、なつかしくなります。

 また、雨は草や木を育てる大事なものであり、本当はお母さんのようにやさしいものなのですが。雨は良いものですよ。

 それでは、みなさんも雨を見ながら、恐竜の事も思って下さい。



恐竜と我々

2015-06-20 11:02:50 | 日記
恐竜とわれわれ 🐉   (2015年6月)

 皆さん、お元気ですか。今回は恐竜(きょうりゅう)のお話しをしたいと思います。皆さんも好きでしょう。小学2年の時でしたか、本で恐竜のすがたを初めて見て、ものすごい動物が大昔はいたんだなと感心したものです。特に、サイに似たトリケラトプスは印象的でした。
 
今は科学が進み、恐竜もさまざまな色を持ち、きれいだったことや、その子孫は鳥であることも判ってきました。恐竜のいたころの地球は気候が暖かく、大きな木や草もたくさん生えていました。ドラエモンに頼んで、恐竜のいた時代に行けば、そのスケールの大きさには我々もおどろくでしょう。また、今では、かなりの恐竜が早く走っていた事も判ってきました。
 
その恐竜は今から6500万年前、宇宙から大きな岩が落ちてきたため、地球はそのショックで、雲におおわれ、日がささなくなり、大変さむくなったので、こごえたり、気や草も枯れたため、多くの恐竜が亡くなりました。生きのこった中から、今の鳥の先祖も出てきたわけです。
 
その恐竜の中には手のゆびがよく動き、脳も発たつした種類(しゅるい)もあったそうです。もしも、大きな岩が落ちなければ、恐竜たちは生き続け、その種類もさらに脳が発達し、やがては道具を作って使い、言葉も話し、人間みたいなものが生まれていたかもしれないとも言われています。恐竜人間ですね。その想像(そうぞう)したすがたもテレビで見た事があります。人間みたいに二本足で立ち、手もある。顔も。でも、ひふの色は我々とはちがいます。宇宙は広いから、そのような宇宙人もいると思います。そのような人たちと出会ったら、われわれはどのようにすれば良いのでしょうか。言葉もちがうから、まずはお互いの言葉をかくにんして、付き合っていかなければなりません。ひふの色がちがっても、きたないみたいに思ってはいけないわけです。昔、ハンセン氏病にかかった人たちの中には、ひふの色がほかの人たちとちがうから、きたないと思われ、きわれたこともあったと、そのようなおばあさんから聞いたことがあります。そのおばあさんは悲しい想いをしました。とってもやさしいし、立派に絵も描く人でしたが。人間は心で付き合うべきですね。宇宙の全ての人たちにも心を込めて、付き合っていきましょう。

 今日の話はここまでです。また書きますね。

全学連の追記、及び、書いてみて

2015-06-19 11:56:44 | 日記






  それを経験された方によると、「学生運動は基本的には大学時代にできる事。卒業後は自然解散。政治的な結束力は弱く、大きな社会に吸収された。デモや政党に参加した事のない学生運動家も多かった。」。そのような貴重な声がありました。感謝申し上げます。

  その運動のかなり後の世代の僕が述べる事はある意味ではおかしいわけです。自分でもそう思います。例えば、僕の青春時代にさせてもらった元患者の「伊藤まつさんとの交流」のことを僕よりも十年若い人が述べるようなものですから。それでも述べた理由は、自分と自分の世代のルーツを明らかにするためには、十年年長の世代からの影響や断絶の事も書かざるを得ないからです。それで、自分などの「ルーツ」も見えてきます。

  全学連世代と言うのは、日本で1950年以前に生まれた世代の事だと僕は思っていますが、1966年から70年くらい、僕が小学5年から中学3年の時まで、その世代の当時の若者と交流がありました。今は立派な映画監督の原一男氏もその一人です。彼らはまだ幼かった障碍児の僕などを盛んに世間に連れ出してくれました。とても良かったです。それで世間にも障碍児者がいる事のアピールにもなりましたし。その十年余り後の伊藤まつさんと一緒に外出するという発想のヒントにもなったようですし。気が付きませんでしたが、そのような影響もありました。

  それゆえ、僕は全学連については細かい事、詳しい事は書けないし、それで構わないとも自分では思っています。

  歴史はつながっており、ある世代だけを取り出して、それだけを述べる事はできないわけですね。

18日のフェイスブックの旧友たちにあてたもの

2015-06-19 11:50:50 | 日記


  今の介護会社は、少人数の所でも介護ニードをテキパキこなしている。でも、言っては何だが、昔の福祉団体は会員数が多くても、要介護者のニードをこなせず、問題化していた。何が違ったのかな?と今の僕は思ってしまうのだ。
  一つは、資本力。介護会社には資金が流れる=社会に通じる。でも、昔の福祉団体はそれがなかったから、社会に通じなくて、ニードもこなせなかったのかなとも思う。あるいは、まだ誰も判らないだけで、介護会社を上回る介護解決策もあるのかもしれないが、今の僕には判らない
  昔あった福祉会、身障会、親睦団体と、のめりこむと、一種の会依存症みたいになるね。僕もそうだったし、僕の見てきたかなりの人たちも同様だったようだ。でも、しょせん会は会。内向きの話をして、それでおしまい。友だちが増えるわけでも、恋人ができるわけでも、自分の生き方ができるわけでもないのに。
 僕の場合も気が付かない内に、早い時から会依存症になったようだ。所属会の話ばかりを70年代後半はしていたからね。指摘もされた覚えもある。本当は会に所属せずに、多くの人を自然に集める生き方をしないといけなかったが。基本的には僕もそれしか生き方はないわけだし。今はSNSでしているが、パソコンない時代でも、それは可能だったと見ている。友人たちに「僕に多くの人を連れて来てくれ。一緒に散歩してくれ」と言えば良かったから。
  それはともかく、会依存症の果ての姿がオウム真理教。恐ろしいし、交友とか仲間作りも個人的にしないといけないと思う、誰でも。

昔の日本の医療と人権・又聞き話

2015-06-16 10:06:48 | 日記



  今の日本では患者の意向を尊重するようになっている。でも、それは1990年以降の事である。それ以前はそれが尊重されていなかった。特に、地方ではひどかったようだ。僕は札幌の小山内美智子さんと会った事はないが、1984年当時の小山内さんの発言を伝えてくれた医学生がいたので、紹介しておこう。

  1960年代から70年代の北海道の障碍者の状況は非常に厳しく、子供の時から医療コロニーに大体が入所。まともに教育も受けられなかった。その中で、「医者が脳性まひ児者を手術。それで体が全く動かなくなり、寝たきり状態になった友人も知っている。(北海道の)障碍者たちは皆、医者を強く憎んでいる。あなたは脳性まひ専門の医者になって欲しい」と小山内さんは一人の医学生に訴えたそうだ。

  「手術」とは、足の筋肉の手術もあれば、脳のロボトミー手術もあった。種類が多かった。結果は全て失敗。そのため、北海道の障碍者たちは自分たちがモルモット扱いされた気持ちにもなり、医者を強く憎むように。

  もっとも、何も障碍者だけではないだろう。やはり、北海道で、1968年に心臓移植手術が行われている。患者はすぐ亡くなった。今思うと、当時の北海道の医師の世界には患者の人権軽視の気風があり、その移植手術もその一つではなかったか?と思ったりもしているわけだ。忘れられたその事だが、事件性はなかったか?と。

  僕は記憶していないが、僕の幼少時代は東京でも脳性まひ児者への脳のロボトミー手術が流行り、近所の人が父母にも勧めたそうだ。父は「よくなる確証がない状態では、受けさせられない。医者は患者を実験台に使いたがる面があるから」と言って、受けさせなかった。それで良かったと。東京でも、何かの手術を受けた脳性まひ児者たちは全て体の障碍が非常に重くなっているから。

  医者たちの人権意識の必要性は勿論、今現在の科学・医学を最高のものと見なす、医者や科学者が陥る問題も現れている。いつの時代でも、医学も、科学も発展途上であり、万能ではないのだが。福島で起きた原発事故にも言える事である。

  (以上の医学生とは早くに縁が切れた。詳しくは判らないが、脳性まひ担当の医者にはならなかったようだ。医学勉強の実力不足のため。でも、他の僕の友人の医者たちが脳性まひ医学の事も関わってくれているので、僕は良かったと思っている。彼らには僕も脳性まひの医学的な事も手紙で多く話したわけだし)