トシコロのありのままの暮らし


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「命」の尊さについて

2016-07-30 12:55:19 | 日記


  今回の障碍者虐殺事件に関して、数々の声が寄せられている。知的障碍者関係の団体の声明文の中の「誇りを持って、皆さん生きて下さい」は極めて高く評価するし、それは身体障碍者や精神障碍者にも通じる事であり、僕も大いに励まされた。感謝もしている。

  良い面は評価した上で、僕が変に感じ始めた事を書きたい。それは今回も「命の尊さ」を述べている事である。日本国民がそれを噛みしめれば、殺人事件はもう起こらないかの発言である。昔の僕もそのように思った。21年前のオウム真理教事件の時ですね。その時の僕は「命の尊さ」という言葉に共感し、当時書いていた諸々の文にも借用もしている。でも、それから、6年くらい経た、大阪での小学校虐殺事件でも同じ事が言われたが、それからかなり経た今年はやはり虐殺事件。どうも日本社会の虐殺体質は治っていないようだし、それが起きる度に「命の尊さ」のワン・パターンである。過去の事件のリプレイを見るようなものだと。

  確かに、誰でも命の尊さは判るだろう。暴漢にナイフを突きつけられたら、誰でも恐いから。でも、今はそのような事を言っても社会の特効薬にはならないのではないかと。

  中世日本で栄えた仏教の浄土宗系の思想には、人間の持つ個々の命はアミダ=大いなる命と共有し、全てつながっているという思想があった。でも、明治以降は特にその思想は衰退し、現代の物質主義の科学思想とも絡み、「個別の命」という考え方になっている。今の多くの日本人も「命」と聞くと、自分の命しか連想しないようである。ならば、「命の尊さ」と言われても、せいぜい自分の健康を気を付ける程度に終わってしまうのである。少なくとも、仏教の歴史を絡めるとこうなると。命だけを述べるのは限界があると言おうか。

  本当に「命」は個別化されたものだろうか。生物科学者や医者も含めて、考えてほしい。

障碍者虐殺事件の矛盾点から考える

2016-07-28 11:19:56 | 日記
   容疑者植松は「障碍者はみな殺せばよい」と言ったが、植松自身も中途からの精神障碍者である事がニュースで伝えられた。それを目にして、僕は訳が判らなくなった。僕自身も生まれつきの脳性まひの身体障碍を持っているが、僕がそのように言うようなものだから。あり得ないわけである。そのあり得ないはずの事が起きたと。


  植松は衆議院議長に今回の事件を予告する手紙を書き、議長は警察に連絡した。ならば、まず、警察の警備体制の不備が挙げられる。市民の命を守るために警察は万全を期さなければならないのに。施設には一人の警察官も配置されなかった事はどういうことなのか。怠慢と言うしかない。

  植松の主治医も問題である。精神科専門の医者ならば、事件を予見してもよさそうなのだが、何故、危険性を予測出来なかったのか。医者にも責任がある。

  警察や医者にも責任があるとは言え、植松の罪を軽くする口実にはならないし、してはいけないと思う。裁判で、厳罰に処してほしいと願う。

  又、今回の件で、知的障碍者や身障者関係に特に「精神障碍者は恐ろしい」という偏見や差別が深まる事を僕は非常に憂慮している。精神障碍者たちは障碍者関係でも差別されがちな面が今までも強いが、今回の事件を契機に、知的・身体障碍者関係までもが精神障碍者の隔離を願う意見が広まりかねないからだ。精神障碍者たちも障碍者には違いないのに。

  ここで精神病の問題についても話しておきたい。精神病には二種類ある。脳の器質性障碍=元々脳の構造に病変がある場合。それは純粋に医学の次元の問題なので、僕は語らない。もう一つは、ストレスが原因で脳が病変を起こし、発症する精神病。後者の精神病が日本でも特に近年は増えている。ストレスの原因は様々だが、非常に複雑な人間関係や仕事状況が原因の例が多い。夫婦や親子関係ですらも原因になる例も増えている。つまり、器質性以外の精神病は全て「社会病」なのである。社会を直さない限りは全患者は治らないと言っても良いだろう。根が深い。それなのに、今の精神科医の多くは脳ばかり見て、薬で治そうとしている。その結果、薬害になる例も多い。仮に高性能の薬ができて、病気が一時的に治っても、また社会的な要因でストレスがかかり、精神病になるのは見えている。一時しのぎにしか過ぎない。おかしいと。精神科の医者たちも考えてほしいし、社会的精神病患者を出さないためにも、敬天愛人の理念が復活してほしいわけである。

7月26日の障碍者施設殺人事件と敬天愛人

2016-07-26 14:27:13 | 日記



  まず、逝去者たちの冥福を祈る。

  最初に僕が事件を聞いたのは今朝いらしたヘルパーさんからだったが、事情がよく判らなかった。テレビで判った。犯人はその施設の元職員。殺された人たちは知的障碍を持つ人たちだそうである。取り調べを待つまでは詳しい動機は判らないので、僕も詳しく述べる事はできないが、最終的には極刑しかないだろう。大量殺人はいかなる理由があっても許されるものではないが、知的・社会的なハンディを持ち、かつ、罪な事をしない知的障碍者たちを殺すことは到底許される事ではないからだ。今後は犯人には動機の正直な陳述と、深い反省だけを望む。僕も天の下に生きる一市民として、かつ、障碍を持つ者として、強い憤りを覚える。

  犯人はその施設の職員経験もある人だった以上は、福祉に対する関心や問題意識も持っていただろう。でも、人の心は変わるものである。最初は一生懸命取り組んでも、福祉関係は職員の仕事も、ボランティア活動も続かない事が多い。この40年来、僕もそのような話を多く聞いてきたし、止めていった人たちもたくさん見てきた。理由は様々だが、特に「人間関係が煩わしく、知的や身体障碍を持つ人、高齢者たちとの意思疎通がすれ違いにばかり終わるから。及び、職員間も同じ状況だから」というものが多い。すれ違いにばかり終わると、非常に心がきつくなるわけである。そうかもしれない。今は全国的に地域近隣の付き合いは消えている。ムリに付き合った場合、大ゲンカや殺人事件にもなっている。夫婦間の離婚も多い。身体障碍者同士も付き合うと、大ゲンカになると聞いている。東日本大震災で「絆」が叫ばれながらも、人をつなぐものが乏しい状態では、絆はできなかった。これが現実だった。言葉だけ、会話やメールだけでは、心はつながれないわけである。恐らく、その容疑者もその施設では、園生たちや職員たちとそのような状態だったのではないかと思われるのだ。今の日本人のほとんどはキリスト教や仏教など、特定の宗教を信じられない状態である。それは事実だし、仕方ないと思う。その上で、なおかつ、人を越えて、人々や社会をつなぐ「天」みたいなものが必要だし、このままでは、第二、第三の同じ事件も起きると指摘して、この文を終える。非常に痛ましい事件である。

  西郷隆盛の述べた「敬天愛人」の理念が復活し、日本中に広まる事を祈って。

坂本九「見上げてごらん、夜の星を」は敬天愛人だ!

2016-07-21 14:24:18 | 日記



   内容は日本人はもちろん、韓国や中国、その他のアジア諸国、アメリカなどの人たちも知っているだろう。「上を向いて歩こう(スキヤキ)」の次くらいに、坂本九=キュー・サカモトの有名な歌である。個人的には、僕は坂本九の歌の中では、これが一番好きである。

  夜の星と言おうか、それを一緒に見上げて、手をつなぎ、話し合い、共に生きる事をしようと求めた歌である。相手の設定は誰でも構わないわけである。恋人だと日本では解釈されているが、夫婦であろうが、親子であろうが、友人だろうが、学校の先生と生徒であろうが、構わない。現代ならば、ヘルパーさんと高齢者や障碍者でも良いと思う。あるいは、日本人と韓国人とか、外国人に対してでも良い。仏教徒とイスラムみたいな、異なる宗教の人たちの間でも良いと。手をつないだ後の事は誰でも判るだろう。「平和な世界作り」だと。天を一緒に仰ぎながら、手をつなぎ、平和な地球社会を作っていくわけである。

  西郷隆盛の事は曲げられて伝えられても、日本人の遺伝子・集合無意識には「敬天愛人」の考え方が脈々と受け継がれている。坂本九の考え方でもあったが、それがさらに大きくなってほしいものである。

  この文を読んで下さる人たちは、心の中でこの歌を歌ってほしい。何語でも良いから。外国人で、歌詞の知らない人は検索すれば、出てくるわけだし。

坂本九「見上げてごらん、夜の星を」は敬天愛人だ!

2016-07-21 14:24:18 | 日記



   内容は日本人はもちろん、韓国や中国、その他のアジア諸国、アメリカなどの人たちも知っているだろう。「上を向いて歩こう(スキヤキ)」の次くらいに、坂本九=キュー・サカモトの有名な歌である。個人的には、僕は坂本九の歌の中では、これが一番好きである。

  夜の星と言おうか、それを一緒に見上げて、手をつなぎ、話し合い、共に生きる事をしようと求めた歌である。相手の設定は誰でも構わないわけである。恋人だと日本では解釈されているが、夫婦であろうが、親子であろうが、友人だろうが、学校の先生と生徒であろうが、構わない。現代ならば、ヘルパーさんと高齢者や障碍者でも良いと思う。あるいは、日本人と韓国人とか、外国人に対してでも良い。仏教徒とイスラムみたいな、異なる宗教の人たちの間でも良いと。手をつないだ後の事は誰でも判るだろう。「平和な世界作り」だと。天を一緒に仰ぎながら、手をつなぎ、平和な地球社会を作っていくわけである。

  西郷隆盛の事は曲げられて伝えられても、日本人の遺伝子・集合無意識には「敬天愛人」の考え方が脈々と受け継がれている。坂本九の考え方でもあったが、それがさらに大きくなってほしいものである。

  この文を読んで下さる人たちは、心の中でこの歌を歌ってほしい。何語でも良いから。外国人で、歌詞の知らない人は検索すれば、出てくるわけだし。