トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

これから日本で起きそうなこと

2019-05-31 10:42:05 | 日記
  世間の引きこもり状態を余儀なくされた方たちへの叩きと差別感情が強くなりそうな事ですね。川崎市の殺傷事件の容疑者をマスコミ各社が「引きこもり」と単に報道した以上は、それに連られる人たちも多く出そうだから。丁度、知的障碍関係の山百合学園殺傷事件で、同様に犯人が「精神障碍」と単純に報道されて、そこから精神障碍者への世間の差別感情と叩きが強くなり、身障者や知的障碍者たちも精神障碍者への差別的な書き込みをする例も出たように。僕もそのような書き込みを見たわけです。


  今回の件も、引きこもりになったいきさつをまずは複数語り、社会の側の責任を問わなければならないのに。例えば、容疑者卒業時は就職氷河期で仕事がなかった事や、仕事に代わるボランティア活動も当時(1990年ごろ)は、首都圏ではボランティア各団体が挫折して、潰れていった後で、ほとんどなく、NPOもまだなかったため、縁もできなかった点などを精密に解説しなければならないのに。単に「引きこもり」は、中学生の社会科の宿題の答案でも見られないような短絡的な述べ方です。おかしいと思います。

  因みに、首都圏では、70年代に次第にボランティア活動が盛んになりましたが、しっかり問題意識を持って児童関係や障碍者関係に取り組まれた方たちもいましたが、かなりは当時のマスコミ報道に動かされて、何となく動いた例が多かったわけです。マスコミに動かされての場合、じっくり考える事もないですから、問題意識などは出ず、対した児童や障碍者たちとも意思疎通がうまくいかず、ケンカも目立ち、また、そのようなボランティアたちは福祉についてのまともな話もできませんから、彼ら同士の意思疎通もうまくいかず、それで端からボランティア団体は1980年ごろから潰れていったわけです。又、「しっかり問題意識を持つボランティア」と「マスコミに流されてのボランティア」は話が合わず、口論にもならない状態でした。しっかり問題意識を持って取り組まれたボランティアたちは尊く、僕も敬意を持っています。でも、マスコミに流されての活動例からは、マスコミを信じ込む恐ろしさを感じます。その中には、かつてした活動を自己否定した例もあるわけだし。マスコミを信じる事は、「現代の心のアヘン」だと思うわけです。マスコミは、その時の時流を伝えるしか能がないから、短絡的な報道になり、それを土台の社会活動はどうしても中途半端になり、早く止めていくものかもしれません。

   本当にマスコミは短絡的な報道しかできないのならば、皆様もその事をよく認識し、マスコミには流されず、自分の頭で多角的に物事をいつも考えるようにしましょう。


凶悪事件の度に出る世間の想い

2019-05-28 13:42:52 | 日記
  また子供たちが殺傷される事件が起きた。他界された子の冥福をまずお祈り申し上げます。


  そのような行為は許されるものではないが、容疑者がこれまでの生い立ちから犯行に至った事には、必ず理由と社会的な因縁があるはず。容疑者の生死の別なく、その解明をして、今後は同じ事件が起きないようにしてもらいたいものである。


  ところで、凶悪事件が起きると、世間では「理解できない事をするとは、容疑者は精神病にかかっているのではないか」という見方が必ず出ます。そのような世間話を聞いたり、書き込みで見た人もいるでしょう。高校時代の僕も、精神病の事を知らなかったせいもあり、仲間たちを虐殺した連合赤軍の犯人たちをそのように思った事もありました。でも、その何年か後に、器質性精神障碍を持つX君と友人になり、そのような見方は偏見に基づくものであり、間違っていたと気が付きました。

  何故、以上の見方はダメなのか、2つ理由があると思います。




  1.

  それはステレオ・タイプ的な偏見であり、精神障碍者への差別を助長するからです。そのように思う人たちはどれだけ精神障碍の事を知っているのでしょうか。この分野は未解明の事が多く、精神科医も全ての事を知っているわけではありません。ならば、医大で精神医学を学んだわけでもない人たちが、そのような事を思う事はできないじゃないですか。知らない事は述べたり、思ってもいけないわけです。




  2.

  そのように理由を決め付けると、社会的な因縁など、理由の考察がその時点で終わってしまうからです。その場合、その人は考える力は発達せず、短絡的な見方しか次第にできなくなってしまいます。




  1.の場合は、精神障碍をお持ちの方や、その家族、親戚の方たちに辛い想いをさせるのは言うまでもありません。非常に悲しい想いをされているわけです。僕は早くにX君なる人と出会って、よかったと思います。

  証拠もないのに、何事も一方的に決め付ける事は止めていきたいものです。




  













「私が棄てた女」の修道女発言の問題点2つ

2019-05-27 11:06:37 | 日記
  「患者同士が支え合う愛の世界」の所です。それは、ハンセン氏病が患者さんたちの心のつなぎになっている事が前提として読み取れますね。今の僕が見るに、2つの問題点があるように見えます。


   一つは、ハンセン氏病に限らず、病や障碍が人と人のつなぎを果たすか?という事です。脳性まひ者たちの身体や体力の状況も一人一人違うし、考え方も、やりたい事も一人一人違う。「脳性まひ」でまとまっての会は作れないし、作ろうとして失敗した例も僕は見聞きしてきました。40年前の首都圏では多かったようですね。僕の経験から言っても、複数の元患者たちの証言から言っても、それはあり得ないように思えます。

  二つ目は、もっと大きな問題です。ユダヤ・キリスト・イスラム教では「神だけが人を結ぶ」という考え方です。神を阿弥陀仏に変えれば、日本で生まれた浄土系の宗教も同じ考え方です。ならば、聖書的に見て、神の被創物にしか過ぎない病や障碍が人を結ぶのか?にもなってくる。本当に結ぶならば、聖書の思想体系も崩れてきます。もし、そのような修道女が一人でもいる修道院があれば、そこは潰れていくと思います。無論、それは架空の修道女であり、現実にはいないと追われますが。例えば、同著者が書いた「沈黙」は極限状態の中、信徒仲間たちの命を助ける愛の為に上べは棄教して、踏み絵を踏む事は、「愛とは何か。信仰とは何か」という論議も出てきますが、「病や障碍をつなぎに」はそのような議論も起きないでしょう。


  モデルの神谷恵美子を検索すると、今はかなりの元患者たちから「ライ予防法を推進し、隔離を進めた差別者」と手厳しく批判も出ているわけです。また、僕が知っているかなりの発言でも、ハンセン氏病患者を一からげに見るような発言が目立ちます。無論、遠藤氏が生きていた時期は、そのような事は公にはされず、遠藤氏も知りませんでしたから、仕方がなかった面もありますが、問題は問題にしたいと思います。


日本マスコミの北方領土報道

2019-05-25 14:15:15 | 日記
中途半端である。日本国内の世論や感情は各社よく報道するが、ロシア国民の世論と感情は余り報道していない。旧ソ連・ロシアが北方領土を手放さない理由もそうであるし。又、返還するならば、それへの具体的な道筋とか、住み着いているロシア住民の生活と居所の返還後の問題、返還後の経済開発の姿も描かないといけない。今度は返還後が困るわけだし。更には、北海道の山奥の町よりもへき地に返還後はなるそれらの所に住みたい日本人は出るのか?という問題も。また、日本が手放したとされる千島に、それらは国際法的に含まれるのか?という事も余り報道されていない。


  他にも難問は多いと思うが、北方領土に関する日本のマスコミの報道は感情とムードだけが先行し続けて、理性が足りない気がする。そのペースで仮に政治家・外務省が返還交渉しても、成功はしないわけである。丁度、1930年代に中国を攻めた日本陸軍や、1941年にアメリカを攻めた日本海軍のように。どちらも感情とムードが先行し、具体的な道筋は甘く考えて、また、仮に日本が勝った場合の対中国やアメリカの国民への細かい対策も考えてもいなかった。勝てるわけもなかった。それと戦後の日本マスコミの北方領土報道は似ている。あるいは、戦国末期、織田軍に無謀に攻めた武田勝頼の軍とか。

   そのようなマスコミ報道を信じ切れば、「戦争で取り返す」という発想も出てくるのではないか。たまたまそれが今回は国会議員だったわけで。マスコミ報道にも罪はあるかもしれないし、また、それを信じ切って、自分の頭で考えたり、歴史から学ばない事も大罪だと思う。とにかく、感情とムードだけの報道はどうかと思うし、それを信じ切るのもどうかと思う。

   何も日本だけでなく、世界中のマスコミはそうであるようだが。難しい問題である。


戦争は内戦が多い

2019-05-25 11:10:20 | 日記
  歴史を見て気が付いた事である。どこの国もそうである。内、日本について言えば、僕も小学高学年から気が付いていた。でも、最近までは単に島国だからそうだろうとだけ思っていた。でも、中国も、ロシアやインドも、フランスもそうである。更には、内戦数は一つだが、アメリカも1861年から65年に、南北戦争を経験し、今、検索したら、両軍合わせて、50万人が戦死したとか。第二次世界大戦の時の30万人を上回る数である。現代になっても、中国も文化大革命という名の内戦があったし、その少し前には、ソ連でスターリンによる内戦が。明治初めの西南戦争以降の日本も、例えば、2.26事件や5.15事件、1995年のオウム真理教事件も、内戦の内に入るという見方もできる。1965年以降のベトナム戦争も、元々は南ベトナムの内戦にアメリカが介入して、大変な事になったわけだし。内戦に他国が介入すると、ろくな事にはならないわけである。


  確かに、近代以前は兵員輸送も武器も限られていたから、他の国と戦争する事は難しかったのかもしれない。物理面もあったと思う。その他、言葉の問題。他の国とは言葉も違う例が多いから、利害が絡んでも言い争いになる事は少ないはず。言葉が判らなければ、口論にもならないはずだ。でも、言葉が同じで、そこに経済などの利害が絡むと、人間の持つエゴが出て、内戦にもなる。あり得た事だし、今後もあるのかもしれない。今も内戦の国があるらしいし。テロも含めて。

  でも、グローバル化が進み、自動翻訳も発達している現在と今後はどうなるのか。アメリカは南北戦争、日本は明治維新の内戦を教訓に、同じ国内間の戦争の愚かさと残忍性を語り継ぎ、内戦が起きない社会になっているが、世界についても、第一次、第二次世界大戦や中東・朝鮮・ベトナム戦争の愚かさと残忍性を語り継ぎ、同様にしなければならないだろう。

  また、戦争の大きな根源の一つは、「自分さえ良ければ良い」という狭い気持ち、エゴイズムである事も見える。人々の意識が狭いままならば、狭い意識の人達が大半ならば、戦争は続き、そこに科学進歩も加わり、核兵器を越える兵器も開発され、使われて、世界は破滅するわけだが、そうならないようにしたいものである。因みに、そのエゴには、自分の国さえ良ければ良いとか、仲間さえ良ければ良いというものも含まれる。いくら内戦が多いからと言って、国家に人民を捧げさせる国家主義もおかしいわけだが。例え戦争にならなくても、非人道的になる事は、フランコ総統時代のスペインの歴史が証明しているわけである。