トシコロのありのままの暮らし


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子供向け科学の文

2019-03-29 17:23:16 | 日記
 はやぶさロケットと宇宙            🚀2019年3月
                         
 はやぶさロケットがリュウグウという小惑星(しょう・わくせい)に着陸(ちゃくりく)しましたね。そのようすをぼくもテレビて見ました。リュウグウは地球や月などともちがい、丸くないですし、地面もどくとくな形をしており、ぼくもおもしろく感じました。これからリュウグウの土を地球の日本に持って帰り、いろいろとしらべるわけです。リュウグウのことはこれからわかってきますし、すでにインターネットではその写真もたくさんでていますから、好きな人はそれを見て下さい。小惑星のことも出ていますね。
 宇宙と言えば、同封した写真の一つは春に見られる星空です。われわれは銀河系という星の集まった所にいますが、その銀河系と同じく、星のたくさん集まった「M81」なども見えますね。M81からウルトラマンがやってくることにもなっています。ぼくの子供の時もテレビでウルトラマンは放送され、楽しく見ていました。文明のはったつした宇宙人は怪獣などが現れても、「どこでもドア」みたいな機械で他の所にうつすか、それとも、おとなしくさせる薬をあたえて、あばれなくなるかするでしょう。レスリングみたいに怪獣をたおすことはしないと思いますが、それはおとぎ話風に作ってあるわけですね。
 この銀河系宇宙にもたくさんの星があります。地球みたいな星も多いことが次第にわかってきました。ならば、そのようなたくさんの星にも生き物はいるわけです。地球に似た動物や植物がある星もあれば、地球とはちがう生物のいる星もありましょう。知能や心を持つ人間みたいな動物もいると思います。中には、植物が心を持ち、助け合って生きている星もあるのかもしれません。そのように思うと楽しいですね。
 春の夜空にはおとめ座とかしし座が見えると言われています。でも、日本は元々雲が多く、星座がわかるまでは星が見えにくいです。ぼくも星座をかくにんしたことはありません。それでも、宇宙に目を向けると心が広くなり、楽しくなります。楽しく宇宙を見ましょう。

人間や社会の事は論文化できるのか?

2019-03-28 11:32:28 | 日記
  結論から言えば、できないと今の僕は思う。40年前に、児童・障碍者・ハンセン氏病関係の各福祉の事を論文化して、世間に伝えようとした人たちと接してきたが、彼らも中途で投げ出した。また、僕自身もS園の事が気になり、数年前にはブログを使い、レポート形式のまとめ文を書こうとしたが、多くの人たちには伝わらなかった。ムリである事に気が付き、実録小説化して、小説名の林田博士を中心に職員たちの会話や心理描写などから、その心の再現を試みているわけである。やがては、身障園生たちの心の再現もしてみたいと思っている。また、ハンセン氏病後遺症を持っていた伊藤まつさんの人生の論文化も不可能で、こっちは随筆形式でこれからも心の再現に努めたい。


  以上、2つの例に「心」が共通してあるように、人間は心を持つ動物だから、例えば、化学実験レポートのように、論文化は不可能である。個人にしろ、それが集まった社会全体にしろ。それ故に、昔から多くの作家たちが心の不思議さを求めて、小説とか随筆、詩などを書いてきたのではないか。更に深く考えると、「命」も論文化は不可能だと思う。例えば、「カエルの解剖の観察レポート」では、内臓や血流みたいな事は書けても、カエルの持つ「命」の事は出てこないわけである。それは生物学の勉強にはならないと思われる。

  19世紀ヨーロッパには、人間や生物を論文化しようとする動きが流れとして強まり、その果てに20世紀前半のドイツにナチスが現れ、ヒットラーたちは人間や社会、民族を論文形式で割り切ろうとした。その結果、心・命・愛などが抜けた冷たい見方になり、あのように戦争や虐殺を産んだ。人間などを論文化しようとすると、本当に「心」などが見えなくなるようである。人間は論文化みたいな見方をしたらいけないし、全生物にも言える事だと思う。また、ナチスみたいな社会運動はしなくても、人間や社会の論文書きにこだわれば、まともな文章は書けなくなるのかもしれない。自分にも跳ね返ってくると思う。

  以上、僕も論文化の限界を以前は感じたから述べたわけである。

今は打撲の影響でひざ立ち歩きができません

2019-03-25 13:37:23 | 日記
  19日、左ひざ下の所を打撲したもので。当日は常に痛かったですが、それ以降は痛みは退いています。でも、その後遺症が残っており、ひざ立ちすると丁度体重が掛かるような所なので。


  座っていざって、移動しています。ヘルパーさんのいる時は、体を支えてもらって歩いて移動しているわけです。

  代替移動手段が僕にはあって良かったですが、それもなければ大ごとになるわけです。

  因みに、例の腰痛は治っています。

信仰の現実化と死

2019-03-23 13:53:07 | 日記
  信仰について更に述べる必要があるのは死の問題。誰も死後の事は判らない。でも、例えば、キリスト教では、イエスの死後の復活を信ずると、歴史の果ての時にイエスの愛の力により、心身共に復活すると言われている。イスラムでも、アラーの定めた戒律を実行し、貧しい人たちにはお金を施し、体や目が不自由な人たちには介護をすると、天国に死後復活できると言われている。仏教の浄土系の教義も、念仏を唱えると死後は極楽に往生できると。


  大体、人間は死後は身体も、意識も消えると思い、死を元々恐れる面がある。例えば、死を連想する強い地震を誰もが恐れるのもそのせいであろう。また、権力者の不正が気に入らなくても、権力者に銃口を向けられたら、多くの人たちは自分が死ぬのを恐れてひるむわけである。ところが、以上の通り、何かの信仰を強く持てば、自分は復活なり、極楽往生なりができると信ずるから、死は恐れないどころか、「正義の死」はまさに信仰にもかなうから、喜びにもなり、非常に強く権力者に抵抗するわけである。初期キリスト教のローマ帝国への抵抗、1637年の日本に起きた「島原の乱」はその典型例である。現代でも。1980年代、旧ソ連の大軍がアフガニスタンで、「正義の死」を無上の喜びとするイスラムの戦士たちに負けて、ソ連崩壊の一因にさえもなった事があった。ソ連軍の人たちは、唯物主義者が多く、「死ねば終わり」と思っていたから、非常に戦いを恐れ、戦う前から勝敗は見えていたわけである。(但し、その弊害も多い。今のムスリム・テロリストはその典型。歴史を見ると、十字軍など、各宗教で同様のものも起きているわけであるが)。


  因みに、詳しい事は書けないが、ある所でマルクス主義者の一人が「資本論」に書かれてある「死はその人に与えられた、冷酷な究極の勝利である」という言葉を音読しながら、「私はそのような気持にはなれない。死は恐い」と本音を語っていたのを思い出します。社会運動にはマルクスに心を向けても、死の事は別のものを模索しているとか。確かに、マルクスも死後の事は判らなかったから。(そのマルクスの死生観は根はユダヤ教にある価値観であるが。ユダヤ教のかなりは「死は無」という価値観を古代から有していた。その他、輪廻転生を説く教派も古代ユダヤ教にはあった。輪廻転生はインドや仏教が有名だが、ソクラテスやプラトンも説いたし、イスラムやキリスト教の一部にも影ながらある。古代中国やアメリカ先住民にも見られるそうだ。現代アメリカで、退行催眠から前世の記憶が引き出せた事もあったし。信仰の問題とはやや離れるので、カッコ内で書いたが、面白いとも思う)

  これ以上深くは僕には書けないが、信仰と死の問題は切り離せないのは事実である。人は確実に死ぬ存在で、他の動物とは違い、死を認識できるわけだから。