トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

「共生策」の大事な補足

2019-04-30 15:00:50 | 日記
 近代化により、各国の封建制は崩れた。それは尊重すべき事だが、今度は科学が物質偏重に発達したための文明の歪みが多く生じた。その一つの現れがX君の件だったと解釈できる。


  ニュートンは物理面だけでなく、見えない世界や精神性にも関心を持ち、死後の事にも興味があり、降霊術みたいな事も研究した。又、マルクスは「資本論」の中にたくさん聖書を引用したり、「天国に行った」という言葉を使うなど、敬虔なクリスチャンでもあった。アインシュタインも、物理学と同じくらい、精神性を求めた。

  以上の事は理科や経済のテキストには出ておらず、明らかに切り捨てられている。19世紀と20世紀の世界の潮流が彼らを物質主義者にさせ、我々も信じ込んできたと。マルクスは「精神・文化面=上部構造」と「経済面=下部構造」は互いに影響し合い、発展し合うと述べたのに、後継者たちは「下部構造が社会を支配」に誤解したわけだし。「宗教はアヘン」も意味を解釈せず、宗教禁止の意味にされたわけだし。

  「セックスしか結ぶものはない」と言う声も複数の男たちから聞いたが、それも物質偏重思想の一種だと思われるし、そのような発想は女性たちから嫌われてもいるわけです。

   人間は物質という発想は、国家主義と結びつき、人は軍隊戦力とも見られる傾向があるわけで、戦争の絡みからも脱却すぺき発想だと思います。


激怒しやすい人たちとの共生策=全ての人々の共生策

2019-04-30 13:35:27 | 日記
 どこにも短気で激怒しやすい人はいるものだ。僕もたくさん見てきた。ただし、例のX君は脳の器質性の病気で、理性の抑えがきかないそうだから、すぐなぐるとか平手打ちの行動に出る所が問題だと関係者たちは考えていた。人を平手打ちする場面に居合わせて、昔の僕もそのように考えた。今までは、脳の問題だとも。でも、改めて考えて、その見方は短絡的で間違っていた事に気が付いた。まず、「怒り」は何故起きるか、考えてみよう。特に、対人関係での怒りを。(ハイキング予定の日に雨が降って中止になり、雨に怒る、みたいな事は除きます)。


  誰でも他人に怒った事はあるだろう。僕も数多く経験している。例も浮かばないだけ、多い。でも、あから考えてみると、相手との「心の交流」が足りなかった事が原因。「相手の気持はこうだろう」という推察は、まず外れるわけである。そして、ケンカになる事も多い。

  実は、平手打ちや殴るまでに至ったX君との件も以上と同じだった。ケンカの起きた場は、会合の場とか福祉作業所。会合の場は著しく心の交流に欠けていたし、福祉作業所は知的障碍者用で、障碍の種類の違うX君への対応や意思疎通に欠けていた。知的障碍者に対するように女子職員が優しい言葉を掛けて、X君が求愛と誤解した事もあったわけだし。X君が激怒して暴力も奮う場面は全て「心の交流の不足」と「対応の間違い」の二点で説明が付く。脳の病気という物理的な問題が原因ではないわけである。そうだろう。怒りの原因が何かの物理的な問題とは聞いた事もない。怒りの原因は全て「葛藤」であり、心の交流不足とか、対応の間違いなのだ。本当に「X君みたいな者の問題は脳の欠陥だから、社会排除も仕方ない」と世間の多くが思えば、他の障碍者も事あるごとに、何かの理由で切り捨てられていくと思う。「歩けない人や盲人が災害の時に逃げられないのは仕方ない」とか、「寝たきり身障者が結婚できないのは仕方ない」みたいな発想にも通じるわけである。脳の病変も物理的な問題に過ぎない。もし、X君を心の交流の活発な場に置けば、彼も対人ストレスは生ぜず、激怒や暴力もしない事が十分にわかる。また、社会全体がそのような状態ならば、誰もX君の精神障碍に気が付かず、「普通の人」と見られ、彼の望む生活ができる。ケンカも起きないのだから、X君も余裕ができ、好きな事が見つかり、それに打ち込むかもしれない。例えば、歌とか、俳句とか。魅力的にもなり、親友もたくさんでき、理解ある異性とは結婚も可能だろう。X君に限らず、そのような病気の人たちはそうなるし、脳病でなくても短気な人たちもケンカはしないわけである。

  考えてみれば、我々も心の交流がうまくいかず、ストレスを作るが、大体は外に発散せず、内にため込み、それが重なり、ガンとか胃潰瘍、肝臓病などの多くの病気を作ったり、酒や麻薬に走らせる。ストレスは人を破壊する恐ろしいものである。でも、今のほとんどの人間は「ストレスのない社会は、聖書などで書かれている天国だ。おとぎ話に過ぎない」と信じ込んでいる。果たしてそうだろうか。

   ここでヨーロッパで発達した科学史。ガリレオあたりから物理学は発達し、ニュートン以降は更に発達。現代に至っている。物理学の影響で「人体も機械である」という説が主流になった。命もタンパク質の機械という見方も強くなった。人間の思考もその一つだと見られ、20世紀には脳のロボトミー手術で精神病を治療する動きもあった。でも、そのような事では治療できなかった。そうだろう。今までの科学は、物理面ばかりが発達し、意識や心の研究が遅れていたから。わずかに心理学で、心の動きを分類したに過ぎなかった。「意識とは何か・意識の持つ力」などの研究が非常に遅れていた。最近になり、量子物理学という形でその研究が始まったばかりである。つまり、「ストレス」の根なるものもまだ科学的に判らないから、「ストレスへの対応」とか「ストレスのない社会作り」などができず、経済状況などの複雑化に伴い、ますます精神障碍者が増えているのが現状である。心や意識が科学的に解明されてから、初めて共生社会の糸口が掴めるに違いない。でも、意識などの研究が始まった以上は、ストレスに対応し、ストレスのより少ない社会も来ると僕は思っている。

  X君や脳に注目していた時は僕も何も見えなかった。彼を特殊な人間だと思っていた。しかし、「ストレスの原因」に目を向けたら、ストレスの問題を解決できない今の大きな社会の問題の一部にX君の件もある事に気が付いた。もっと大きな見方をすれば、「心の交流不足」は非婚や離婚は勿論、例えば、日韓問題やアラブ・イスラエル問題などにもつながる問題である事が判ってきた。対立する国は歴史的に心の交流が不足して、互いに不信感と葛藤を持ち続けている。それらの問題も、心・意識に関する学問が発達して、やっと問題の解決の糸口が掴めるようである。人類の歴史は本当はこれからだ。

文芸誌投稿から・その2年後の裏切りと空虚

2019-04-29 10:24:08 | 日記
  その2年後の裏切りと空虚                 文芸誌投稿文

 年末の「湘南初詣」の続き。それを参照に以下お読み下さい。
 その福祉親睦会は、学校の春休みと夏休みに当たる3月末と8月の数日間、群馬のある身障施設に作業と交流のキャンプをしていた。例のX君も元々はそのキャンプに参加したくて、その会に来たわけである。でも、参加にはいくつかの問題があった。まず、重いテンカン。テンカンの状態もその患者で一人一人違うが、彼の場合は発作が起きると即救急車を呼び、緊急入院させなければならないだけ、深刻なものである。しかも、疲労すると発作の確率は高くなる。健康な人でも疲れるそのキャンプに彼は耐え切れないだろうと誰もが判断し、考えこんでしまったわけである。
 もう一つは、協調性。生来、彼はそれがなく、話し合いの時でも、自分が話したい関係のない話をするわけだ。注意されると激怒して、相手を殴る場合もある。協調を強いる事が多いキャンプ生活はもっとムリではないかと誰もが見て、この面でも考えこんでしまったわけである。
 とは言え、常に参加を希望したわけではなく、会員に連絡しなかったり、東北地方などに旅行している場合が多かった。お寺や施設に宿泊し、それらで奉仕活動していたそうだ。
 それが1982年2月になり、急に会員に連絡し、「群馬キャンプに参加したい」と言い出した。間もなく、緊急のその会議が開かれ、皆も重苦しい気持ちで話し合い、激論にもなり、ほとんどが「ムリ」という結論を出し、その結果をその会の一先輩がX君に直接会って、伝えた。彼は激昂し、暴れたそうである。大泣きもして、寂しさを痛感しつつ、最後は諦め、以後、僕含む、その会の人たちに姿を見せる事はなかった。また、「難病を持つX君を参加させる」という目的でキャンプを続けてきたが、その目的が消えて、キャンプもやる気がなくなり、つまらなく感じるようにもなり、少ししてキャンプも、その会も潰れていった。...。
 今の僕は振り返り、X君はそのキャンプに何を求めたのだろうかと。数日間で終わる事は彼にも判っていたのに。奉仕ならば、キャンプ抜きでもできる。「友人や仲間になる」だろうか。確かに、当時は何かのキャンプやサークルを通して、自分たちだけの世界を作り、友人や仲間、恋人になろうとする事が流行ったわけだから。「大学では、どんなクラブに入るの?」と当時の一歌謡曲の歌詞にもあったわけだし。友人作りでも、キャンプは必要ない。それどころか、会合も必要ないと思う。X君に限らず、時々手紙や電話で連絡を取り合い、都合が良い時は皆で花見や相撲でも見に行くだけの付き合いで十分である。各人は多くの人たちにつながっている以上、そのような関係を作れば、それこそ、万人に通じる。キャンプとか会合で限られた仲間関係を作る事は余りにも狭かったと、フェイスブックなどを使う今の僕は思うわけだが。
 世間には多くの人間がいるのに、会合やキャンプで自分達だけの狭い世界を作る。その傾向は更に深まり、その果てはオウム真理教である。狭い世界は恐ろしいと思うし、以上の会もその一つだったので、潰れて、良かった。それと、狭い仲間関係は作るものではない。構成員はそれで視野が狭くなり、X君との付き合い=キャンプ参加という公式にこだわり、真の付き合いが誰にも見えなかったわけだし。当時のサークル・キャンプ付き合いは狭かったわけである。
 (激怒しやすく、暴力を奮いがちな精神障碍者との共生策もちゃんとあります。明日、書きます。一日だけお待ちください)

心の通じ合いの大切さ

2019-04-27 13:42:08 | 日記
  十字軍戦争と日清戦争の歴史を少し見て、心の通じ合いの必要性を僕も痛感します。


   近代には、「お金が社会や人を結ぶ」みたいな考え方が発達しましたね。それが資本主義と共産主義に分かれたから、事が複雑になったわけですが、それはともかく、確かにお金や食べ物も大事だと思います。バカにはできません。でも、それが人を結ぶまでに強い絆を産むのか?は非常に疑問だし、すでに歴史は答えを出していると思います。

   また、僕が痛感する事は、障碍も、セックスも人は結ばない事です。僕の経験や見聞からの事でもそう言えます。40年前の日本の首都圏では、身障者たちが障碍の絆を作り、社会変革しようとしましたが、かなりの身障会はその身障者たちの価値観の一人一人の違いからバラバラになるか、内紛にもなった。ハンセン氏病関係でも、ハンセン氏病差別への見方が一人一人違い、元患者間の絆はできていません。一方、ここ数年、ネット関係で離婚経験女性たちの声を聞いてきた。セックスは本当につなぎにはならない。その時の会話や意思疎通が日本人はうまくないから。あれも本当は心の交流が主。肉体接触はコミュニケートの1%くらいだと僕も見ています。障碍にしろ、セックスにしろ、肉体的なものですが、それが意思疎通になるような事はあり得ないでしょう。以上の2つも、19世紀以降の唯物論から出たものだと僕は見ています。特に、肉体機能上、セックスは女性が受け身専門になるせいか、心の交流を欠く夫婦セックスは女性が非常に嫌うようになるわけです。プライバシーに触れるから、詳しくは話せませんが。結果的に日本は子供が生まれなくもなる。その原因も、唯物に偏り、心の通じ合いを忘れた事だと思います。


   経済の大切さ、分配ルールなどの重要性は認識しつつも、その上で唯物論から離れて、精神主義にも陥らず、バランスの良い発想に持って行かないといけない事が歴史の流れから読み取れるのではないでしょうか。


日清戦争と日露戦争を防ぐには

2019-04-27 11:41:11 | 日記
  昨日の十字軍戦争の続き。僕は日本人なので、遠い十字軍戦争の事を書いたら、日本に絡む戦争の事も書かないといけないと思い、考えました。日清戦争から書きます。


  その戦争の根本は、間の朝鮮王国の親清派と親日派の対立に、日清両国が介入して、大規模な戦争になったわけですね。まず、当時の朝鮮内部の両派の意思疎通がうまくいっていなかった事があります。でも、当時の日本・朝鮮・清の三ヶ国の意思疎通がうまくいっていなかった事が戦争の最大の理由でしょう。当時は、首脳間の直通電話もなかった。その上、清は衰退し、トップも誰なのかはっきりしない状態だったので、意志疎通が困難だったのは仕方なかったかもしれませんが、大規模な戦争になったのは残念に思います。難しかったにしろ、三ヶ国間の意思疎通が行われていれば、歴史は違ったものになったでしょう。

  その戦後、清帝国は更に衰え、帝政ロシアが中国東北部に侵略し、今度は日露戦争が起きた。つまり、日清戦争がなければ、日露戦争は起きなかっただろう事も判ります。

  日露戦争後は日本では、軍部がわがままになり、政治に口出しもして、軍国主義になっていった。根本の日清戦争がなければ、旧憲法下でも軍国主義になっていたか、どうかは判りませんね。大きく見て、東アジアはより平和で繁栄したかもしれない。戦争はナチスなどのヨーロッパに限られたとも考えられます。

  それと、見逃せないのが当時の新聞関係と世論。日清・日露の戦争の時に、戦意を煽る書き方を各新聞は行ない、人々もより戦意高揚の記事を好んだ。これも戦争の理由の一つだと思います。それから、当時は戦争は儲かるという考え方が日本でも蔓延していたので、財界もかなりが戦争を望んだ。それも要因だと。でも、第二次世界大戦の果てには、かなりの国が破壊され、経済や儲けどころではなくなった事も付け加えます。大事なことですね。戦争は勝ちも、負けも本当は大損するわけです。

  更に、非常に大事なことを付け加えると、日清戦争がなければ、その後年の日本の朝鮮植民地化もなく、日本と朝鮮王国は親密で、協力し合ったかもしれない事も見えるのかもしれません。日本人が植民地化で恨まれている根の一つも日清・日露戦争になるのでしょう。