トシコロのありのままの暮らし


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よく知り合わなけば愛し合えないのに

2021-03-31 10:55:24 | 日記
  多くの旧友たちにしろ、多磨全生園で聞いたハンセン氏病元患者たちの恋愛・結婚のことにしろ、世間のことにしろ、出会って間もなく、まだお互いによく知らない内から相手を好きだと言い合う、又は、一方的に好きだと言う。そして、少し知り合ってから「こんなはずではなかった」と言って、別れるかケンカになる例が多い。無論、ケンカの時も「別れる」わけだが。何も僕の見聞きした例ばかりでもないだろう。新婚旅行直後に離婚する例も増えている以上、それは日本を覆いつくしているようだ。


  確かに、相手の顔くらいしか知らない内から「好き」とか「愛している」はおかしい。昔から僕が感じてきた疑問である。その内の一例の証言を詳しく一旧友から聞いた事がある。他人のことなので書くわけにはいかないが、後の人生にかなり尾を引いたようなので、悲しくも思う。本人は述べていないが、出会ってすぐに相手のことを「優しくて、しっかりして、オレに尽くしてくれる」と勝手に思い込んだらしい。相手もそうかもしれない。少し経ち、知り合い始め、自分の思っていた姿とは違う事に気が付き始め、失望が始まり、何かのきっかけでケンカになり、別れたわけである。映画の寅さんにも全く同じ筋書きのものがあった。自分の理想の姿の異性を相手に勝手に投影する現象である。また数は少ないかもしれないが、性の別なく、友人にも想像した姿を相手に押し付けるように付き合う例もある。迷惑するわけだ。それらは想像が過剰というべきものか。

  人間は一人一人違う。自分と同じ人はいない。また、自分が想像した人と同じ人間もいないわけである。交友の目的は絶え間なく、客観的に知り合う事だが、特に何かと違う男女はそうだし、本当に好きになる、愛が生ずるのはかなりしりあってからになるわけである。映画の寅さんの恋愛は明らかに客観性が欠けているから、「男はつらいよ」になるわけではないだろうか。


経済構造

2021-03-31 10:02:54 | 日記
今朝の日本経済新聞の朝刊に、世界の富の偏在のことが警告文的に書かれてあった。ナチス台頭の歴史にも少し触れて。反ユダヤなど、ナチスの歴史は繰り返さないと僕は思うが、今の経済はアメリカも、中国や日本もバブルではないか。それに多くの人たちが気が付かない。バブルが崩れたら、世界中が大変な事になる。確かに、今までの経済構造は弱肉強食的で、その谷間の現象がアフガニスタンやミャンマーの問題だし、アメリカや中国、日本の経済格差だと。国内外にしろ、「援助・支援」という形では解決できないわけである。今の経済構造を愛のあるものに変えない限りは。今までの経済構造はカルヴァン派の末裔の改革派というプロテスタント系のものが根にある。それは「人々は生まれつき、救われる者と救われない者に分かれている」という思想であり、イエスの説いた愛が骨抜きにされたものである。ならば、搾取みたいな事にもなる。これが今までの資本主義である。

お餅を食べる時期

2021-03-30 11:05:54 | 日記
自分の事を話せば、正月の三が日に食べて、後はグラタンやシチューが食べたくなり、ずっと忘れたままになるの、例年の繰り返しである。似たようなコメントも頂いた。同様な人たちが多いと聞いている。小学時代からの諸々の話を思い出しても、お餅の話は一月前半だけで終わっている。本当にそれ以降はほとんどの人たちは食べていないようだ。


  正月ころの日本付近の天気図を思い出すなり、検索すれば良い。そのころはずっとシベリアに強い高気圧、太平洋には強い低気圧が停滞し、寒さは厳しいが、天気や気候の変化はほとんどない。安定した気候には違いない。安定しているにしろ、時々は台風も来る8月よりも安定しているわけである。その場合、風邪は引きやすくはなるが、自律神経は安定するようだ。食べるものも寒い地方で発達した西洋料理の方が向くわけである。特に、乳製品を使ったグラタンなどが体に合うし、おいしく感じる。僕も特に4月以降はグラタンは食べたくなくなる。一方、日本で発達したため、どうしても餅の料理には乳製品は使わないし、味も合わないかもしれない。とにかく、気象と絡めて見ると、お餅は春一番以降が良いのかもしれない。特に、天気図の変化が激しくなるころが。

  因みに、同様に天気図の変化が激しい秋はどうなのか。例えば、十月病は聞いた事もない。秋の自律神経の事は僕はそこまで知らないが。「春に餅を」と言った父も天気図との関係の話でもないから気が付かなった。僕もその質問には気が付かず、していない。「疑問」とだけ書いておく。知っている人がいたら、教えて下さい。

  とにかく、正月だけならば、餅はもったいないかもしれない。


日本のお餅と旧暦

2021-03-29 13:19:01 | 日記
  父は晩年に漢方医学の勉強に打ち込み、医学関係の古典書を多く読みふけった。僕は腰痛の関係で教えられた事を2つ思い出した。いずれも餅関係。「餅は腰を強くする」、「餅は春の食べ物である」。内、腰の件はよく判らないが、腰に限らず、神経や筋肉を強める物質が含まれているのだろう。あるいは、未知のビタミンかもしれない。腰の具合はかなり良くなったが、餅で腰が強くなるのならばそれに越した事はないから、これから食べたいと思う。「餅は春」が本題である。


  江戸時代の春とは、立春から立夏を指した。又は、旧暦正月以降。現代の暦では、2月から4月までである。確かに、時代劇でも判る通り、江戸時代の人々は旧暦正月からお餅を食べ始め、旧暦2月にあった春分の時はぼた餅、つまり、あんこや黄な粉をまぶした餅を食べていた。桃の花が咲くころの、現行暦の4月にあたるひな祭りは、桜もち・草餅・ひし餅。桜餅も今みたいにあんこに小麦粉の皮を巻くようなものではなく、桜の葉が入った餅だったかもしれない。そして、飛んで現行暦の6月初めの端午の節句で何故か餅シリーズは終わっている。秋分にはおはぎはあるが、餅ではない。春分は昔はおはぎは食べなかった。

  今調べてみたが、餅には銅とモリブデンという物質が含まれているし、白米やパンよりもはるかに消化が良い。一方、春は非常に気候の変化が激しく、自律神経も狂いがちである。花粉症や五月病も深刻である。ひょっとして、餅の中に含まれる物質の中には、自律神経も安定させ、体調も整わせ、花粉症や五月病などを防ぐものがあるのではないか。分析化学はまだなかったにしろ、経験医学として餅の効果が実証され、食べられて来たのではないだろうか。

  ただし、以上以外、現行暦で7月から1月までは餅は食べられていない。信州では「夏に餅を食べるとおできになる」と言い伝えられていたそうだが、腫物はともかく、その間は気候との関係から食べてはいけない理由が何かあったのだろう。

  現代日本人は一月に集中して餅を食べる。昔の日本人が食べ始めていた2月は食べない例がほとんどである。医者ではないから詳しい事は判らないが、お餅の健康効果は非常に薄いのではないか。江戸時代のように、現行暦で2月以降、餅を多くの人たちが食べたら、花粉症や五月病はどうなるだろうか。

  明治の初め、西洋に合わせて日本人は旧暦を捨て去った。国粋主義を名乗った第二次世界大戦中も旧暦を復活させなかった。これもおかしかったと思う。また、そのころはドイツの真似ばかりした。本当に国粋主義ならば旧暦も復活させるのに。この件は題とずれるから今日は話さないが、旧暦の生活には相当経験科学的なものも含まれていたと思う。これからでも参考暦として、復活させた方が良いように思われる。旧暦生活は日本、更には、琉球、朝鮮半島、中国大陸、ベトナムの人たちに非常に合うものがあるはずだから。その他、江戸時代にはリサイクル文化もあったし、朝鮮王国や清帝国とも平和的な外交ができていた。戦争はしなかった。封建的な面もあったにしろ、これからの日本とアジア、世界作りに参考になりそうなものがたくさんあるはずだ。個人の生き方の参考も。過去をバカにする事はできないだろうが。とにかく、歴史から大いに学ぼうではないか。


離婚や離恋愛も

2021-03-26 14:20:23 | 日記
  「離恋愛」とは恋人同士が両方、又は、一方が相手を大嫌いになり、離れることで、失恋とも違う状態なので、僕が離婚にからめて作った言葉だが、要するに相手が嫌いで嫌いでたまらない状態になる事であるが、そのような人たちの話を多く聞くと、差別と変わらない状態の気持ちである。「相手を見るのも嫌だ」とか。昔から僕は差別と同じ意識がそれにある事に気が付いている。


  ならば、理由はさまざまにしろ、「愛の気」が流れなくなり、離婚などに至るのではないかと。離婚などと差別も案外共通したものがあるのかもしれない。特に、恋人だけ、夫婦だけしか見えなくなると心が狭くなり、愛の気も出ない・流れなくなるようである。

  それから、先の補足だが、被差別者だけがかわいそうなのか。違うはず。差別した側も狭くなり、愛の気が出ない・流れなくなり、時間を置いて不幸になるわけである。長い目で見れば同じだけ不幸。「差別した側がより不幸になる」という話もよく聞く。新聞などによれば、日本のハンセン氏病療養所で人体実験も多く行なわれるなど、差別の実態はものすごかったようだが、それを尻目にマイホーム作りをしてきた人たちもどうだっただろうか。狭い人生ばかりで、子供の成長しか楽しみがない状態は幸福だっただろうか。多くの元患者や身障者などは「不幸を我々に押し付けて」と怒っているが、そうでもない気がする。元患者などの足を踏みつけた人たちは本当は愛の気はなく、絶対孤独・非常に不幸かもしれない。その事はやがて歴史が審判するだろう。僕の述べる事ではない。

  離婚して介護士になられた方も多い。離婚が多くならなければ施設・在宅の別なく、今の福祉は成り立たなかった。「もっと大きな愛に目覚めよ」という神様の意図みたいなものを感じて僕はならない。新約聖書・福音書にイエスの言葉として「私のために夫婦・親子・兄弟から離れろ」とか、「私は夫婦や親子を引き離しに来た」とあるのではないか。別に愛を否定ではなく、「全人類に至る大きな愛を持て」とイエスは説いている。シャカも同じである。離婚増加は考え方次第では、共生社会や世界平和に結びつくかも知れない。これも後世の歴史が審判する事だが。どうせなら、良い方向に行って欲しい。