トシコロのありのままの暮らし


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埋もれた過去

2018-11-22 11:20:37 | 日記
  僕が小学低学年(1年から3年)の時、僕の学級の母親たちが言っていた事をふと思い出しました。当時の身障児(とは言え、かなり軽度の例が多く、知的障碍を持つ例はなかった)の母親たち同士が集まり、仲間関係を作り、話し合えば、子供たちの生き方の参考も出るし、そこから何かの福祉運動も出てくると考える人たちが多く、僕の先輩に当たる光明養護学校の母親たちも、そのような会を作りましたし、世田谷区でも、他の区でも、そのような母親の会が盛んに行われました。会費制にもして。僕の学級の母親たちは「話し合って、どうなるの」と冷めた目で見た例がほとんどで、他からは変にも思われていました。でも、僕の学級の母親たちの言う通り、どうにもならなかった。話し合うと内向きにもなって。又、「体が不自由な子は、精神薄弱(=知的障碍)とは違うのよ」とそのような会は知的障碍児者には大体差別的でした。内輪でも、「うちの子は歩けるけれど、あんたの子は歩けない」と母親同士が差別するような言葉もたくさんあったと、聞いた覚えもあります。当然、ケンカにもなるわけです。そして、集まった会費を横領する例も各会で見られるなど、うまくいかず、次々と早くに潰れていきました。その後、僕が小学5年の時に、僕の学級の先生と母親たちが行なった養護学校内の介助員設置運動は成功し、福祉の歴史に残った。当時の母親たちの行動は、介助員運動だけが歴史に残っているようです。


  では、その介助員運動と、他のものとは何が違うのか。介助員運動は「初めに行動ありき」で、話し合う間もなく、即行動。仲間意識を拠り所と考える事もせず。だから、うまくいったと思います。無論、当時の美濃部東京都知事が福祉に非常に理解のある方だった面もありましたが。他の母親の会とは性格も違ったものでした。

  その後、母親たちの諸々の会の事は、僕の学級の母親たちも忘れたようで話さなくなりました。話を聞いた同級生たちも忘れたようです。一方、当事者の会の人たちも挫折感からでしょうか、記録に残さないなど、歴史に埋もれるようになりました。そして、1970年代後半、今度は諸々の母親の会の子供たちの身障者が同様に「身障者同士の仲間意識」を拠り所に、話し合えば何かが出てくると思いこみ、会を作りましたが、うまくいかなかったし、知的障碍関係には差別的。また、非常に重い身体障碍を持つ者たちにも理解を欠いた。金銭トラブルこそなかったものの、会員の相互理解を欠き、大ゲンカになるなど、自分たちの母親たちと同じ事をした例も多かったです。ケンカがあった会は、当然、会の存在自体も後年は伝えられず、これも「埋もれた過去」になりました。親の因果が子に報いてもないでしょうが、皮肉に感じます。介助員設置運動みたいに具体的にやる事がある場合は大いに運動すべきですが、具体的にない場合は話し合ってムリに出してはいけませんね。せいぜい皆でどこかに遊びに行く程度に留めるべきだし、後は個人レベルの交友に努めて相互理解をした方が利口である気がします。「仲間関係」の連想から思い出せた事です。

仲間の件の追伸

2018-11-20 13:54:37 | 日記
  誤解される方がいると困るので述べますが、仲間関係みたいなものに疑問を呈しているからと言って、何も孤立や孤独を勧めているわけではありません。それどころか、僕は他人への関わりは積極的に進めた方が良いという考え方です。でも、多くの体験上も、歴史を見ても、仲間関係・意識には疑問を持たざるを得ないわけです。 


   それでは、孤独・孤立・寂しさは何を表すのでしょうか。愛の欠落か不足を表す状態だと思います。マザー・テレサは「愛の反対は無関心」と述べましたが、確かに他人に無関心にされると誰でも寂しいですね。無関心も愛の欠落の状態の一つだと思います。良くないわけです。とは言え、愛の欠落は無関心だけでしょうか。他にも状態はあると思います。その「愛」の心理学研究も遅れているように僕には思えます。大体、心理学自体が歴史の浅い学問ですから。例えば、宇宙物理学は今はビッグバン以前の事も解明しつつありますが、それに比べても諸々の研究が遅れているようです。愛の心理学考察も初歩程度です。


  そして、仲間関係を作ると、どうしても仲間外の人たちには「無関心」になる。愛の反対をすでに含んでいるわけです。又、仲間内の人たちも実際は寂しいようです。各自が自分の思惑で付き合っている状態ならば、相互の愛や思いやりも出てこないではないですか。それでも、仲間意識に愛は含まれていない事を知らないと、構成員はより強く仲間関係を求めて、同じ行動をしたり、同じ意見を述べ合う。昔、僕の所属した複数の会でも見られた事だし、70年代前半の赤軍派とか、90年代のオウム真理教でもそのような事があったわけです。ナチス内もそうだったらしいし。仲間関係の他、愛の心理学解明が遅れていれば、こうなるのかなとも今は思います。

   因みに、僕は複数の会で、自分の欲しいものは仲間関係・意識ではないと比較的早くに気が付いた。でも、仲間関係の欠陥を説明できなかった。じれったかったし、怒りも感じました。説明できない自分への怒りね。寂しさとは別の感情がありました。その為、若い時の僕は怒ってばかりいて、変に思った人たちもいたようです。高校時代まではそのような事はなかったと。今になり、メールやフェイスブックで付き合い直し、変に思われた理由を説明できて良かったと思います。寅さんは「人生で取り返しのつかない事はないんだよ」と映画の一つで述べていましたが、その通りですね。

   もう一つ。三木清は戦時中の日本社会で、戦争協力の流れに乗る人たちを批判し、「大勢に従ってはダメだ。孤独になっても、正しい事を貫かないと」と述べています。三木氏を批判する事は僕にはできませんが、但し、「大勢に従う事」で孤独は癒されるでしょうか。そうは思えません。大勢に従っても、それに「愛」が欠落している以上は、孤独はひどくなると思います。本当は猛烈に寂しくなる。それを癒すために更に「大勢に従う」の悪循環。これで諸々のファシズムも、オウム真理教や赤軍派もひどくなり、破滅への道をたどったわけですね。恐いわけです。この場合、大勢が悪い道ならば、反対を貫く事は愛であり、絶対に孤立・孤独になりません。「徳孤ならず、必ず隣有り」で、少数かも知れない、一人かも知れませんが、必ず、同調者が出て、愛に満たされた状態になるわけです。そのような社会になれば、僕はそれを選びます。

仲間意識の問題と心理学

2018-11-19 11:31:18 | 日記
  心理学は個人の心理研究から始まった。1970年代に僕が受けた通信大学の心理学の教科書もその枠の中だけだった。その後、1990年代になり、放送大学では「社会心理学」なるものが講義として行われ、特に日本では、東日本大震災後は「パニック心理学」とか「災害時の人間心理」など、社会変化や災害が人間心理に与える影響が研究されている。とは言え、本来は心理学の研究対象であるはずの仲間関係や仲間意識の問題はほとんど聞かれない。研究が遅れている分野である。


  ならば、その面の研究が開始されて進むと、例えば、宗教戦争とか、かつてのマルクス主義同士の激しい対立などの問題も解明され、解決の糸口も見つかってくるのではないか。勿論、現代ではそれら以上に深刻である国家対立や民族対立の問題も同様になると僕は期待している。

  日本語でも「仲間」は一見優しい響きの言葉である。だから、多くの人たちはそれが良いと思う。外国の人たちも変わりがないだろう。でも、大事な事として、誰もその本質は知らない訳である。研究が進んでいなければ、書物には書かれていないから、その本質は知りようがない。例えば、僕に色々教えて下さった例の無教会主義伝道師などが体験として、「仲間関係は恐ろしいものだよ」とか伝えているだけで。その伝道師も心理学的な説明は欠いてたから、かなりの人から変人扱いもされていたわけである。でも、僕も、例えば、40年前の首都圏の身障団体同士の大ゲンカとか、第二次世界大戦時の国家・民族レベルの戦争などから、仲間関係のおかしさを思わざるを得ない。特に、第二次世界大戦中は、参戦国は全て国家・民族で仲間意識が強くなった反面、例えば、日本人は中国人を「豚」と呼び、アメリカ人は日本人を「猿」と呼んだりもしたわけだから。戦争中は極端にしろ、平和な時でも仲間関係を作ると、仲間以外の人たちに無関心になったり、バカにしたりもするわけだし。また、何らかの障碍を持つ者は健全者たちの仲間には入りにくい面も当たり前みたいに多い。その事を僕に訴えてきた精神障碍を持つ友も複数いるし。

   一体、仲間とか仲間関係・意識は何なのか。その正体は我々はまだ知らないわけである。