トシコロのありのままの暮らし


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聴障を持つ彼への自分などの気持ちを掘り起こすと

2018-11-15 11:39:26 | 日記
  一連の続き。その人をKと表記する。


  出会った時は僕も「聞こえない事は、色々と不便があるのだろう。脳性まひや盲人とは違った面で、耳の聞えない人たちも大変だろう」と思ったものだと。その想いは、初めとしては当然ですね。本来ならば、そこから相手への理解、相互理解も生れていくものです。でも、その福祉会の話題はハンセン氏病や統合教育関係に集中し、手話は取り上げられず、関心を持つ者も非常に少なかったわけです。僕もすぐに聴障者問題への関心がなくなりました。そして、僕も一時は会のムードに浸った事もあり、会の話題とは関係のない聴障者問題を話すKを次第にわがままだと思うようになりました。同様の会員もかなりいたし、そのような影の発言もたくさん聞いたわけです。更に僕の気持ちがエスカレートして、Kをバカにするようにもなった。会の意向に反しているから。また、「わがままだ」と思う気持ちも、バカにする事に通じますし。又は、かなりの会員は無関心。何もKに対してだけでもなく、会員個人個人に対して無関心が目立ったわけですが。個人と個人の関係ができないと相互理解もストップし、そこに集団心理に流される事が重なると、毛色が異なる人をバカにするようにもなるわけです。更に、個人と個人の関係が出来なければ、男女交際もできない。その悔しさを、毛色の異なる事をバカにしてウサを晴らそうとする深層心理も当時の僕などに働いていたと思われます。(Kは早くに会を止め、同郷の人から聞いた話、「皆に余り良い思い出は持っていない。付き合いたくない」そうらしい。無関心にされた事がそのような事にもなったと。個人と個人の関係ができないと、そうなるわけですね)。

   以上の事は、今のヘイストスピーチなどにも通じる事ですね。ネット関係でも、集団心理は作られ、非恋愛などのウサを毛色の違う人たちをバカにして晴らす面もあるわけだから。又、「無関心」も個人と個人の関係ができないと、どうしてもそうなってしまうわけです。因みに、底辺にそのような問題がある事は、当時の会の役員たちは知らず、単なる聴障者への無知とか、両者の協調の不足みたいに思っていたようですが、実際は恐ろしい面がありました。

   仲間関係を作るとどうしてもメンバーは集団心理に流されて、毛色の違う人たちや外部の人たちを差別してしまう。当時、僕も同時に入っていた身障会でもそのような事がありましたし、かなりの当時の東京の身障会はそれで会同士がケンカしたり、内紛も起きています。

   更には、実録小説で書いているシマハタ=S園の件にも通じるのではないかと思っています。最初は志が強かった職員や医者たちですが、次第に歪んでいき、僕が行った時には園生虐待や子供扱いが色濃く起きていた。以上を掘り起こす事で、仲間意識・集団心理の恐ろしさも見えて、よりよく実録小説が書けるのではないかと。関係ある気がします。

   集団心理に流されての恐ろしさは、特に諸々の戦争になると明らか。日本も、日清・日露・第二次世界大戦とそうでしたし、2001年以降のアメリカもそうでした。「敵を殺せ」と叫ぶ・心の中で思う事は非常に恐ろしいわけです。内戦で国内に敵を作る場合も。以上の「バカにする」の心理は、非常に深めると「敵を殺せ」にも変化していくのでしょう。先日話した例の教派の件も問題にしろ、僕は深入りは避け、教派と毛色の違う人をバカにしなかったから、免罪になっているかもしれませんし、後ろめたさはありません。その代り、それに関する深い内容のものは書けませんが。でも、以上は自分もバカにしたわけだから、罪はあるし、後年も後ろめたく思うのも当然でしょう。それゆえに、「何故」を解明したかったわけです。そうしたら、根は深かった。聴障問題自体ではなかったわけです。(もっとも、以上の経験があるから、例の教派に行っても流れに流されなかったとも言える。若い時にそのような経験して、かえって良かったのかもしれない。経験しなければ、僕も例の教派で恐ろしいことしたとも考えられるし)


  皆様も常に自分の心をしっかり持ち、その上で他人と個人と個人で付き合って下さい。付き合う全ての人の人格を非常に尊重して。これが大切ですね。
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聴障者関係の補足

2018-11-14 12:58:18 | 日記
  手の関係で手話ができない人も、聴障者とは双方にその気さえあれば、付き合えます。昔の僕も電動タイプライターは使えたから、手紙は書けるし。大きな文字ですが、ひらがなと簡単な漢字なら紙に書けます。あるいは、人を介して代筆してもらうとか。仮に、手が全く使えない人でも、付き合う方法はいくらでもあるわけです。


   以上を当時の僕と、その彼は怠っていたと言わざるを得ません。当時の僕はその会の仲間意識重視の流れに浸かっていたし、彼は「聴障者対健聴者」の図式でしか人を見れなかった。その場合、健聴者たちも一様に見えてきて、個性等は見えず、付き合いはできません。

  付き合えなかったのは双方に原因があったと今は気が付くわけです。
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「仲間意識」に因んで思う聴覚障碍者の問題

2018-11-14 11:43:50 | 日記
   前回の文に仲間意識の危うさを少し考察してみたが、以下は経験からの話です。


   70年代後半に僕も入っていた福祉会の一つも、仲間意識を尊重するものでした。でも、そこに一人、聴覚障碍を持つ男性が行ってきました。当然、話し言葉は通じないわけですから、手話が一番の意思疎通手段。僕は手が不自由な関係で手話はできないし、(それは実際にやってみないと覚えられないので)簡単な手話も覚えられなかったです。僕を別にしても、口に出して言わなくても、そのメンバーは彼を仲間と呼ぶ事に違和感を感じていました。「その事で、私も、他の人たちも悩んでいた」と手話のできるメンバーの一人から、後年お便りを頂いた事もあります。僕も彼を仲間だとは思えなかった。また、大事な事は、彼本人も会のメンバーを仲間とは思わなかった点です。会に来た目的は「聴障問題の悲惨さを伝えるため」。単に「聴障者対健聴者」の図式でしか、人を見ていないわけです。


  手話も一種の独立した言語。僕が外国人たちと付き合うはるか前から「言語が違うと、仲間関係は難しい」と思ったのも以上の経験によるものです。今の僕は以上の経験から聴覚障碍者問題にも目が向き、TVで放送されるその種の放送も興味深く見ていますが、今も彼ら同士の世界を作っている感じです。彼らと付き合うとしたら、隣人愛方式、つまり、そのひと個人に対して、自分を大切にするように相手も尊重して、個人と個人で付き合うしかないと。昔の僕も、その事に気が付かなかったから、以上の人と付き合えなかったわけです。また、大事な事として、聴覚障碍者も個性・考え方・好きな事などが一人一人違いますが、それも個人と個人で付き合わないと判らないと思います。

  更に言えば、聴覚障碍を持つ人たちも、それゆえに意思疎通の問題が目立つだけで、問題の本質は他の人たちと変わらないと思います。個性とか考え方みたいな事は、個人付き合いしないと見えてこないでしょうし。もう一つ言うと、手話で繋がれている聴障者間の仲間関係も何なのかと。そこにも危ういものが潜んでいるわけですが。

   その会は彼が入った事もあり、仲間関係の危うさが早くに露呈されました。彼が入って来て良かったと僕も思っています。また、言葉は通じても、健全者と身障者や知的障碍者などが仲間になれるのか。難しいし、身障者同士の危うさは80年代の首都圏で多くの身障団体が団体同士ケンカしたり、内紛で潰れていった事を見ても明らかです。更には、仲間関係を人は望んでいるのか。望んでいるものは愛。それしか、僕は信じません。だから、聖書も廃れないし、恋愛とか友情が常に文学のテーマになるわけですね。
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全人類規模の仲間意識について、改めて考えてみる

2018-11-12 11:48:52 | 日記
  30年くらい前だろうか、当時の僕が関係していた某キリスト教派の若い駆け出しの一伝道師が手紙で、その教派が(在日系などの)マイノリティや東南アジア、中南米、アフリカの人達への差別意識が強い人ばかりや、第二次世界大戦の時に当時の日本政府の戦争政策に協力した歴史を嘆く内容の事を書いた後、「人間も皆神によって作られたわけだから、全人類規模の仲間意識を持たないといけない。神の下の仲間意識を。この教派の人達は、世間同様に「日本人としての仲間意識」しか持てないから、外国系の人たちをバカにするようになる。困ったものだ」と書かれてありました。その後、その教派から僕が離れた事もあり、その人とは縁が切れましたが、「全人類規模」の仲間意識とは何なのか、判らず、心に残ったわけです。一方では、多磨全生園で知り合った無教会派の別の伝道師は「仲間意識ほど、あてにならないものはない。個人と個人で付き合い、人は愛し合わないとダメだ」とも教えられていた。この2つは矛盾もしているようです。思い出し、特にキリスト教の基礎を築いたパウロが仲間意識について、どのように語っているのか、新約聖書のパウロ書全部と、マタイ、ルカ書を全部読み、イエスやパウロのその件について調べました。(「ルカ書」を選んだのは、ルカは医者で、最もイエスの言動を客観的に伝えていると聞いた事があるからです)。


   パウロ関係ですが、「仲間」という文字は2つしか出てきません。内、一つは(教会内の)仲間争いという言葉です。「兄弟」という言葉は無数に出てきますが、仲間意識や仲間関係という言葉は全く出てきません。文脈の流れから言っても、そのような言葉が入り込む余地はありません。イエスの場合も、仲間という言葉は便宜上出てきますが、敵対する派の事を指す言葉だったり。イエスの強調した言葉は有名な「隣人愛」です。それは敵も愛する強烈な愛。

   無教会の人達の中には、「パウロの兄弟愛尊重は内向きで、イエスの隣人愛から後退している。世俗的な仲間意識と変わりがない」と言って批判されている方もいるようです。僕が拝察した限りでも、内向きになっている面は否めませんが、「兄弟」も人間の上に明確に神を置いた関係・愛であり、仲間関係や意識とは大きく違っているわけです。そこから、仲間関係・意識は人間中心の観念である事に僕は気が付きました。やはり、浄土真宗の「御同胞」が阿弥陀仏を上に置いたものであり、仲間関係・意識とは根本的に違うように。例の若い伝道師の発想は聖書から逸脱したものだと言わざるを得ません。その発想も、その教派の明治以来伝えられた発想の上に成り立っていてる。明治の日本人は国際交流の経験がまだなく、聖書もかなり日本流に解釈されたわけです。「兄弟」や「隣人」と、日本語の仲間の区別も付かなかった事は容易に想像できます。又、愛と仲間意識の混同とか。そして、兄弟や隣人の意味も日本的な仲間の意味を当てはめ、更には、愛の意味には仲間意識を当てはめ、それがずっと続いている。インターネットによれば、僕が去った後、その教派にはレイプというとんでもない事をした牧師が二人出て、特に最初の場合はその地区の牧師会が事実を隠ぺいまでしたそうです。いくら仲間でも悪い事は悪いとしなければならないのに、仲間だからと思い、かばう感じでの隠ぺい。非常に悪いし、仲間関係・意識は愛とは本当に大違いである事も判ります。

   視点を変えて科学的に見てみると、原始時代は人間としての仲間意識もあったようです。でも、人間の居住範囲が広がり、それにつれて、言葉も地域によって違ってくると、仲間意識も言葉ごとに分かれていき、言葉の違うグループには持てなくなった。更に、各地域に文化や生活習慣ができると、さらに地域ごとに通じなくなった。「あのグループは魚ばかり食べて気持ちが悪い人たちだ」みたいな差別意識の原型みたいなものも生れていった。更には、グループの経済利害も複雑に絡み合い、戦争も生れていったらしいです。仲間意識の分裂は文化を作った人間としての宿命であり、同時にそれは元々希薄な気持にしか過ぎなかった事も判ります。「全人類規模の仲間意識」なるものを仮に作っても、何の役にも立たないと思います。

   その若い伝道師は某教派内の相次ぐ差別事件にいつも激怒していました。でも、仲間関係・意識の本質に気が付かず、自分も差別の種を撒いていたわけです。インターネットで検索したら、その人は2000年ごろ、何かの急病で天国に行きました。その教派はその後は更に衰退。仲間関係・意識中心の発想が強いとこうなるわけです。更には、それでは、個人と個人の関係ができないから、友情と恋愛はできないわけだし。それは僕が青春時代に多く目撃した首都圏の福祉会や身障会にも言えるわけです。特に、仲間関係と友情の混同が目立ち、個人の相互理解ができていないから、誤解からの大ゲンカが非常に目立ったわけです。僕の考え方としても、「仲間関係・意識は、差別と裏切りの始まり」だと思っています。そうではなく、愛が大切だと。
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「学校教育」の追伸

2018-11-10 13:11:32 | 日記
   現在は多種類の障碍児が公立校や私立校で健全児と一緒に学んでいるが、それを通して仲間関係ができた話は聞かない。相変わらず、子供たちは「自分の話したい事を話し、やりたい事をしている」訳である。障碍児に仲間関係を作る魔力などはなかったし、また、それで良かったとも思う。確かに、諸々の障碍の件は極めて大事で個々に合わせて検討されないといけないが、かと言って、障碍児も、健全児も子供。基本的な違いはないわけである。


   78年に僕が見た子供会と盲学校の交流は、当時から見ての未来の統合教育の姿だったと思う。ものすごいものを僕は見たものであった。見て良かった。
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