トシコロのありのままの暮らし


  世田谷カフェとの交信の必要性で、登録しました。それ以外の皆さんもよろしくお願いします。

子供向け随筆

2020-01-30 11:07:31 | 日記
 佐久のみなさんへ.         ❄

 一月の末です。今年はあたたかいとは言え、そちらも雪がふり、さむいでしょう。東京もさむい日もあります。
 雪がふる地方の子供たちは、昔から雪だるまやかまくらを作って遊びましたね。東京の子は、江戸と呼ばれていた時から、たこあげをしていました。東京のばあい、冬は晴れますが、北西から強く風が吹くことが多いから、タコ上げがしやすいわけです。ぼくもタコのことは子供の時から知っていましたが、歩けないため、したことがありませんでした。大人になり、一回だけ、タコ上げをしました。
 まずは、東京の地図を見て下さい。その北部に板橋区(いたばしく)があり、その中の高島平(たかしまだいら)という所に大きな団地がありますが、そこによく行き、子供たちと遊びました。子供たちは絵もかき、タコをたくさん作りました。一月になり、晴れて、北西の風が強い日、車いすを学生さんに押してもらい、タコの一つを持ち、たこ揚げ。団地の広場は広く、タコが高く上がりました。白い色のタコが青い空にくっきりと浮かんでいた。そのようすは、まるで絵みたいできれいでした。今もはっきり覚えています。ぼくは感動したし、車いすを押してくれていた学生さんも非常に楽しそうでした。それを見ていた子供たちも、そのすがたをよろこんでいました。「あがったね」と言った女の子もいたわけです。
 その後はタコを上げたことはないですが、それだからこそ、ぼくの心にふかく思い出としてのこっているわけですね。
 タコ上げは、江戸時代に作られた落語にも出ています。それを聞いても、以上の事を思い出します。タコ上げができて、良かったと思います。


子供向け科学の文・マンモス象

2020-01-28 11:31:48 | 日記
 マンモス象               🐘

 今は冬。寒いですね。日本の北の国のロシアに行くと、もっと寒いです。はく息が凍って、音がするそうです。どんな音でしょうね。聞いてみたいです。でも、寒い所にはぼくも行きたくありません。
 そのロシアの冬も、今よりももっと寒い時期もあり、ものすごく長く続いたそうです。「氷河期(ひょうがき)」ですね。その時は今の動物とちがった動物もかなりいました。その一つのマンモス象(ぞう)についてお話しします。
 マンモスは400万年前から出て、1万年前までいたとインターネットに書いてありました。そのころの地球はさむく、ほかの象は寒さに弱いですが、毛がたくさん生えているマンモスは寒さにも平気で、冬でも枯れない葉を持つ所に多く進出し、子供をたくさん産み、栄えました。大体、象は頭が良いため、仲間でものすごく助け合い、子供を大事に育てますが、マンモスもそうだったようです。冬は一面の雪の野原にたくさんのマンモスがいて、あたりに多くあるスギやヒノキの木の葉を好きなだけ食べていたすがたを思い浮かべて下さい。一方では、サーベルタイガーという、今のライオンやトラよりも強い動物におそわれて、食べられる事もありました。
 マンモスがいたころは、我々のご先祖である人間も出てきた時でした。人間は頭が良いですから、動物たちの恐がる火をさかんに使い、また、ヤリなどを作り、自分よりも大きな動物や強い動物も殺して、肉を食べました。肉を焼くとおいしい事もわかり、そうしました。又、毛皮も身にまとうと暖かくなる事もわかり、そうしました。しだいにマンモスを殺していき、マンモスはヘリました。そうしている内に、いつの間にか、気候も暖かくなり、さむい所に生えていた木も少なくなりました。今から一万年ほど前にマンモスはほろびましたが、その原因ははっきりとはまだわかっていません。みなさんはなぜマンモスがほろびたと思いますか。理由を一人一人で考えてみるのも、科学の楽しさですね。
 このへんで終わります。読んでくれて、ありがとう!



一面的な話ばかりする人とは付き合えない

2020-01-22 09:36:52 | 日記
昔からそのような話をよく聞く。例えば、1984年、キリスト教関係の場で出会った札幌イチゴ会(身障会)のサポーターをされている一男子学生もそのように言い出し、「身障者の中には、障碍者問題ばかり話す人がいるが、そのような人とは付き合えない。返答にも苦労する。障碍者問題が大変なのは判るが、人間はそれだけでもないし。もっと多様で、面白いやりとりができないものか」と愚痴に近い事を述べていたのが、心に今も残っている。その通りかもしれない。


  僕が付き合った3人の島田療育園の園生たちだが、内、二人は実に多様な話をしてくれた。その一人は、言うまでもなく、寝たきりの文士の野口栄一君である。後年、島田から卒業みたいになった後も、二人とは僕は文通した。でも、後の一人は、島田の悲しい面ばかり怒りながら話していた。気持ちはよく判るが、やはり、話が一面的で、返答に僕も苦しんだ。後年はその人は住所を僕に知らせなかったが、その後も一面的な話ばかりしていたのでは、文通はできなかっただろう。全生園にいた元患者の伊藤まつさんは、多様で面白い話ばかりして、楽しく付き合えた。地方に住む、別の元患者。最初は色々な話をしてくれたが、次第にハンセン氏病差別。それも「国による隔離」の事ばかり話すようになった。新聞などを読めば書いてある事ばかりである。やはり、気持は判るが、僕は返答が次第にできなくなり、縁も切れていったわけである。今思うと、その人の話は弁護士などに言うべき事である。法律を専門的に学んでいない僕には返答ができなかったのも仕方ないわけである。

  さて、一面的な話ばかりする人とは付き合いにくいにしろ、そのような苦言を述べている人たちもどうだろうか。そのような人たちも、実際は同じである事が多く、皮肉にも感じている。具体的な例は挙げないが、他人の事を棚に上げて、自分の事は顧みない事もおかしいと思う。

  また、僕が所属した身障会や福祉会、教会関係では、それぞれ話題が一面的に偏る事が多かった。その影響で、次第に一面的な話ばかりするようになり、付き合いが下手になっていった人たちも僕は多く見てきたわけである。

  それから、よく聞く事だが、結婚志向の強い独身者たちは、結婚の話ばかりする人たちも多いそうである。そのような男女が付き合っても、相互理解はできないと思われる。双方の結婚志向の強さから、結婚できても、続くとは到底思われない。時間はかかっても良いから、双方の多様な面を見せ合い、受け止め合う必要がありそうだ。多様な面の結合こそ、結婚なのだから。

  人間は実に多様な面を持っている。無限に多様とも言える。僕も個人的付き合いでは、歌の話など、多様な話をする事に努めている。僕自身もその方が楽しいし、相手も楽しいわけである。多様な話をしようではないか。

諸々の差別の根は、「死」を忌み嫌う意識か?

2020-01-13 10:26:00 | 日記
1982年、元学生ボランティアの一友人の結婚式。脳性まひを持つ僕と、もう一人の脳性まひを持つ主婦も招待された。でも、その一友人の親戚の誰かが「身障者は挙式に来てもらっては困る」と言い出し、結局は押し切られ、行けなかった事があった。当然ながら、僕は何故排除されなければならなかったのか、理由を求め続けた。理由の大きなヒントは、その5年後くらいに聞いた放送大学の文化人類学系の複数の講義で得られた。祖父江孝雄・熊倉功の各教授が「ハレとケ」の説明をされていたから。「ハレ」は「晴れ」に語源を持つ言葉で、特に結婚式が庶民では代表的な例。「ケ」は「穢れ・汚れ」に語源を持つ言葉で、その極が死だとされていて、「ハレの席では、死を連想させる物は持ち込んではならず、言ってもならない。そのような事を連想させる人たちも来させてはならい」。...。


  確かに、健全者と言おうか、世間から見れば、脳性まひ者たちも健康な人たちに比べて「死」に近い存在である。そこから死を連想・見つめる人たちも健全者には非常に多いわけだ。ならば、僕などが排除された原因も、そのような事になってくる。特に、挙式の場だから、露骨な差別が起きたが、実際は日常的に起きている事である。身障関係の差別も実はその種類により、強さに強弱があるが、死を連想させる障碍ほど、強く差別されている。手足が動かないだけの状態のポリオ後遺症者よりも、手足の硬直や顔の歪みのある脳性まひ者が差別は強く、また、脳性まひ者よりも、死人や死に神を連想させられるハンセン氏病元患者たちへの差別が強く、長年に渡り、隔離もされてきた。実際、元患者の姿を見て、自分の死も連想し、非常に落ち込んだ人の例も知っている。もっとひどい例は筋ジストロフィーかもしれない。胎児段階でその障碍を持っていると判ると、中絶する例が非常に多い。「短命のかわいそうな子を産むのは忍びない」という理由が多いわけだが、本当に可哀そうか、どうかは本人でないと判らない事である。また、発作の時、全身が死体のように硬直する例もあるテンカン持ちとか。僕もそのような人の硬直の姿を見て、死を連想し、恐ろしくなった事がある。例のX君ですね。また、「精神障碍者は精神が死んでいる」と思われているのか、そのような人たちへの差別も強い。複雑な事に、身障者たちもそのような意識を持っているようだ。僕の見聞きした範囲内でも、脳性まひやポリオ後遺症の人たちは「筋ジストロフィーの人達は短命でかわいそう」という同情の意識がある例が多いから。昔の僕もそうだった。その同情とは何かというと、「優しさと差別感情の入り混じったもの」である。同情の中には差別感情も入り混じっているわけである。でも、そのような人たちは、限られた時間内でやりたい事をやり、人生を燃焼させ、逆に幸福な例も多い。たまたま僕の一番気が合う同級生のコーイチ君がそうで、書けない僕の代筆をしてくれたり、掛け合い漫才やチェス・チェッカーもして楽しくやった思い出もある。その話は別の時に述べたいが、死ぬ直前まで文通した関係もあり、述べさせていただくと、決して、自分の事を不幸だとは言っていなかった。多くの人たちに感謝するなど、人生に対して肯定的で、僕も多くを学んだし、今もコーイチ君から学び続けているのである。

  障碍者関係外でも。死体処理業など、死に関係する職業を先祖代々強いられてきた人たちはどこの国でも差別されている。また、例えば、日本社会から見て異界に当たるアイヌ・琉球・朝鮮半島系の人たちへの差別とか、やはり、ドイツ社会から見て異界に当たるユダヤ系やロシア人への差別が強いが、異界も死の世界、つまり、死を連想させるからの面も強いと思う。このような差別はどの国も昔からあるわけである。

  よく聞く、身障者が恋愛や結婚の対象から除外される根本理由も以上ではないか。しかも、無意識的に除外される例が非常に多い。確かに、死を連想させる者を相手にキスしたり、一緒に暮らす事は想像しただけでも恐怖心を感じるだろうし。深層心理の次元の問題だから、差別する側も理由は判らないし、恐らくは身障者のほとんども理由が見えないわけである。挙式差別の事も同様である。身障の俳人の故花田春兆氏など、かなりの身障関係の著書やミニコミにも、身障者の挙式拒否の例がたくさん載っている。島田も報じた身障ミニコミ誌も。但し、その理由については、述べられていないか、「封建制・イエ制度」みたいな抽象的な述べ方に留まり、訳が判らない書き方になっている。

  さて、その対応策は、「誰もが死ぬ」事を当たり前のよう意識し、目もそむけず、市民同士が語り合っていくしかないだろう。死後生を認める人も、認めない人も。

  そう言えば、「資本論」には、資本家が労働者を搾取しつつも、儲ける当時の事実が述べられている。但し、その理由にはマルクスは突っ込んでいない。そうした理由は、資本家たちが不死を目指したからだと思う。死の実感は高齢にならないと湧かないわけだし、特に当時は社会保障もなく、お金がなければ、死を意味したわけだから。マルクスは多忙で、そこまで突っ込んで書く事は出来なかったと思われる。かなり前だが、朝日新聞に和光大学の一教授が「資本主義は死から逃れる目的のもの」と指摘した記事を読んだのも覚えている。死を見つめ合う社会では、資本主義も大きく変わるかもしれない。経済にも関係するわけである。(冒頭に書いた元ボランティアや身障女性の反応については、書きません。書かなくても文は成立するし、プライバシーもあり、書けないわけです)