とりがら時事放談『コラム新喜劇』

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サイゴンから来た妻と娘

2008年09月13日 13時41分08秒 | 書評
実のところ近藤紘一の著作に出会わなければ東南アジアへの関心の質も随分と違った形になっていただろうと思う。
とりわけベトナムへの興味の持ち方は全然違っていたの違いない。

ベトナムへはまだ一度しか訪問していない。
が、初めてホーチミンの空港を降りたってサイゴンの街をタクシーで走り抜けた時に感じた直感的な印象は他の東南アジア各国を最初に訪れた時の中でも最も爽やかで新鮮なものだった。

タイのバンコクやシンガポールは空港から市内への景色が日本とあまり変わらず驚きはすくない。
辛うじて南国独特の背の高い木々や、バンコクであれば黄金色に輝く仏教寺院の尖塔が目に付くことが日本と異なる部分だろうか。
また、初めてのミャンマーを訪れた時は夜だったので景色はほどんど見えなかった。
そういう意味では日が沈みきらない夕暮れのサイゴンの街並みは活気に溢れ、タクシーの窓から流れ込んでくる涼やかな風は、どことなく懐かしさを含んだ心地よさを私に感じさせてくれたのだ。

そしてまた、そう感じたことは近藤紘一の一連の著作で受けたていたベトナム・サイゴンのイメージと現実のベトナムと重なり合っていたからかもわからない。

初めて読んだ近藤紘一の著作は「サイゴンのいちばん長い日」というエッセイだった。

私が小学生の頃、テレビのニュースは連日ベトナム戦争について報道を繰り返していた。
頻繁に登場するニクソン大統領や、ソビエトの映像。
ヒッピーや全学連などの「大学生のおにいいちゃん、おねえちゃん」たち分けのわからない人たちの映像が盛んに流されていたように記憶する。
今では明らかに「文明の衝突」だったと認識できるあのベトナム戦争の生々しい「空気」を、イデオロギーではなく、人びとの生活を通して、大人になった私に教えてくれたのが「サイゴンのいちばん長い日」だった。

その生活臭溢れる、まさか新聞記者が書いたとは思えないエッセイは新聞記事や歴史書や、まして旅行作家が書き連ねたベトナム本とは一線を画していた。
やがと「サイゴンから来た妻と娘」に始まる一連のエッセイで、私のこの国に対する「戦争」「共産主義」「難民」などといったイメージが根底から書き換えていたのだ。

ここのところ仕事やプライベートなことで忙しく旅に出ることができなくている。
たったの一度しか訪れたことはないけれど、あのサイゴンの風を感じてみたくなって「サイゴンから来た妻と娘」を再読してみた。
ベトナムを感じてみたくて、
活気に満ちたあの空気を感じてみたくて、
そして著者の家族に対する愛情に触れてみたくて、再読した。

偶然にも私は著者の娘と同い年である。
彼女が、そして著者の妻であった人たちが今何をして、そしてすでに世を去って20年になる夫であり父である著者に今何を感じているのか。
とっても知りたくなるのだった。

~「サイゴンから来た妻と娘」近藤紘一著 文春文庫~