18日(月・祝)。N響2022ー2023シーズンの年間定期会員「Bプログラム・2日目」を申し込みました すでにAプロの年間チケットは手元に届いているので、追加申し込みです 実は定期会員先行発売日が14日から17日までとなっていたのに、何をとち狂ったか、手帳に「17日先行発売」と記入していたので手配が大幅に出遅れてしまいました 最近この手のミスが多発していて困っています Bプロは水・木の公演ですが、案の定どちらもS席、A席とも条件の良い席は売り切れていて、かろうじて1階センターブロック後方の通路に近い席を押さえました 他のオケだったらA席ですが、N響は強気でS席にしています Bプロは協奏曲が中心なので出来るだけステージに近い席の方が良いのですが、1階は前方の左右外側の席しか空いていないので諦めました 取りあえず、押さえた席で1年間聴いて、その先どうするか判断したいと思います 今日から一般発売日ですが、ほとんど良い席は残っていないと思います
ということで、わが家に来てから今日で2745日目を迎え、アメリカで去年1月に起きた議事堂占拠事件を巡り、議事堂に侵入したトランプ前大統領の支持者がトランプ氏の演説やツイートに従って動いていたと証言した というニュースを見て感想を述べるモコタロです
どんどん真実が明らかになっていくが 保身第一の共和党議員はまだ目を覚まさない
ここだけの話ですが、実は 娘が数か月前から「ゴールデンカムイ」に凝っていて、家の中にもキャラクターグッズがはびこっています 例えばリビングの壁はこんな具合です
ダイニング・テーブルの上はこんな感じです
本当は”趣味”を目に見えるところで披露してほしくないのですが、こちらにも下の写真のような弱みがあるので文句のつけようがないのです
そんな折、娘が注文しておいた「サッポロCLASSIC ゴールデンカムイ 杉元・白石デザイン缶」(350ml ✕ 6缶パック)と「同 ゴールデンカムイ 鶴見・土方・尾形デザイン缶」(500ml ✕ 6缶パック)が届きました 「サッポロCLASSIC」は私がさんざんあちこちの店で探し回って手に入れる前に、娘が「ゴールデンカムイ」のキャラクターグッズの一つとして注文しておいたものです
そんなわけで、ますます「壁にゴールデンカムイのキャラクターグッズをあちこちに飾るな」とクレームが付けられなくなってしまいました しかし、親子そろってサッポロCLASSICが大好きなので、「ゴールデンカムイ」のクレジットが付いていようがいまいが飲めればいいや、と思っています もちろん、昨日の夕食のお供もサッポロCLASSICでした 念のために付け加えておきますが、toraブログはアフィリエイトを採用していないのでサッポロビールから1円も広告料をもらっていません 一人の CLASSIC ファンに過ぎません
養老孟司・隈研吾「日本人はどう死ぬべきか?」(新潮文庫)を読み終わりました 養老孟司は1937年鎌倉生まれ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。1989年「からだの見方」でサントリー学芸賞受賞 新潮新書「バカの壁」は空前のヒットとなり2003年のベストセラー第1位となる 著者多数。一方、隈研吾は1954年横浜生まれ。建築家。1979年東京大学大学院建築学科修了。コロンビア大学客員研究員、慶應義塾大学教授を経て、2009年から東京大学教授。主な作品は「サントリー美術館」、「根津美術館」、「歌舞伎座」(5代目)、国立競技場(オリンピックスタジアム)をはじめ国内外に多数
本書は「知の巨人」二人がそれぞれの死生観を語った章と、二人が死について縦横無尽に語り合った対談による章とで構成されています
第1章「自分は死んでも困らない」~ 養老孟司氏の死生観
第2章「年を取った男はさすらうべきだ」~ 対談
第3章「『方丈記』から考える」~ 対談
第4章「時間を超越する歌舞伎座」~ 対談
第5章「日本人とキリスト教的死生観」~ 対談
第6章「人が死んだ後も残る『舞台』が都市に必要だ」~ 隈研吾氏の死生観
第7章「これからの日本人の死生観」~ 対談
第1章で養老氏は、「10年以上前に自分の葬式を済ませている。ということで、僕はもう死んでいるので、死について何も心配はいりません」と述べています。さらに「自分が死ぬことに関してあれこれ考えるのは『意味がない』と決めてしまっています。もし、それが問題ならば『生き残ったやつが考えればいいだろう、俺の知ったことじゃないよ』というのが、基本にして不動のスタンスです」と述べています。そして、「死は眠りと同じで、僕たちは毎日寝ている、だとしたら、それ以上考えても無駄」としたうえで、「最近は『終活ノート』といったものが流行っていますが、ばかなことはおやめなさいと言いたい。宗教学者の島田裕巳さんもおっしゃっていますが、終活は無意味な運動です」と断定しています
さらに、養老氏は「僕は死を『一人称』『二人称』『三人称』に分けて考えています 一人称は自分の死、二人称は家族を含めた知り合いの死、三人称は赤の他人の死を指します。『一人称の死』を考えたり、恐れたりしようとしても、その主体である自分は死んでいるのだから、そもそも、そんなことはできません 『三人称の死』は今この瞬間、世界中で大勢の人々がご臨終を迎えていますが、自分はそれらにいちいち心を動かされたりしない 人にとって『死ぬこと』が意味を持ったり、問題になったりするのは、『二人称の死』以外にありません ですから、死を考えるという行為は『二人称の死を考える』ということにほかなりません。死に関して一番難しい問題は、そういった『二人称の死』をどう乗り越えたらいいのか、ということになります」と述べています
第2章の対談で興味深かったのは「墓」の話です 養老氏は次のように語っています
「だいたい本来の仏教では墓というものはないですからね。上座部仏教、つまり日本で言うところの小乗仏教の国のラオスにしろ、チベット仏教の流れを汲むブータンにしろ、墓がないです」
これに対し、隈氏は次のように語っています
「カイロの墓地って人間がそのまま住める家が並んでいるんです。死人がそのままそこに住めるようにということで、墓が家そのものなんです もちろんお金がある人だけの墓地ですが、家がば~っと並んでいる光景は、墓地というよりは住宅地です」
国によって死生観が違うことが良く分かるエピソードです
第4章「時間を超越する歌舞伎座」の対談を読んで興味深かったのは、隈氏の紹介している次のエピソードです
「初代の歌舞伎座はパリのオペラ座がモデルなので、ある角度から見ると屋根の形状が驚くほど似ていて、『日本のオペラ座を東京に作ろう』という意識が明確に伝わってくる設計です そういった福地桜痴一流の感覚があったから、歌舞伎座は今、ほかの伝統演劇と比べてまったく違うポジションにあるわけです そういう構想力が建築というメディアを利用しきった時に、どんなことが起こるかということを、先代までの歌舞伎座の歴史を見ながら僕は再認識しました」
福地桜痴というのは明治時代に大蔵官僚を経て「東京日日新聞」(毎日新聞の前身)の主筆・社長を務めた文化人です 大学の「日本新聞史」の授業で習いました
第7章「これからの日本人の死生観」の対談では、これからの日本人の進むべき道が示されています
隈:新型コロナ終息後には、自然に向かった爆発が起こると思うんです 前回の爆発によって作られた高層都市に、僕たち人間は閉じ込められ、そして追い詰められていたんだということが、今回のコロナで顕在化しました
養老:都市の持っている力に対抗するには、やはり参勤交代によって、自然の多い場所で一定期間過ごすことが重要だと思います
隈:その通りです。都市から地方に出ていき、もっと自然と触れ合った生活を送る そのために、うちの事務所も参勤交代を始めましたし、コロナをきっかけに地方移住に踏み切ったという話もたくさん聞きます
養老:コロナが終息した後は、巨大都市で人間相手に仕事をするより、地方で物や自然を相手にする仕事が再評価されていくと思いますよ
二人の考えには総論賛成ですが個人的には同調できません 本書のタイトル「日本人はどう死ぬべきか?」を「日本人はどう生きるべきか?」に読み替えて考えたいと思います 私は3つの目標(①クラシックコンサート鑑賞、②映画鑑賞、③読書)を掲げ、それぞれについて前年実績をクリアすべく毎日頑張っていますが、とくに①と②については、東京にいるからこそ目標が達成できる(=生き甲斐をもって生きることができる)と考えています 東京都内のコンサートホールや映画館の数とそこへのアクセスを考えれば地方に移転することは考えられません ただし、自分の足で歩いてどこにでも行ける健康があって初めて目標が達成できると思っています
本書は普段考えることのない「死」について、あらためて考えさせられる本です。お薦めします
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