7日(木)。5日の朝刊各紙に、長野県松本市で毎夏開かれている国際音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」の実行委員会が、来年から音楽祭の名称を「セイジ・オザワ松本フェスティバル」に改めると発表したというニュースが載りました 改称の理由は、小澤氏は総監督としての実績があるので同氏を称えたいとするもので、齊藤秀雄氏が没後40年、小澤征爾氏が来年満80歳を迎えることがきっかけとなったとのことです
「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」には世紀の変わり目の2000年前後に数回聴きに行きました 元の職場のA君の運転する車で午前に東京を発ち、午後に現地に着いて、夕食を取ってからコンサートやオペラを聴いて、深夜に東京に戻るという強行軍でした
一番印象に残っているのは1999年のベルリオーズの劇的物語「ファウストの劫罰」です なぜ印象に残ったかと言えば、ルパージュの演出が斬新だったからです。役者がロープに逆さ吊りになるアクロバティックな演出でした その斬新さは、昨年の米メトロポリタン歌劇場で上演されたワーグナーの一連の楽劇の演出に繋がっています
閑話休題
村上春樹著「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(新潮文庫)を読み終わりました 小澤征爾と村上春樹を知らない人はいないでしょう。二人に共通するのは日本だけでなく世界で認められているアーティストだということです
この本のタイトルは「小澤征爾さんと、音楽について話をする」となっていることから分かるように、小説家の村上春樹が小説という”ホーム”を離れて”アウェイ”の音楽の分野で、その道で世界を極めた小澤征爾と対談するという形を取っています しかし、読んでいて分かってくるのは、小説家である村上春樹が相当のクラシック音楽通であり、世界のオザワもびっくりするような知識と感性を持ち合わせており、鋭いツッコミで小澤を窮地に追い込んでいるということです
私はこの種の本を読むときは、気になった箇所があるページのミミを折る習慣がありますが、読み終わってからミミを数えてみたら25か所もありました
467ページに及ぶこの本は、第1回「ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番をめぐって」、第2回「カーネギー・ホールのブラームス」、第3回「1960年代に起こったこと」、第4回「グスタフ・マーラーの音楽をめぐって」、第5回「オペラは楽しい」、第6回「決まった教え方があるわけじゃありません。その場その場で考えながらやっているんです」、「あとがきです(小澤征爾)」から成っています
ミミを折った25か所のすべてをここに書くわけにはいかないので、ミミを折った個所が一番多かった第4回「グスタフ・マーラーの音楽をめぐって」について、いくつかご紹介することにします
まず最初に、マーラーの音楽の「ごった煮的な特徴」について
村上:いつもマーラーの長いシンフォニーを聴いていて思うのは、ベートーヴェンやブラームスとかは、どういう構造になっているか大体分かるから、順番をつけて流れを覚えることはそんなに難しくないかもしれない でも、マーラーみたいなかなりややこしい成りたちの音楽を、指揮者というのはすっと頭に収めることができるんですか?
小澤:マーラーの場合はね、覚えるというよりは、その中に浸り込むことが大事なんです それができないと、マーラーはできない。覚えることはね、そんなに大変じゃない。でも覚えた上でちゃんと入り込めるかどうか、それは難しいところですね
村上:僕は順番がよくつかめないことが多いです。たとえば2番の第5楽章なんて、あっちいったり、こっちいったりというか、なんでここでこうなるんだろうと、途中で頭がぐしゃぐしゃしてきちゃうんですが
小澤:あれ、まったく理屈がないからね
村上:そうなんです。モーツアルトとかベートーヴェンとかだと、そんなことはないんですが
小澤:そこにはちゃんとフォームがあるから。でもね、マーラーの場合、そのフォームを崩すことに意味があったんでしょうね、意識的に
次に「暗譜」でマーラーを演奏することについて
村上:総体としてそのまま受け入れるとなると、たとえばモーツアルトみたいな比較的流れを追いやすい音楽でも、マーラーみたいにややこしく錯綜した音楽でも、覚えることに関してはそんなに大きな違いはないわけですか?
小澤:まあそうですね。もちろん覚えることが究極の目的ではなくて、理解することが目的になりますが、理解し終えると、自分なりの満足があります 指揮者にとっては理解力が大事なのであって、記憶力なんかはとくにどうでもいい。楽譜を見ながら指揮すればいいわけだから
村上:指揮者にとって暗譜というのは、ひとつの結果に過ぎない。そんなに大事なことじゃない
小澤:大事なことじゃないです。暗譜するから偉いとか、暗譜しないから駄目だとか、そんなことはまったくない。ただ暗譜してていいことは、演奏者とアイコンタクトがとれることですね。とくにオペラの場合なんか、歌手を見ながら指揮して、目と目で了解がとれる
次に「指揮者によって演奏が違うこと」について
村上:できることにせよ、できないことにせよ、それだけ細かい指示が楽譜に書きこまれて残っていて、選択の余地がほとんどないとすれば、マーラーの演奏が指揮者によって変わってくるというのは、いったいどういう要因で変わってくるんでしょう?
小澤:(時間をかけて深く考え込む)うーん、それは面白い質問だな。面白いっていうのは、そういう風に考えたことが今までなかったってことです。ブルックナーとかベートーヴェンの音楽に比べたら、マーラーの場合はインフォメーションがずい分多いから、当然ながら選択の余地が少なくなっているはずなんですよ。ところが、実際はそうならないんです
村上:それは僕にもよく分かります。いろんな指揮者、それぞれの演奏で音そのものが違っているのが、聴いていて分かるから
小澤:そういう質問をされると、オレなんかずい分考え込んじゃうんだけど、要するにね、インフォメーションが多い分、扱い方で悩むんです。それらのインフォメーションのバランスをどのようにとっていくかということで
村上:つまり、同時進行的に、こちらの楽器とあちらの楽器に対して細かい指示が与えられている、というような場合ですね?
小澤:そうそう、そういう場合にどっちを優先させるか・・・・といっても、もちろんどっちも生かさなくちゃいけないんです。マーラーの場合とくに、どちらもしっかりと生かさなくちゃいけない しかし、現場に行って音を出してみて、両方は同時に生かし切れないと感じた場合、その按配をつけなくちゃならないんです だからね、マーラーくらい情報が多い作曲家はいないにもかかわらず、マーラーくらい指揮者によって音が変わってくる作曲家もいないんです
以上、3か所ほど気になったところを抜粋させていただきましたが、まだまだ面白い会話はたくさんあります。クラシック音楽好きにはたまらなく面白い本です。お薦めします