明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

組合は新しい運動の敷布団になれ!ー「人と人をつないでつないで京都府知事にチャレンジーかじかわ憲インタビュー3」  明日に向けて(2188)

2022年04月06日 10時10分00秒 | 明日に向けて(2101~2200)

守田です(20220406 10:10)

京都府知事選にチャレンジしているかじかわ憲さんインタビュー3回目です。


出馬表明を語るかじかわ憲さん 守田撮影

―組合は新しい運動の敷布団になれ!―

守田 
そうやって共闘関係を作る上でしんどかったことは?

かじかわ 
やっぱり、そういうのを個人格でやってたからね。教職員組合の中でも意義を知って欲しかったけれど、なかなか分からないものね。そこがもどかしかったかな。
でも共闘が大きくなって目に見えてきたときに「なるほどこのためやったんか」と分かってもらえましたけどね。

守田 
近しい日本共産党の方たちから何か言われたことはありますか?

かじかわ 
日本共産党の京都府委員会の方からは「馬の脚になれ」と言われましたね。「共闘を作った時に、労働組合は馬の脚になってみんなを支えろ」と。「何を言われようともみんなを神輿に乗せて運んでいけ」と。
なんだかそれが染みついてしまったんですよね。それで戦争法のときは、労働組合は「敷布団になれ」と言われたじゃないですか?

守田 
えええっ?敷布団?

かじかわ 
知らない?

守田 
それはちょっと・・・

かじかわ 
古くから運動をずっとやってきた人たちは、「労働組合は敷布団」だと。「ママの会など新しくやってきた人たちを敷布団の上に支えろ」と言われたこともけっこうありましたよ。

守田 
誰に言われたんですか?

かじかわ 
それは共産党とかそっちではないですよ。古くから運動をやってきたみなさんにそう言われたことがあって。

守田 
うーむ。それはなあ。ちょっと・・・

かじかわ 
確かにね。初めは組合員も覚悟ができてるんです。それならやろうと。でもだんだんと拗ねる人もでてきてねえ。

守田 
そりゃあ、拗ねるよなあ。

かじかわ 
「自分たちはいつまで経っても陽があたらないんですか」と言われたことあるしね。「縁の下の力持ちならずっと陽があたりませんね」と言われたこともあってね。
そんな思いをずっと胸に抱きながら、福ちゃん(福山和人さん)なんかとも一緒に共同をやって、それでどうしても地域にいくと新しく作られてくる共同に心が躍るわけです。
でもその一方で、気が付いたら「新日本婦人の会」とか、「京都建築労働組合」とか、長く頑張ってきた組織が、どこか「いろいろなことをやって当たり前」にされてもしまっている。それにはね。ものすごく悔しい思いも重ねてきましたね。


かじかわ、福山、守田で鼎談 本当によく息が合いました・・・。左京連絡会撮影のビデオから

守田 
よう分かりますわ。そんな思いをさせていたなんて申し訳ない・・・。

かじかわ 
それがふっきれたんが、この間のつなぐ京都の会議でね。「もはや労働組合の時代になった。表に出て」とみなさんに言ってもらえて、「候補への推挙が欲しい」と指さされた時に、「時代やな」と。
「こうやって下積みをしてきたら信頼を得られるんやな」と思って、深い思いに包まれてね。家に帰ってからほんまに嬉しくて酒を飲みまくりました。

守田 
そうですか!ああもう、みんなに伝えなくては。

かじかわ 
これだけの共同を作り、一緒にやって、だけれどもそれは下支えのものなんだよと思ってやってきて、ここまで来たなと思いましたね。

守田 
素晴らしい。ありがとうございます。

かじかわ 
それで大方腹をくくったのだけど、それを京都総評が「受け止めよう」と言ってくれた時に泣けたね。
長い話をしましたけど、そういう悔しい思いや、連合に泣く泣く行った仲間の思いも全部抱えて今回は立つと。そういう感じかな。

守田 
ああ、いいなあ。

―阪神大震災の時に感動して泣けた―

かじかわ 
本当に地殻変動だなと思ったのは、福島原発事故後の首相官邸前のデモですね。これは新しい何かが始まったとすごく実感できた。

それともう一つ、感動して泣けたのは、あ、実はようあっちこっちで感動して泣いてるんですけど、それは阪神大震災の時やった。
その時に尼崎にあった教職組合がまだ大丈夫、そこまでなら水を運べると聞いて、若いもんと一緒にヘルメットかぶってトラックをレンタルで借りだして、滋賀にいって、高教組で水やら毛布やらを集めて歩いて、尼崎を目指したんですよ。
それで途中の店に立ち寄ったら、「いかはるんやね」ということで、売れ残りのパンやら全部ほうりこんでくれて、満載のトラックで尼崎に着いたんです。
いまだに言ってくれるのは「あのときに一番にかけつけてくれたのはあなたたちだ」と言うことです。そんなことは考えもしなかったけれどね。

それで体育館の後ろからそっと入って荷物を渡して、帰ろうとするときに、路肩で車を止めて、そこで夜明かしをする子どもの姿を見たんです。
親父が返ってくるのを待って毛布を車の中に敷いてしわを伸ばしていた。「ああ、この子どもたちに何ができるのか」という思いで現場を後にした。
そうしたら全国からたくさんのトラック、共産党の小型の宣伝カーなんが2号線にずらっとならんで救援に駆けつけてくるのですよ。
それを見ながら空のトラックで帰りながら、子どもが毛布を伸ばしている姿と救援に駆けつけてくるトラックの姿が重なって「この国は捨てたもんやない、立ち直れる」と思ったね。泣けたね、あの時は。


みやこメッセの演説会の時に阪神大震災の時のことを思い出して涙するかじかわ憲さん 守田撮影

守田 
阪神大震災のとき、僕もとりあえず集められるだけのものを集めて現場に持っていきました。

かじかわ 
神戸ではその後も医労連のみなさんが、電線が垂れ下がっている中を班を作って医療訪問をしたんですよ。
京都新聞の労働組合が、神戸新聞と京都新聞をつないで、京都新聞が神戸新聞号外を印刷して、神戸で配られましたが、その号がいまもありますよ。
その後も何回も神戸に行きました。三宮の地下街で地震にあったし、西宮の小学校にもずっといました。
そのときに連合のゼンセン同盟のチームと一緒になったんです。向こうチームの代表と私が話をしたら、向こうが「京都教職員組合がずっと出している新聞を知っています」と。こちらが「ゼンセン同盟がこういうときのボランティアで優れていることを知ってます」と。「だったら夜回りは混合チームを作りましょう」ということになり、教職員組合がリーダーになり、ゼンセン同盟の若い人とコラボで班を作って夜回りをしました。そういう形で現場で共闘したんです。

守田 ここでもまた共同を作り上げている・・・


かじかわ憲さんと西村健太さんとでガッツポーズ 守田撮影


―かじかわ憲は災害に強い、五感から動いていく―

かじかわ 
その後からね、ボランティア三昧なんですよ。東北にも行きましたし、熊本もいきましたし、呉にも行きましたし。岡山の真備町にもいきました。救援が必要なところには行く。福知山の洪水のときは現地貼り付きでみんなを入れました。
そういう現場に行くと、「あの家からあのときあれを運びだしたなあ」とかの記憶が蘇ってきます。「阪神大震災のときは屋根裏からやっと仏壇をみんなで運び出したんやで」とか、とにかく災害の場では、悔し涙を流した人をぎょうさんみてきました。
「そこに行政の力がこう入らなあかん」とかなんぼでも思いましたね。僕らボランティアができることには限界があるんですよ。なんぼ頑張っても、ボランティアではね。あとは行政がやらなあかんって思ったもんね。
「災害に強い」というのはどういうことなのか、行政が何をしなければならないのか。ホンマに何度も現場で見てきたからね。これは一つの私の政策の大きな柱なんですよね。それをもっと言わなあかんな・・・。

守田 
それはすごい強みですよ。もっと宣伝しなくちゃ

かじかわ 
例えば福知山の水害のときに、町内会までずっと入ってね。うちの総評の若い部隊を連れていってね。「ここまで水が来ました」とかそんな話をしました。
いまでも現場にいったら「ここはよくこれだけ復興したなあ」と思うところがたくさんあります。家を一戸、みんなで洗ったりしたからね。

由良川沿いも全部入りました。教職員組合でどこまで車が入れるかみんな調査してくれて、どこの学校が水没、そこが助かっていると、夜遅くに電話をいれてくれた教職員組合の仲間もいました。
それでちょうど府教委と労使の交渉をやっていたのですが一時休戦。「こちらの情報を全部渡すから、そちらの情報も全部欲しい。それで学校再開を共にめざそう」という話をしました。
教育委員会が水没している状況も、全部うちの宣伝カーで調べに入って確認して、それで教育委員会が前線基地を綾部高校におくという連絡をいただいて、うちと連携したのです。

守田 
共同の相手が行政にまで広がっていったわけですね。僕も丹波篠山市で原子力災害対策検討委員会を行政の方たちと一緒にやってきたからその大切さが良く分かります。
しかも2019年の災害で東日本で71河川が決壊して300か所以上が氾濫して、そんなことがまたいつ西日本でも起こるかも知れない。今後ますます問われていますよね。

かじかわ 
そう。それでそうやって行政ともコラボしながら調査に入ると、その先で何が起こっているか、全部イメージできたね。
私は行政の仕事をやるときには五感が大事だと思うんですよ。災害が起こった時に、匂い、手触り、そういう皮膚感覚がとても大事で、それは現場にいかないと分からない。「あの泥がついたらとれないぞ」とか。匂いも染みつくんです。
ちょうど牧場が流されて、堆肥ごと由良川に入ってしまったので、車にもその匂いが染みついた。後で洗って匂いを落とすのが大変でした。
そういう経験から言えるのは、五感で行政が動くときは強い。数字でやったら弱いということです。土木事務所が現場になければならないのはそういうことです。

守田 
そうです。僕も人間の五感、六感も含めて、現場に立って得られるものはとても大きいと実感し続けています。現場にいかなくちゃなんです。

―京都子どもネットの立ち上げ―

かじかわ もう一つ、大事な共同を作ってます。子どもの貧困問題。「京都子どもネット」というのを作ってます。そのメンバーもいます。弁護士から児童相談所、教職員組合はもちろん、その運動をやってきた人たち。冊子も出しています。
そのときにグループ組んでやってきて、福島がああなったときに、そこのグループの人たちと調査に入ったんです。それで福島の人たちとも深くつながっています。

守田 
調査はどんなことを?

かじかわ 
災害が起こった時に子どもの中に起こる状況、それで公の役割、学童や児相の役割を検証してみいへんかということで、報告書作って持って行ったときに、ちょうど6年経ってたんです。
震災のときに小学校に入った子どもたちが中学校に入るようになっていた。そういう曲がり角にいるこどもたちの状況を再度聴きました。災害の中に置かれた子どもたちの状況を、神戸の例からも聴きました。

学校の役割。避難所と簡単に片づけたらいかん。子どもたちがその中でどういう活動していくのか。復興の中で主役になっていくのはどういうあり方かと言う議論をやりましたね。
親が国保が払えない。子どもが医療費がもらえない。子どもの無保険を作ったらいかんと主張して、朝日新聞がそれを取り上げて、「子どもの無保険」という言葉を作り、それはダメだと語る中で、いまは親が保険を払えなくても子どもは救済されるようになりました。

守田 
全国で?

かじかわ 
うん。

守田 
すごいな

かじかわ 
その時の世論作りを一緒にやった。それまでは学校の側が子どもの貧困がどういうことが把握できてなかったんです。子どもの忘れ物とされてきた。「給食費を忘れてます」と。
そうじゃなくて、お金を持って行けない子に寄り添うと言う姿勢が、教職員組合も不足していました。そんな子がたくさん出だした時期があったんですよ。教組にもどってきた最初です。

憲法平和ネットをやりながら、もう一方でそれをやっていた。京都で全国教育研修集会をやったときに、夜にその子どもの貧困問題についての企画をやりました。
子どもを真ん中において、子どもに関わるあらゆる専門家が一堂に会する必要があると言う主張を作りました。それに惚れて政策化をしたのが本田久美子さんです。
だから彼女は、子どもを真ん中において、そこに起こることを行政が一括してやるシステムがいると主張したわけです。
これを捻じ曲げてリストラに使ったのが門川市政やった。子どもはぐくみ局、そのもとで汚職腐敗までいきよった。とんでもない間違いを彼らは犯したと思う。

僕らが目指したのは汚職腐敗の温床なんじゃない。子どもを真ん中において、学校や福祉施設や弁護士や児童相談所が、あらゆる問題を一気に解決していける道筋を作りたいという思いやったんです。
だからコロナの保健所役割が見えるんです。


かじかわ憲はグリーンリカバリーも掲げています

続く

#かじかわさんでこんな京都にしたい #かじかわ憲 #京都府知事選 #憲法読本 #つなぐ京都2022 #日教組 #京都総評 #労働者の団結 #共同の促進 #労働組合は敷布団になれ 

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労働者の団結に恋い焦がれてー「人と人をつないでつないで京都府知事にチャレンジーかじかわ憲インタビュー2」  明日に向けて(2187)

2022年04月06日 10時05分00秒 | 明日に向けて(1701~1900)

守田です(20220406 10:05)

京都府知事選にチャレンジしている、かじかわ憲さんのインタビュー2回目です。


普段着のかじかわさん

―労働者の団結に恋い焦がれて―

守田 
それでそこからは京都教職員組合の専従になったんですか?そのまま現場に戻れなくかったわけですか?では教員としては現場は4年しかやれなかった。

かじかわ 
そうなんですよ。ぜひうちにこいと現場まで小学校まで乗り込んできてはった方がおられて。うちのおやじの校長仲間ですわ。

守田 
でもそれから今日までずっと。現場に戻りたかったでしょう?

かじかわ 
それは戻りたかったですよ。でもちょうどその時に労働戦線が、連合(日本労働組合総連合会)と全労連(全国労働組合総連合)ができるときに重なって。教職員組合は日教組(日本教職員組合)と全教(全日本教職員組合)が別れた。
その時に、青年部の組織を全国的に作らないかんということになった。そのときだったんです。

守田 
全教を作ったときだったのですね。

かじかわ 
全教が日教組から飛び出たと言う面もあったのだけれどね。その全協を作ったときの結成宣言は、私が読んでいるんです。東京の山手教会というところで。それを亡くなった教育評論家の三上満さんが記録に書いてます。
そこで全教は旗揚げしてるんですだけど、だけど僕の思いは日教組にあったんです。日教組の中にもね たくさん仲間がいてね、特に青年部にね。その中で何とか別々にならずに一緒にやれへんかっていう思いが強かったんですよ。
日教組の中でも何とかして別れることを食い止めたい。連合に行かないようにしたい。その決断を執行部に迫ろうといういろんな動きがあって、その思いを持っている皆さんと一緒にいろんな話しましたね。
反対にそういう動きを潰そうとする勢力も中にはあって、それでこっそりトイレの中で話したり、泊まりがけで温泉の湯船の中に浸かったりしながらとか、いろんなとこで話しましたよ。

守田 
へえええ。

かじかわ
その仲間がね、青年部を一緒にやっていた仲間が、日教組の中から排除されていったことがあってね。それはね、お互い悔しかったんですよ。
そんなことがいろいろあって、それが新たな共同を作りたいって思うようになった原点になっています。労働者がお互いに思いは一緒なのに、別々に分かれていってしまった。「そうではない。繋がりたい」という思いがみんなにあった。
私は全教のところにいきましたけれど、違う道を歩むことになった皆さんの想いまでを、こっちが抱えて頑張らないかんって強く思ったのがその時で、そのことが結局、京都総評という労働組合の結成にも繋がっていったんです。

守田 
なるほど、なるほど。ずっと労働者の団結を恋い焦がれてきたのですねえ。


いつも仲間たちと奮闘 京都民報より

かじかわ 
一つは自分の生い立ちの中で培われたもの、また高校生の時の体験、そして教職員の現場にいたときの車座の懇談会の経験や子供らと一緒に過ごした時に学んだこと。
そして労働組合運動に身を置いた途端に、労働戦線の分裂が生じて、離れ離れにならざるを得なかった当時の青年部の皆さんの思い、悔しい思いを、抱っこしてきたということなのかな。
あれは何年やったかな。連合ができたのが1987年。総評が無くなったのが1989年やった。

守田 
そうかあ・・・。

かじかわ 
だから僕は最初は日教組の傘下にあった京都教職員組合の専従になったわけね。
あの時の労働戦線の再編は春闘つぶしが目的やった。財界が春闘潰しを狙い、その中に大企業の労働組合を巻き込もうとしたんですよ。それと政府が裏でつながっていた。

守田 
東欧の社会主義崩壊とかの影響もあったのでしょうか。

かじかわ 
いや、違うと思うな。日本の構造改革とかそういうことですね。背景はね。

守田 
前川レポートとかが出ましたものね。(注 中曽根政権のもとで1986年4月に日銀総裁前川春雄氏がまとめたレポート。日本に新自由主義=市場原理主義を浸透させることを目指したもの。そのためには労働者の権利を掲げて資本の前に立ちはだかる労働組合が邪魔だと、さまざまな圧迫がはじまった)

かじかわ
そうそう。それですよ。一連の財界側の動きです。それに政府が乗っかったんです。そのときに政府が公務員の労働組合に対しても圧力をかけたんですよ。

守田 
国労なんかもすごく狙われて圧迫されましたよね。国鉄そのものの解体と一緒に。


京都北部のみなさんに迎えられて 2022年2月23日福知山にて 守田撮影

―京都総評結成の思い―

かじかわ 
正確にはその辺のことはもうちょっとそこは整理しなきゃあかんのですけどね。でもとにかく全国でいろいろと問われたんよね。
京都でも円山公園で大集会が開かれたんです。連合に行かない、行けないという人たちを集めて。日教組の中からも私が話し合った相手で、「連合にいかざるをえない」と言ってた人たちも来ていたと思います。

それで全国では、全労連の側は「労連」という名を使う。連合の側は「連合」という名を使うと、地方も分かれていったのです。
でもそのときに京都は「京都総評」と名乗ろうということになった。「総評」というその時に終焉を迎えた中央の組織の名前をいただくことにしたのです。それで「総評」という名前になったんです。それまでは総評傘下の「京都地評」やったんですよ。「地方評議会」やったんです

守田 
へええええ。そうだったんだ。

かじかわ 
なくなるんやったら、中央総評の名前をいただこうと。それで新たな団結の要になろうという決意を込めて「京都総評」と言う名前にしたんです。「京都労連」にはしなかったんです。

守田 
ため息がでますね。ジーンとするなあ

かじかわ 
それで連合にいかなかった組合がかなり残ってくれた。今回、京都総評が丸ごと私の知事選への挑戦を推すことには、色々な組合があるので時間がかかったけれど、それはとても大事だった。

守田 
なるほどねえ。総評はいまや京都だけなんですね

かじかわ 
京都だけです。「地評」という名を残しているところはあります。和歌山地評とか静岡地評とか。「地区労」と言う名前もその名残です。

守田 
僕のような社会運動に詳しいと思っているものでも、その辺のことをよく分かってなかったからなあ。一度、きちんと整理したいですね。

かじかわ 
ほんまに。あの時は「労働者のために権利を守る」とか「巨大な圧力とたたかう」とか、労働組合にとって根幹にあるべきことを、きちっと語って組織を維持していくことが、たいへん揺れたんですよね。そういう時期やった。

守田 
そしてそれに東欧や旧ソ連の社会主義の崩壊が重なっていった

かじかわ 
そうそう。それでね。京都総評は中央のナショナルセンターでは全労連(全国労働組合総連合 日本共産党支持が強い)に入っているんです。でも共同組織は中央は全労協(全国労働組合連絡協議会 日本社会党左派ーいまではその流れをくむ社会民主党と新社会党の支持が強い)に入ってるんです。両方に入っているんです。
全労協は連合にも全労連にもいかなかった労働組合を集めています。その協議体なんですけど、そこに京都から役員を送っているぐらいで。京都総評はそういう意味でとても幅広くやってきたと言う感じですね。

守田 
かじかわさんの専従としての活動は、教職員組合と、総評とどんな感じだったのですか?

かじかわ 
教職員組合から出て、京都総評に入って専従をやることになったのですが、その1回目が1991年から1999年まででした。京都総評の事務局次長で京教組の仕事もやりながらでした。
それで「そろそろ京教組に戻ってけえへんか」という時がちょうど1999年でしょう。その時に1回目の日米ガイドライン問題がおこって、有事立法が立ちあがってきたのです。
(注 日米ガイドラインとは「日米防衛協力のための指針」のこと。どの地域が日米安全保障条約の対象かなど示されており、1997年にそれまでの「極東」から「周辺事態」へと範囲が拡大、それに伴って「有事立法」制定が目指された)
それに反対する取り組みを担当していて、共闘関係を広げようとしていたときでした。

さらにその前にはPKO(国連平和活動という名のもとの軍隊派遣)で、宇治の大久保基地の自衛隊が出動することなったことに反対して、大久保基地を取り巻く1万人デモをやったんです。それも担当でした。
小選挙区制ができたときもその反対運動の担当でした。とにかく当時の国民的運動、府民的運動の担当をしたので、その時の仲間が各地にいます。

守田 
なんだか時の流れが、いつもかじかわさんを、人と人をつなぐ役目に置いてきた感じですね。


何度、対談してもかじかわさんの引き出しは尽きない!いつも現場の話が満載 西京原発ゼロネットのみなさんに迎えられて 守田撮影


―平和のための共同が広がっていく―

かじかわ 
その時の経験では宗教者のみなさんと結びついたのが印象的でしたね。とくに日米ガイドラインに反対するデモを何度もやる中で、広くつながることができて、YMCA、YWCAなどと仲良くなって、個人格で継続的に平和についての話し合いができる場を作ろうと「憲法平和ネット」をつくりました。そのときに3つの原則を確認した。「お互いを誹謗中傷しない」「非暴力を貫く」「決めたルールを現場で守る」。

いまの共同につながるこのルールをみんなで作りました。「非暴力」はねえ。宗教者のみなさんから「絶対にこれをいれろよ」と言われていれたものなんです。ある牧師さんがいいました。亡くなるまで一緒に行動してくれた方です。
仏教界の方も大変力を貸してくれました。その後もいろいろなみなさんと一緒に歩んできました。
さらにね、教育基本法の大改悪の流れがあり、そのときに教組関係、市民、法曹関係で大きな共闘をつくりました。


ロシアのウクライナ侵攻に反対するキャンドルビジルにも参加 守田撮影

守田 
そんな活動の中で印象に残っていることはなんですか?

かじかわ 
総評の事務局次長をやってたときは、そうやって新たな共闘を作ることに必死やったから、いろいろなところにいって、いろんな人と実行委員会を作ったり、共同組織を立ち上げまくってました。
それに付き合ってくれたのが自由法曹団の弁護士のみなさんたちですね。頑張ってくれました。

守田 
なるほど

かじかわ 
2001年からのアメリカによるアフガン戦争のときに、その「憲法平和ネット」が役に立ったんです。「戦争はダメだ」という大きな声がみんなで上げられたんです。

守田 
素晴らしい。戦争が起こってしまったことは残念で悔しいですが。

かじかわ 
YMCAにみんなでよく集まってましたよ。

守田 
本当になんども共闘、共同を作ってきたのですねえ。

かじかわ 
まあ、そういう人のつながりのための裏方をずっとやってきたから。なんかそのために働くことが染みついてましたね。


今ある良いものを壊し、お金儲けの手段に変えようとする北山エリア開発を白紙にと訴えるかじかわ憲

続く

#かじかわさんでこんな京都にしたい #かじかわ憲 #京都府知事選 #憲法読本 #つなぐ京都2022 #日教組 #京都総評 #労働者の団結 #共同の促進 #労働組合は敷布団になれ

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人と人をつないでつないで京都府知事にチャレンジーかじかわ憲インタビュー1 教員としての道を歩む 明日に向けて(2186)

2022年04月06日 10時00分00秒 | 明日に向けて(1701~1900)

守田です(20220406 10:00)

京都府知事選が終盤を迎えつつあります。
この時に、かじかわ憲さんからがっつりとインタビューした内容をお届けします。
かじかわ憲を応援してくださっているみなさま。最終版の押し上げにぜひインタビュー記事を活用して下さい。


1、教員としての道を歩む

―憲法読本について―


守田 
今日はかじかわさんの知事選立候補にいたる道のりをあれやこれや聞きたいと思います。先に生い立ちのことをビデオで話してもらいました。今回は学生の時の話ぐらいから聞かせて下さい。

かじかわ 
インタビューのはじめにこれを進呈いたします。(『憲法読本』を手渡す)

守田 
すごい。これ新しい本ですか?

かじかわ 
これはわれわれの運動で手作りしたやつでね。「あたらしい憲法の話」や明治憲法なども入れて。労働組合で使えるように労基法を入れたものもあって、いろんな労組から出ていてね。
これが現物ですわ。一番初めのところに蜷川さんの言葉も入ってる。「15の春は泣かせない」「峠の向こうに春がある」「この道を行く」「育てる漁業」などね。それで「とにかく何かあったらこの本の中に駆け込め」と言われてた。高校生の時にもらって、ずっと大事にしています。私の自慢のバイブルですわ。


『憲法』と書かれた冊子を手に語るかじかわさん キッチンハリーナにて 守田撮影

守田 
なるほど。

かじかわ 
それの復刻版を差し上げます

守田 
わあ。すごいな。ありがとうございます。
さてそれでかじかわさんは大学はどちらだったんですか?

―学生運動から教員へ―

かじかわ 
大学は京都教育大でした。学費値上げ反対のストライキとかやりましたよ。

守田 
かじかわさんは僕と同い年ですよね。僕は1959年8月16日生まれです。

かじかわ 
僕は9月6日。20日違いやね。大学はストレートで入ってね。あのとき、各地で学費値上げ反対の運動とかありました。教育大もやりましたね。僕は京都の学生運動の中心にいました。府学連の書記長でした。その当時の皆さんがいろんなとこで活動やっていて、今回もいっぱい応援メッセージが届いています。

守田 
大学のときの一番の思い出はなんですか。

かじかわ 
やっぱり何回も東京へみんなでバスで行ったことやな。いろんな社会問題の集会とか、国会要請のデモとかで、山ほど行きましたね。
いつも立命館大学に学生を集めて貸し切りの夜行バスで行くんです。強烈な印象ですね。集中的に行かなあかんときは、ものすごい数を集めて行ったからね。東京の近くのドライブインで休憩とって、みんなで顔洗って国会へ行く、そういう日程で徹夜バス走らせたんですよ。

そんな風に大学4年間を過ごして、その後は大学院には行かずにそのまま就職しました。すぐに教職員になりたかったのでね。地元でね。
実はうちの親父が障害児学校の校長を最後にやったんですよ、親父が校長を辞めるときに、私が採用やったかな。ちょうど入れ替えの形になったので、私が引き継ぎたいという思いがあってね。障害児学校の教員もやりたかった。
でも当時もう教育委員会は良い状態ではなくて、どうも「あの校長の息子を入れるな。京都に置くな」と大変やったそうで。それで府立学校には採用されなくて、南山城の教育局という広域の教育行政がありますが、そこが僕を拾ったのです。
障害児学校は府立学校なのでそこの教員にはなれなかった。

そんな風に教員になったころに、親父に厳しく言われたのは「どんなに裏切られても信頼する」こと。

守田 
誰のことをですか?

かじかわ
一番は子どものことやったと思いますね。「学校の先生は、どんなに子どもに裏切られても信頼する、また裏切られても信頼するもんや。それができるか?」って聞かれたことがありましたね。
「できる」とはよう言わんからさ、でも頑張るしかないと思ったね。その親父が今100歳で、まだ元気ですけど、「そんなこと言うたか」って絶対言いますけどね。それはねもう本当によく覚えてますね、

守田 
実際はどうでしたか

かじかわ 
そもそも「裏切られた」と思うことが自体がどうなのかと思うようになったね。こちらが子どものことを見えてなかったのではないかとかね。
まあでもそういうことはありました。いっぱいありましたね。例えばそうだな。クラスをプラスの方向に何とかうまくまとめられたと思ったら、次の日になったら、全然違う方向へみんなが走ってるとか。


出馬記者会見会場にて

―子どもへの関わりで悔いもある―

守田 
幾つの子どもたちとのことですか?

かじかわ 
小学校だったからね。丁々発止があったのは、5年生6年生の子供やね。そんな中で、本当にしんどい思いを子どもにさせてしまったこともあって。ものすごい悔いもあります。

守田 
どんなふうにですか。

かじかわ 
よかれと思ってやったことが、その子にとっては辛かっただろうなと。そう思ったままで今に至っている例があって。その話はリアルに話すとその子に分かってしまったら申し訳ないので語りにくいのだけれど。
何て言うんかな、その子が仲間との関係でしんどくなっていてね。それでリーダーを集めて「みんなで一緒にその子を激励に行け」と言ったんです。でもそうしたら、かえってその子がしんどくなったんです。
なんであのときに僕自身が、その子ときちっと向き合いへんかったんか。子どもたちにそのことを負わして、そのことで余計しんどくさせた。その子に本当に申し訳ないって思いがあって。今、その子の顔が浮かんでますけど。
でも逆にそういうしんどい思いを、5、6年生のところにした子どもたちが、そのときのことやらいろんなことやらを振り返りながら、いまだにずっと連絡をくれたりもしています。その子らはいまはもう京都に住んでないんやけどね

守田 
でもなんかなあ。「リーダーたちに行かせた」というのは、子どもへの関わりのあり方として、なんだか分かる気もするけどなあ。

かじかわ 
技術的にだけ言えば確かにそれもありだったとは思うんですよ。集団作りのときに、リーダーを集めて、みんなであの子どういうふうに激励しようかって議論をしたりすることはある。でもその場合は、それまでにやっぱり僕がその子と直接、向き合うべきやったんでしょうね。

―とにかくみんなで話し合う―

かじかわ
でもなあ、とにかくちょっと変わった教室作ってしまっていましたね。子供らが卒業までに、みんなで1回ゆっくりどこかに集まって、将来の話やいろんな話をしたいといいだしてね。そういう合宿がしたいという話になった。
まだ私も若気の至りでね。合宿などということを教職員が主催してクラスで子どもたちが一晩泊まるって、そんな許されへんかったんですよ。だけど、やろうと思っちゃったんですよね。西山のお寺に泊まりに行く計画まで立てたんです。うん。
私はそのころ、教育懇談会を担当している全域でいっぺんにやるんじゃなくって、小さい地域ごとにやって、歩いてまわるのがモットーになっていたんです。
それで体育祭の取り組みとか、運動会とか修学旅行とか、それからいろんな事業のこととか、それらのネタぶら下げて、お父ちゃんお母ちゃんと遅くまで車座で語り込むことを、すごくやっていたんです。
今から考えると、そんな条件がなかなかないだけで、それをやりたい先生は多かったと思う。ほんでね、みんなで相談して、僕のいる小学校全体でやろうということになったんです。組合の皆さんとも相談してね。
「かじかわだけが、やれる条件があるからやっているというのでは私は辛い」と、他の教員に言われたためでもありました。だって「あのクラスやってはる」ってうわさが立つから。

ほんでね、子供らが合宿行きたいっていう話を、お父ちゃんお母ちゃんが受け止めたんやね。PTAの会長に「うちのクラスの保護者が連れて行きますが、お寺に泊まりにいっていいですか」って了解を得にいったんです。
そしたら会長さんがOKしてくれて、ほんで校長とかけ合って、私は当日、子どもらが親と一緒にお寺に来たら、たまたまいたっていう話になった。おかげでお父さんお母さんとも夜遅くまで話をしたし、子どもらとは語り明かすことができましたね。
いまだに覚えてるけど、ちょっと高台にあるお堂で、縁側で足ぶらぶらさせながら子どもらとずっと話してて。次の日に風邪ひいた子どもが山のように出て(笑)。6年生の最後のあたりかな。もうちょっと寒くなりだしてたかな。そんなこともやりましたね。
だけど保護者の皆さん、お父さんお母さんと、懇談会をやって歩き回ったとことは、ものすごい財産になりましたよ。対話ってこういうふうに大事なんだ、車座で話すことがとっても大事なんだって思ったね。

守田 
でもそんなことをしている教員はそんなにいなかったでしょう

かじかわ 
そうやね。日教組の中でも報告が出るぐらいやったからね。


かじかわ憲は車座での話が大好き 綾部「一汁一菜 ちゃぶダイニング」にて

―もともと家に人が集っていた―

かじかわ
ちなみに僕のおふくろは、新日本婦人の会の、京都府の役員をやっていたんですよ。「子供を守る会」の役員もやっていて、今も頑張ってやってはりますけど。その中で特に乙訓の教職員組合と新日本婦人の会やらが、皆さんで実行委員会を作って、「子供祭」を始めた。それが全国で初めての取り組みだった。
どんなんや言うたら、一日、中学校の校庭を借りて、その地域の子供たちがみんな集まって、ゲームやったり、遊んだり、手作りのおもちゃで遊んだりする企画ですわ。
これを保護者の皆さんと教職員組合などで一緒にやったんやけど、その子供まつりの実践が、その後に全国に広がっていったんですよ。
京都市内は中京区が有名やった。乙訓の子供祭りと中京区の子供祭り、こういう取り組みを、全国の教育研修会で報告するって言って、おふくろがでかけてましたよ。教職員組合の皆さんと一緒に。
このときのことは私もよく覚えてる。祭りの片づけを全部やるので、家に帰るのが遅くなるから、晩飯を先に勝手に食うとけって言うて、おふくろから連絡があって、親父と2人で近くの飯屋へ行ってハンバーグ食ったんです。いまだに味まで覚えてる。僕が、中学に入ったかどうかっていうぐらいやったと思う。そんなことあんまりなかったんで、嬉しかったんやと思うけど。

だから我が家には、教育懇談会をやろうという乙訓の皆さんの取り組みがあって、よく集まってましたよ。いつも僕は「煙草臭い」言うて、窓を全部開ける役割やった。山ほど先生来るんやから。打ち合わせの時に。
うちの親父がもっと面白くて、定時制の高校の教員やってた時があったんですけど、そこで育てた子供たち、担当してた子供たちを、みんな連れてきては、家で闇鍋やったりした。定時制のみんな、結構、年齢幅がありましたね。うん。そうだよ。
高校に中学からそのまま来ている人もいれば、自衛隊を辞めてもう一回、勉強をしたいと入ってきた人もいました。そのとき我が家に来ていた人たちとは、いまだに連絡がとれてて、うちの親父に年に2回ほど、顔を見せに来てくれます。そのみんなにかわいがってもらったなあ。「憲ちゃん、憲ちゃん」ってね。
だからそういう地域の教育運動の担い手の方とか、定時制の生徒の皆さんとか、そんなみんなが集まって何かを一緒にやっていることが当たり前の感じで、ずっと来たかなあ。
特殊な経験やったんですけど、みんなが集まっていろんなことを議論して、喧々諤々やっている。そういうのを地域で人の家に上がり込んでやったり、地域の公民館、遅くまで借りてやっていることの中にいつもいて、「そういうのが大事なんや」ってもともと染みついてたから、自分が教員になってからも自分でやったんやろうね。今考えるとそう思いますね。

守田 
ちなみに教科はなんだったんですか?

かじかわ 
私は小学校だから全部やりましたよ。音楽も好きだった。久世の教職員組合の青年部でバンド組んでたんです。私はキーボードができるんです。あとボーカル。まあ「歌声」運動のですね。まだ宇治久世バンドって続いていると思う。
卒業式の最後、送り出しも5年生で、それでやらせてもらったかな。鍵盤ハーモニカっていうのはサックスと同じような音出るんだよ。吹き方を教えると。大太鼓の裏側に毛布詰め込んで、ドラムやってたり、やってましたよ。
23歳から27歳の時ですね。その間に結婚もしてるんですけどね。結婚式は、子供らがなだれ込んでくるわけのわからん結婚式やった。先生は踊り出す、そこへ子供が保護者と一緒になだれ込むという、みんなと一緒の結婚式やったですね。
そんな集まりが重なる中から、子供や親の本音とかが出てくるですよね。そういう良い経験を味あわせていただいたのが、城陽市の学校やったんです。でもいたのは4年。めっちゃ短いですよ。5年生を2年もって、5年もって6年もって、その子供らを卒業させられへんで学校を出たんやもん。


「学び続けられる京都へ」がかじかわ憲の公約の一つ

続く

#かじかわさんでこんな京都にしたい #かじかわ憲 #京都府知事選 #憲法読本 #つなぐ京都2022 #日教組 #京都総評 #労働者の団結 #共同の促進 #労働組合は敷布団になれ

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原子力防災についてどう考えるのか-かじかわ憲で京都や若狭の安全性を向上させよう 明日に向けて(2185)

2022年04月01日 17時00分00秒 | 明日に向けて(2101~2200)

守田です(20220401 17:00)

かじかわ憲は原子力防災についてもとても強い

京都府知事選の最中です。かじかわ憲さん、元気に走り回っています。
そのかじかわさんが掲げていることの一つは、原発を止めて、なくす!です。
そのかじかわさんに「原発防災と京都府政」というタイトルで話していただきました。

すでに動画を公開しています。ぜひご覧下さい。かじかわさんのお話は最初の30分ちょっと。
ここだけでも聴いていただきたいです。


かじかわ憲は常に現場のリアリティから発想する

かじかわさんは、原発は無条件に止めなければいけないと述べています。これが最も大事なことです。
しかしすぐに止めることはできないかもしれない。かつ止めてからも使用済み核燃料の熱量が十分に下がるまで、危険性があり続けます。そのために、原子力防災は必要なのです。

ただし原発事故の際に、完璧に住民を守る防災計画など作りようがないのが実情です。
だったらどうするのか。せめて少しでも被曝を減らす「減災」の考え方で行くしかない。かじかわさんの強みは、この点のリアリティを良く理解していること。
さらに各地の行政の防災課の職員さんたちと、実際の災害対応で何度も話をしてきて、現場の方たちの立場をとてもよく分かっていることです。だからリアルな減災が可能になる。

もちろんそのためにさらに必要なのは、住民のみなさんとの学習です。
放射線被曝の危険性をしっかり知ること、少しでも身を守る知恵を重ねることが大事なのです。
その点、教員出身のかじかわさんは、学習で人々の力をアップさせることにもとても強い。

みなさん。ぜひ動画をご覧になり、かじかわ憲さんの持つリアリティに触れて下さい。拡散してください。
かじかわ憲で京都や若狭の安全性を向上させよう!


「原発は止めてなくす」のかじかわ憲です!

#原子力防災 #原発防災と京都府政 #かじかわ憲 #かじかわさんでこんな京都にしたい #原発は止めてなくす #原発は止めても危険 #京都府知事選 #つなぐ京都2022

この動画もぜひご覧下さい

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