明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(963)中世ポーランドの寛容の精神に学ぶ(ポーランドを訪れて-2)

2014年11月03日 23時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141103 23:30)

前回はポーランドなど世界のさまざまな地域の歴史について学び、主体化していく意義を書きました。今日はいよいよポーランドのことを書きたいと思います。
まず国名のことをおさえておきます。私たちは日本語でこの国をポーランドないしポーランド共和国と呼んでいますが、この国のポーランド語での正式名称は”Rzeczpospolita Polska”です。カタカナ表記するとジェチュポスポリタ・ポルスカ。略してPolska=ポルスカがよく使われています。
お土産などを見てもPolskaの刻印のあるものが多い。なのでポーランドの方とお会いした時には「ポルスカ」と呼称した方が喜んでいただけるように思います。

この国が位置している地域はざっくりと言ってドイツとロシアの間。ヨーロッパの東側、ヨーロッパの辺境とも言われることもあったようです。ただし現在の国境は第二次世界大戦の末に定められたもので、それまで大きな変動を繰り返しています。
ここで歴史を見る上で「国」という概念や国境というものに大きな注意を払わなければいけないことを踏まえておきたいと思います。
というのは私たちの国は、歴史が記されるようになって以降、一つの連続したつながりの中で「日本」のことを描けます。もちろんアイヌ民族など西から侵略を受けた側から考えたときに「日本史」は大きく書き換えなければならない側面を持っています。

それでも世界の中でこうして一つのつながりで国のことを説けるのはまれであり、歴史上、大きな存在を示しながらその後に衰退し消えていった「国」も「民族」もたくさんいたことを知ることが大切です。
とくに陸続きにたくさんの国や民族が存在している地域では、その境も激しく変動しています。そのため「国の歴史」としては描けない地域がたくさんあります。さらにイスラエルができる前のユダヤ人など、「国家」という枠組みで捉えようとするとそこから外れてしまう人々もいます。
さらにそもそも「国家」とは何かということ自身が大きな問題としてあります。現代の私たちが考えている「国家」や「民族」は、実は近代になって成立してきた概念であるからです。その点で私たちは今の「国家観」を相対化させながら、歴史と向かい合う必要があります。

この点を踏まえた上でですが、歴史を遡ると、この国が「ポーランド」として成立したのは紀元966年であるとされています。この国の支配者が西洋のキリスト教を受け入れ、ローマ教会に認知されたのがこの年でもあります。
その頃はほぼ現在の領土と同じ地域を支配していましたが、その後、次第に大きくなっていきます。14世紀末には北方のリトアニアと合併してポーランド=リトアニア連合を形成。1596年にはポーランド=リトアニア共和国となり、黄金時代を迎えます。
どう黄金だったのかと言うと、当時のヨーロッパで最強最大の勢力を持っていたというのです。支配地域も現在のベラルーシやウクライナ、リトアニアやバルト三国、さらにはロシアの一部にまで踏み込むほどの力を示していました。

この頃の歴史が現在のポーランドにどれほどの影響を与えているのか、まだポーランド史の学習の入り口にいるにすぎない僕にはよく分からないのですが、非常に感銘を受けたのは、この頃のポーランドが他のヨーロッパ諸国に比して宗教的に寛容な国だったことです。
とくにキリスト教圏で支配的であり続けてきたユダヤ人への差別的なあり方をとらず、1264年9月8日に「ユダヤ人の自由に関する一般憲章」(カリシュ法)が制定されており、ユダヤ人の人権の保護が強く歌われています。
さらに14世紀に起こったヨーロッパ全体へのペストの蔓延の中で、この病を広げたのはユダヤ人だというデマゴギーが流布され、各地で迫害が強まったのですが、この時にもポーランドでこうしたデマは沸き起こらず、結果として多くのユダヤ人がポーランドに移住していきました。

ペストに関しては、この時期、ポーランドではウォッカを飲用としてだけではなく、消毒に使う風習が一般化しており、トイレなどもウォッカで拭いていたため、ヨーロッパの中では劇的にペストの蔓延が免れたため、ユダヤ人の陰謀説というデマが起こりえなかったという説もあります。
ともあれこの時期、ポーランドにはヨーロッパ全体のユダヤ人の4分の3もが集まったとも言われており、そのユダヤ人たちが金融業に携わっているものが多かったため、次第にポーランドがヨーロッパの金融の中心的位置を占めるようにもなっていきました。
ちなみに金融は、歴史的に共同体と共同体の狭間から発生してきました。いや金融に先立つ商品がそうでした。共同体の中で自家消費しないものが増えたときに、余剰産物が商品として他の共同体との交換に回されたからです。

それがさらに金融へもつらなっていくのですが、その際、ヨーロッパでユダヤ人が金融業に多く携わるようになったのは、ユダヤ人が国家をもたず、またキリスト教圏に支配的なユダヤ人抑圧構造の中で、常に共同体の外に置かれていたため、必然的に共同体の間で発生する商品交換や金融がユダヤ人の手に集まっていった経緯があります。
こうした商品交換や金融に携わることは、中世社会では卑しいこととされました。シェークスピアの『ベニスの商人』などにその反映を見ることができますが、ヨーロッパ社会は、共同体と共同体のつなぎ役を必要とし、その役割を共同体の外にいるユダヤ人に押し付けつつ、しかしそのユダヤ人を差別し抑圧した矛盾構造の中にあったと言えます。
これに対して、この時期のポーランドはこうしたユダヤ人抑圧に与しなかったため、ユダヤ人の持つ金融力がポーランドに還元される必然性を持ったのであり、そのことがこの国の力の拡大に大きく寄与したのではないかと思われます。

ここまで書いてきただけで、もうお気づきかと思うのですが、僕がここでユダヤ人とポーランドの関わりのことを書くのは、第二次世界大戦の前夜においてもポーランドにはこうした脈絡から多くのユダヤ人が住んでいたからです。
そこに「ユダヤ人撲滅」という全く許しがたい主張を掲げたナチス・ドイツが1939年に殴り込み、占領政策を遂行したのでした。そしてナチスは強制収容所を作った。有名なアウシュビッツ他、幾つもです。そこはやがて絶滅収容所と言われるようになりました。ユダヤ人皆殺し作戦が実行に移されたのです。
今回の旅で僕はアウシュビッツ博物館にも行くことができたのですが、そこで知ったのは第二次世界大戦前夜にポーランドに住んでいたユダヤ人300万人のうち、生き残ったのが5万人だったというあまりに苛烈な現実でした。

かつてヨーロッパの中で最もユダヤ人に寛大な立場を示したポーランド、いや、「寛大」などという言い方もおかしいのです。当然にも保護されるべき人権の対象としてユダヤ人を対等な存在として扱ってきたこの国で、最も過酷なユダヤ人虐殺が起こってしまったのです。
もちろんしっかりと見据えておくべきことは、この虐殺はナチス・ドイツによってこそ行われたということです。この占領期、ポーランド人の多くはナチスの政策に非協力的で、ユダヤ人を匿う道を選んだと言われています。
このためナチスは、占領地域の中で唯一、ポーランドに対してだけ、ユダヤ人を匿った場合の極刑を宣告しています。それだけポーランド人の有形無形の抵抗にナチスは手を焼いたのだと思われます。現代のこの重大な歴史的事件については、後でまたじっくりと述べたいと思います。

もう一度、中世のヨーロッパに話を戻しましょう。この時期、ヨーロッパ全体も、東欧と言われる地域も、幾度も領土の取り合いをして「国家」の形も変えていくのですが、その中でポーランドは「ドイツ騎士団」と衝突していくようになります。
ドイツ騎士団はローマ法王に承認されたカソリックの騎士団ですが、特定の国家を持っていませんでした。もともとポーランドは首都のワルシャワ防衛のためにドイツ騎士団を招きよせたこともあるのですが、その後に仲たがいし、戦闘を繰り返していくようになります。
とくに14世紀末にグルンヴァルドの戦いといわれる大きな戦闘があり、ポーランドの勝利のうちに1414年、コンスタンツ公会議が開かれ、この戦いのことが話し合われます。

ヨーロッパの歴史は大変、複雑でこの時期のことを語るためには、そもそもローマ・カトリックがこの時期、大分裂(シスマ)を経験し、教皇が3人も分立していたことにも触れなくてはなりません。この公会議は大分裂状態に終止符を打つために行われたのですが、そこでドイツ騎士団とポーランド=リトアニア連合の戦いが大問題となったのです。
というのは何よりドイツ騎士団が、カソリックの国であるポーランドが、当時、キリスト教を採用しておらず異教徒の国であったリトアニアと連合したことへの非難の声を上げたのでした。異教徒と連合してキリスト教徒を討ったポーランドは天罰に値すべきだと主張したのです。
これに対して、ポーランド側が主張したのは、異教徒と言えど全く同じ人間であり、リトアニア人には自らの政府を持つ権利、平和に暮らす権利、財産に対する権利があり、これらを自衛する権利があるということでした。つまり宗教の枠を越えた人権を高らかに主張してドイツ騎士団に対抗したのです。

分裂から一本化の道を歩みつつあった教皇庁は、これに対して異教徒であるリトアニア人の諸権利の承認に関しては留保しつつも、ポーランド側の主張を認め、ドイツ騎士団の非難を却下したのでした。ポーランドはユダヤ人に対してだけでなく他の「異教徒」にも対等な権利を認めることが正義であると主張し、ローマ法王に認めさせたのです。この時期では画期的なことだと思えます。
しかしヨーロッパにはその後にカソリックの「堕落」への抗議=プロテストを唱えるキリスト教新派が登場し、さらに大きな変革を経ていくことなります。この大きな流れの中でポーランドは次第に力を失っていきます。なぜだったのかまだ僕には十分に分析できていませんが、最終的にポーランドは周辺国の力の増大の中で力を失い、1795年に三度目の分割を受けて消滅してしまうのです。
このため国家としてのポーランドは一度、歴史から消えてしまい、再登場は第一次世界大戦後まで待たねばならなくなります。その新生ポーランドもまた1939年、ナチス・ドイツとスターリンのソ連邦の密約のもとに東西から侵攻されて滅亡してしまうのでした。ポーランドは歴史上2回も分割による国家喪失を味わったのです。

その後にナチスの行った暴虐についてはすでに少し触れましたが、ただここまででも言えることは、戦乱に明け暮れるとともにユダヤ人への差別と抑圧を歴史的に繰り返してきたヨーロッパの歴史の中で、中世ポーランドには学ぶものが多いのではないかということです。
それは人類にとっての普遍的な何かの提起であったのではないか。そしてそれを可能とさせたものが何であったのかについて、私たちは学ぶものが大きくあるのではないかと思えます。
現在のポーランドにもそれは何かの形でつながっているのではないか。ポーランドはOECD諸国の中で日本についで犯罪の少ない平和な国であり、さらに日本を越えて、子どもたちの行儀がいい国としても評価されているといいます。実際、町を歩いていても安全性が高いことを実感しましたが、そこにこの中世の歴史の何かがつながっているのではないか。

まだ分からないことだらけなのですが、こうした歴史を持つポーランドにとってナチス・ドイツの占領、その後のソ連邦の支配下への組み込みとチェルノブイリ原発事故との遭遇、そして「社会主義の崩壊」とは何だったのかを次に考察してみたいと思います。

続く

なお今回の考察において、ウキペディアの「ポーランド」の項目が大変参考になりました。その他、書籍としては山川出版社の『ポーランド・ウクライナ・バルト史』を参照しました。
ただまだまだ研究分析が浅く、学んだものをそのまま順次原稿にしている段階であることを付記しておきます。学問的にはこの段階で文章化するのはご法度だとは思うですが、僕にはこうして学ぶ過程もまたみなさんとシェアしたいと思うのです。

 


 

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明日に向けて(962)核と戦争のない時代に世界全体で進もう!(ポーランドを訪れてー1)

2014年11月02日 23時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141102 23:30)

一昨日(10月31日)夕方にポーランドから帰国しました。
クラクフのホテルを現地時間朝8時に出て、バスで3時間揺られてヴロツワフへ。空港からドイツ・フランクフルト、韓国・インチョンをトランジットして関空を経て自宅に戻るまで28時間かかりました。
昨日は大半の時間を寝て過ごしましたが、まだジェットラグの影響が残っているようです・・・。

それはともあれ今回の旅でもとても大きな収穫を得ることができました。前半23日から26日は国際会議に参加。今年の国際連帯行動の集大成としてありましたが、後半の26日午後から29日までのポーランド見学でもとても大きなものを学びました。
国際会議についてはすでに発言内容の紹介などをしていますので、今回はポーランド訪問から学んだことについて書いておきたいと思うのですが、その前になぜこうした点を問題にするのかを整理しておきたいと思います。

というのは僕がポーランドについて語ろうと思うのは、それ自身が今年の3回におよぶ渡航の中でつかんできたことに大きく絡んでいるからです。
3月に僕が訪れたのはドイツとベラルーシとトルコでした。8月にはトルコだけに行きました。このうちベラルーシとトルコは初めて訪れた国でした。
ともに大変、印象深い訪問でしたが、中でもベラルーシをドイツの人々(核戦争防止国際医師の会 IPPNWドイツ支部)と訪れたのは僕にとってとても大事な体験でした。
なぜか。ベラルーシはウクライナと共に、かつてナチスドイツが、旧ソ連への侵攻を目指したバルバロッサ作戦の主要戦場となった地域であり、ナチスによって壊滅的な被害を与えられた地域だったからです。そこにドイツ人としてナチスの侵攻を真剣に捉え返そうとしてきたドイツの人々一緒に訪れたのです。

とくにチェルノブイリのすぐ北で、大変な汚染を被ったゴメリに訪れたときのこと、ベラルーシ側の歓迎レセプションの席上で、この旅を通して大変親しくなったアンゲリカ・クラウセンさん(IPPNWドイツ支部長)が次のようにスピーチされたことが今も脳裏に焼き付いています。
「私はかつてアウシュビッツを訪れたとき、あまりのショックから俄かに英語が話せなくなり、その場で迎えて下さった方との交流ができなくなってしまいました。今回、ゴメリに来るにあたっても私は同じことが起こるのではないかと心配していましたが、今はこうして英語でみなさんにお話することができています」
チェルノブイリ事故があったとき、ゴメリは片田舎で舗装された道路など一つもない地域でした。そのため道路の砂埃を通じて、放射能汚染が拡大してしまっていました。これに対して旧ソ連政府は真っ先にゴメリの道々の舗装化を命令し、実行させたそうです。
すると工事の為に掘り返した道路の下から、ナチスに虐殺された白骨遺体やらナチスのヘルメットなどが大量に出てきたと言います。ゴメリはナチスによって灰燼に帰すようなダメージを受け、そこから40年かけて舗装道路はなくともつつましやかな生活を再建したときに、チェルノブイリ原発事故に襲われたのです。

それはあまりに悲しく酷い悲劇の連続ですが、しかし一方でそうした悲劇にドイツの多くの人々が強い痛みを感じ、チェルノブイリ被害の救済に乗り出したのでした。
今回の会議中に聞いたことですが、今、ドイツの中でベラルーシやウクライナの被災者支援を行っている団体は、1000以上に達していると見積もられているそうです。会議を主宰したドイツのIBBは、そうした無数の団体をつなげ合わせるための努力を続けているそうです。
こうしたことに通じる話をゴメリで聞いたとき、僕の胸は打ち震えました。そしてアンゲリカさんにこうお話しました
「あなたの話を聞いて僕は日本軍のアジアへの侵略のことを思い出しました。日本軍は何千万ともいわれる人々を殺害しました。一方、日本はドイツと同じようにアメリカ軍による壊滅的な空襲も受けました。これらを通じて、いかなる戦争にも大義などないことをあなたたちドイツ人と私たち日本人が一番学んできたと思うのです」と。

初めてトルコに行った時もやはり僕は歴史に注目しました。恥ずかしながら生まれて初めてトルコの歴史を真剣に学びました。正確には高校生のときなどに記号として覚えた知識にやっとのことで血を通わせることができた体験でした。
とくに唸り声を上げざるを得なかったのが、トルコがかつてオスマン・トルコ帝国として領有していた地域のその後が、そのまま今日のヨーロッパ・中東などの「紛争」地域に重なっていることでした。
今、国内を二分する戦いが行われているウクライナの南部もかつてはオスマン・トルコの領土であり、なかでもクリミア半島はロシアとの激しい攻防に晒され続けてきたところでした。
さらにこの夏に激しいガザ攻撃が繰り返されたパレスチナと攻撃の当事者たるイスラエル、今まさに大変な戦闘の中にあるイラクやシリアもオスマン・トルコの領土でした。第一次世界大戦による敗北の中でこの帝国が崩壊したときに行われた「西欧列強」による激しい領地のもぎ取り合戦が、今の争いの根本要因になっているのです。

そしてそのトルコに日本の安倍政権が乗り込んで、原発を建てようとしている。しかもとても美しい黒海沿いの町の環境を破壊してです。
「違う、違う。まったく逆だ。この地域に日本が貢献できることは戦争のむなしさと平和の尊さをこそ伝えることだ。第二次世界大戦を通じて日本が学んだこと、過ちを捉え返してつかみとった不戦の誓いをこそ伝えることだ。安倍首相まったく逆のことを行っている」と僕は強く思いました。
もちろん安倍政権がトルコに直接的に行おうとしていることは、原発輸出であり、直接的に戦争にからむ問題ではありません。
しかしまさに今、トルコ対岸のウクライナ南部に激しい軍事的な緊張が現出しており、さらにトルコの南部国境地帯のイラク・シリアで激しい戦闘が起こっているときに、核兵器製造技術に直結する原発を輸出することには特別な意味が伴ってしまいます。

さらに僕が胸を痛めたのはトルコの中にあるありがたい親日感情や、イスラム圏全体に広がるそれこそ申し訳ないほどの日本への親しみの感情に対してでした。
これらの国々では私たちの国は、西洋白人国家の代表であるアメリカに原爆を二発も投下されながらも、戦後に経済復興を遂げ、産業大国として再生してきた国。しかも西欧各国のように軍事的に偉ぶることもなく平和外交を続けてきた国として写っています。
ペシャワール会の中村哲さんはこれを「美しき誤解」と語られ、「誤解がさめぬうちに瓢箪から駒で本物にしなければならない」と述べらていますが、僕も本当にそう思います。
ところが安倍政権はまったく逆の道を走っています。集団的自衛権行使でよりアメリカの理不尽な暴力に与しようとしており、さらには石油の安定的確保のためもあって、日本政府が伝統的に貫いてきたイスラエルとパレスチナ・アラブへの等距離外交を閉ざし、イスラエル寄りへと大きく舵を切ろうとすらしています。

さらにこれらを考えたときに見えてくるのは、このうち続く国際紛争と核エネルギーの使用が大きく結びついていることです。
核分裂によって得られる核エネルギーは同時に膨大な死の灰を生成させ、その処理の必然性を作り出してしまいます。それが1万年、いやそれ以上続くことを考えるならば、経済コストに合うとか合わないとか、そもそもそんな話が成立すらしないことは誰の眼にも明らかなのです。
しかしなぜこの単純な真理がまかり通らないのかと言えば、未来のことはともあれ、たった今、手っ取り早く膨大なエネルギーを手に入れ、目前の競争相手に打ち勝ちたいと各国の首脳たちが考えているからだと思います。
未来世代のことなど二の次。いや未来世代どころか数年後はどうなろうとそんなことはお構いなしに、今、一時の勝利を目指して奔走していく。そんな競争エネルギー、ないしは競争ヒステリーとでも言うべきものが現代世界を覆っている。

この世界の流れに抗していくには、こうした現代世界の陥っている構造そのものの捉え返しがなされなければならない。
そのために必要なのは一にも二にも歴史を学び直し、私たちの世界が陥ってきたさまざまな悲劇を、誰かれのせいにするのではなく、私たち自身が作りだしてきた問題として捉え返すことだと思うのです。
そしてこの捉え返しをもってこそ、国境や民族、人種等々の「垣根」を越えた連帯を形作っていく。本当の意味での普遍的な、ともに守るべき価値をつかみだし、共に歩んでいくことが可能になるのだと思えます。
僕には暴力の象徴としての核の支配するこの世紀、人類史上、もっとも大量の殺戮が繰り返されてきたこの100年の歴史を越えて行く可能性がこの中にあると思うのです。核と戦争のない時代はまさに世界的にしか実現できない。だからこそそこに向かいたいと心から思います。

そのためにどん欲に各国の歴史を学んでいく必要がありますが、そうした観点から見たとき、ドイツとロシアの間に位置してきたポーランドに学ぶことには格別な位置があります。
ポーランドは本当に特殊は位置を持っています。例えば第二次世界大戦との関係でいえば、ナチスが作りだした絶滅収容所たるアウシュビッツもそこにある。
今回、僕はこの収容所跡地に建てらえたアウシュビッツ博物館も訪問してきましたが、本当に深いことを学んでくることができました。

未来に向けて、ぜひこれらの体験をみなさんと共有したいと思うのです。

続く


 

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