明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1156)戦争を阻む平和力―下

2015年09月24日 08時30分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です。(20150924 08:30)

9月22日に行われた、No war & Peace Music Fes in 左京での僕の発言の起こしの後半をお送りします。

*****

そんなことを別の機会で感じることがありました。みなさん、「戦争は良くないことだ」というのはまだ世界では常識ではないです。
日本では例えば安倍さんでも「戦争法案という言い方は誤解だ。これは戦争を遠ざけるための法案なのだ」と言いますよね。もちろん、これは嘘です。嘘だけれども「今ぞ、お国のために、100万若人よ起て!」とは言えないわけです。

ところがですねえ、僕はピースウォーク京都と言うグループでアメリカの戦争に反対するウォークをずいぶんやってきたのですけれども、ちょうどイラクにアメリカが戦争を仕掛けようとしているときに、中国人の友だちが参加してくれたのです。
日本に来て働いていた方ですが、彼の名前をよく覚えているのです。陽増軍君(苗字は仮名)。軍を増やすという名前です。すごく印象的な名だったのですが、僕は勝手に文化大革命の時などの生まれなのかなとか思っていました。
その陽君はとても柔和な方で、優しい男性で、いつもいつもニコニコと笑っているのですね。その彼が「僕はアメリカがイラクに攻め込むことに反対です。一緒にデモに出たいです」というのです。それで実際に参加してくれたのです。
一緒に歩いて、デモが終わって、喫茶店に入って話をしました。その時に誰かが「ところで陽君のお父さんは何をしている人なの」と聞いたら、陽君、嬉しそうに「父も中国で日夜平和のために働いています」と言うのです。
みんなが「えー、何をやってるの、教えて」と言ったら、陽君、本当に誇らしげに胸を張って「父は人民解放軍で日夜ミサイルを作っています」と言うのです。それが「平和のため」なのですね。

中国は侵略戦争に勝った「正義の戦争」の経験しかないのですね。それに対して日本、ドイツもそうだと思いますけれども、正義の名の下でどんな過ちが起こったかを経験してきました。
同時に正義の名の下に原爆を落とされ、空襲を行われ、徹底した殺戮を受けることも経験しました。その中で「正しい戦争などない」ということを痛切に経験してきたのがこの国だったと思います。だからこの国では憲法9条が可能だったのです。
押し付けられたものではないです。だから僕は今後、この考え方こそが世界を救うものになっていくと思います。戦争では今世界で起こっている矛盾はどこまでいっても解決しないですよ。

同時にみなさん、原発の問題でぜひ知っておいて欲しいのは、チェルノブイリ原発事故の起こった地域は、長きにわたってユダヤ人がもっともたくさん住んでいた地域だということです。
なおかつナチスドイツが、ソ連とポーランドを分割して、そのポーランドの中で軍隊を整えて、1941年からバルバロッサ作戦というソ連への大侵攻作戦を始めました。その一番の戦場がベラルーシとウクライナだったのです。
ナチスは数年間、一帯を占領しました。それに対してたくさんの抵抗が行われました。その過程であの地域はナチスに目茶目茶に破壊されたのです。
原発事故があっときに原発周辺は田舎でした。道路も舗装してなかったのですが、その道路を通じて放射能が運ばれてしまいます。そのため旧ソ連政府が最初に行ったのが道路を舗装する工事だったそうです。
それで道路を掘ると、ザックザックと白骨遺体やナチスのヘルメットが出てきたそうです。

この話を僕はドイツ人たちから聞きました。ドイツ人たちとベラルーシに一緒に行って、その話を聴いたのですね。
それでベラルーシの方たちと合流して歓迎会があったときに、英語でスピーチするのですが、友人になったドイツ人がこう言いました。
「私はかつてアウシュヴィッツに行ったときに、英語での交流会があったのですが、ショックで俄かに英語が話せなくなってしまいました。そして交流ができなくなってしまいました。
今日、ベラルーシに来るときも、私はまたショックで英語が話せなくなってしまうのではないかと不安で不安でたまらない思いできました。でも今、私はこうして英語でみなさんと交流できています・・・」

僕はその夜にドイツ人が仲間たちで集まっているところに行って「あなたの発言で僕は日本軍の中国への侵略を思い出した」と語ったのですね。
そうしたらドイツ人たちは「ああ、やっぱり日本人は分かってくれるんだ」と言ってくれました。
チェルノブイリ原発事故の被災者に対して、ヨーロッパ各国からさまざまな支援がなされてきましたが、とりわけドイツは凄いです。民間団体だけでも1000以上が、保養だとか、いろいろな支援を行っています。
それもあの戦争の痛みを越えようとする行為なのですね。だからヨーロッパの「原発反対」の中にも、戦争の痛みを越えようとする思いが深く込められています。

70年前のあの戦争で、侵略も含めて、戦争の何がいけないのか、何が悲しいのか、そのことを痛切に知って、それを語り継いで伝えてきたのが、この国の中にある平和力だと思います。
安倍さんはそれを踏みにじろうとしました。だからこれから必ずさらに大きな怒りが起こります。それをみんなで豊かに発展させて、本当の平和を目指していきましょう。頑張りましょう!

連載終わり

*****

なお張本さんの発言について、部分しかご紹介できなかったので、読売新聞のサイトに掲載されたインタビュー記事全文をご紹介します。
ぜひこちらもお読み下さい。ネットへの掲載日時は8月9日午前5時となっています。

 あの夏 熱風私をかばった母…元プロ野球選手 張本勲さん 75
 読売新聞 2015年08月09日 05時20分
 http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150808-OYT8T50000.html

 

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8 コメント

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Unknown (武尊43)
2015-09-24 11:22:11
9条はアメリカから押し付けられたモノではあると思いますよ。
青山茂晴氏がアメリカで憲法を書いた人にインタビューした時の事を書いていました。
そこには彼は自分が去ったら、5年もすればこの憲法は書きかえられるだろうと思っていた、と言っていたと成っています。
しかし日本はそして日本人はそれを許さなかったのですね。それだけ戦争の悲惨さ悲劇罪悪感に苛まれていたんです。
そんな日本人の気持ちや考えを壊したくてしょうがなかったのが、日本会議とネオコンだったということなんですよ。
そして今回その端緒についてしまったんですね。でもまだ諦める必要はないですよね。戦いはこれからです。
返信する
平和な夜が欲しい・・・ (みき)
2015-10-01 00:46:33
守田様

日々いろいろなことが社会で起こっていて、なかなか平穏な夜が訪れてくれないこの頃です。

でも、考えたら、昔は単に、私自身の「アンテナ」が鈍かっただけで、昔だって周りで色々起こっていたのに、それに気づかず「平穏」に暮らしていただけなんじゃないかって、今夜、思いました。

貴重なお話の数々をシェアしていただき、感謝の念に堪えません。

知らないことばかりでした。

「戦争はよくないことだ」というのが世界の常識ではない、ということ。

チェルノブイリ原発のエリアは、ユダヤ人の方々が沢山住んでおられて、第2次世界大戦当時は、ナチスドイツにめちゃくちゃにされた地域であること。

「戦争はよくないことだ」が世界の常識ではないのかもしれない、というのは、残念ながら、最近の世界情勢を鑑みると、そう思わずにいられないところがあります。

だからこそ、武力行使に向かう流れに抗議する「切れ目のない」(笑)アクションを続けていってやる!という思いに燃えて、日々、自分にできる精いっぱいの「アクション」を起こし続けている毎日です。

例えば。

安保法制を阻止するための裁判の原告になりました。

これはそのアクションの一つに過ぎません。

小さいことから大きいことまでコツコツと!(笑)

憲法9条について。

この夏、岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」を観ました。

激しい映画(ご覧になったことがありますか?)を見終わった直後の私の感想は、

「自分も日本人だけど・・・日本民族ってこわい(涙)」

戦争時にはどんな人だって(どんな民族だって)クレージーになってしまうものだけど、この映画で描かれていたような(しかもノンフィクション)クレージーさを内包している日本人には、決して未来永劫「交戦権」を持たせてはならない・・・。

そう思われたとしたって不思議はない、と、その時思いました。

残念ながら、もしそういう意図で9条が創案されたのなら、まるでそれを裏打ちするような、安倍晋三という首相の誕生であり、現在の安倍政権ではあるまいか、と思ったりもします。

勿論、今の政情は、そんな単純なものではないにしろ。

現在、共同通信編集委員の太田昌克さんが「核70年の黙示録」という非常にパワフルな連載を行っているのをご存知でしょうか(地方紙には共同配信されていると思います。現在第6回くらいまではウェブ配信されています)

今日の地元紙に、最新回が掲載されていました。

第9回「原爆投下 人類の岐路」。
3回に分けて検証するそうで、今日はその1回目。

太田さん特有の粘り強い取材力で、非常に衝撃的な内容であり、かつ、提示された視点が「目からうろこ」でした。

当たり前のことなのに、その当たり前のことが目に入らなかったり、いつの間にか、大事なことをスルーしてしまっているんだな、と思わされました。

実はこの記事の基本的なスタンスは、守田さんが常々言われているような、原爆投下に関するアメリカに対してのスタンスなのです。

機会があれば、ぜひぜひお読みください。

またいろいろゆっくりお話したり、色々シェアさせていただきたいです・・・。

色々もの思いの絶えない夜に。
返信する
9条について (守田敏也)
2015-10-03 11:38:31
武尊さん

コメントありがとうございます。
9条ですが、成立の経緯についてはいろいろな論があるもののいずれにせよ、その後に日本民衆自身によって主体的に選択され、定着してきたことは間違いのないことだと思います。アメリカはむしろその後に9条をひっくり返して日本をアメリカの属国として武装強化させようとしてきたわけで、戦争法のほうが押し付けそのものです!
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平和な夜を (守田敏也)
2015-10-03 12:49:46
みきさん

大変な状況の中でのコメントありがとうございます。少し疲れがたまっていて返信が遅れました。すみません。

裁判の原告になられたのですね。素晴らしい!
そういうさまざまな行動を各地でそれぞれに積み上げることが大事だし、一番、効果もあると思います。

「日本のいちばん長い日」はまだ観ていませんが、この辺の歴史は詳しく調べてきた自負があります。
日本人のクレージさ・・・うーん。というより人間のクレージさではないですかね。

日本軍は強かったのか弱かったのかという問いがあります。大方の答えは「上に行けば行くほど弱く、下に行けば行くほど強い」です。
例えば大岡昇平の『レイテ戦記』を読むと、アメリカの将校たちがいかに日本軍の前線の部隊に苦しめられたかを切々と語っていることが分かりますが、彼らは一様に日本軍将兵の絶望的な状況でもなお繰り返し突撃してくる抗戦力を評価しています。最も戦記は「こんなにも強い相手をやっつけた」と自らの武功を誇るためのものですからその分は差し引いて読まなければならないのですけれども。

しかし軍としての戦略はかなりひどい。情報分析が相当に主観的で甘いし、はっきりいって本当に勝つ気でいたとは思えないような作戦を連発してくる。この場合はクレージーというよりも、あまりに愚かなのです。
完全に制海権が握られていて、アメリカの潜水艦がうようよしているのに兵員輸送船を次々と送り出す。
運よく目的地まで辿りついても、武器・弾薬・食料を積載した船が沈められてしまって、三八歩兵銃しかもっていない大群が上陸することになり、その部隊がそのまま現地の住民から食料を強奪する強盗団に変わってしまうなど、なぜもっと事前に考えをめぐらさなかったのかと思えるような作戦ばかりなのです。

ちなみに戦争法をめぐる審議で安倍首相は兵站の展開する地域のことを「戦場ではない」とか言ってましたがど、兵站をひどく軽視していたために防衛意識が希薄で、徹底的にアメリカ軍にここをやられてしまったのが太平洋戦争で繰り返されたことでした。・・・なにも学んでいませんね。

フィリピンレイテ島決戦などはこうした戦略的愚かさの最たるもので、大本営は直前の台湾沖航空戦でアメリカ空母艦隊に大打撃を与え、航空戦力を激減させたという前線の誤まった情報を信じてしまい、ここで大決戦を行えば一花咲かすことができると踏んでしまいました。
ところが航空母艦を失ったはずのアメリカが大軍でどんどん進撃してくる情報に接しても「本当は航空力は温存されているのではないか」と疑うことをせず、なんと「奴らはやけになって自暴自棄の作戦に打って出た」と分析してしまったのでした。確かに日本軍がそれまで何かあるとすぐに自暴自棄の作戦に打って出ていましたが、合理主義のアメリカは絶対にそんなことをしない。

それでどうなったかというとレイテ島守備隊の主力を担った京都16師団(南京大虐殺なども主力で担った部隊です)は、アメリカの航空力はないものとして海岸線に無数の「タコツボ」を作って兵士たちが中に入って布陣。敵の上陸を待ち構えたのです。
ところがアメリカはたくさんの空母を連れてきていましたから、先に豊富な航空力を使って空から海岸線を猛爆撃。加えて艦砲射撃を加えました。
16師団の過半の兵士は一発の銃弾も撃てないうちに猛爆撃に晒されて、その場でと殺されてしまいました。戦闘とは呼べない一方的殺りくでした。
そんな誤りが本当にたくさんあります。

ちなみにこの時に始まった作戦が航空機による特攻作戦です。
これもレイテ決戦の時は優秀なパイロットと優秀な機体を使い、奇襲攻撃で行ったので戦果をあげ、アメリカ軍を恐怖させましたが、次第にアメリカは対応策を練り、沖縄戦のときには優秀な戦闘機群をあらかじめ上空で待機させ、日本軍機の到来をレーダーでキャッチしてアメリカ艦隊に辿りつく前にどんどん撃ち落としてしまいました。しかも日本軍は旧式の攻撃機をたくさん繰り出したたのでアメリカからすれば撃ち落とすのがどんどん容易になっていきました。

さらに日本軍の愚かさを象徴するのが陸軍が使ったマルレ、海軍が使った震洋という特攻ボートでした。ベニヤ性の小さなボートに爆雷を積んで体当たりする。レイテ決戦で初登場し、沖縄戦に大量に用意されました。
しかしそんなもの、相手が大きな船だとそれが起こす波で近づけないし、防衛用に丸太でも落とされたらそれだけで近づけないのです。

しかも沖縄戦では作戦に投入する前に慶良間諸島で大量捕獲されてしまったのですが、そこにアメリカ軍が大きな文字で「FOOL」と書き込んだことが有名です。
「なんでこんなバカげた兵器で攻撃してくるんだ」・・・と思ったのでしょう。

ちなみに正確に言うと陸軍のマルレは、海上警備を海軍にだけ任せてはおけないと陸軍が独自に開発したもので、最小から特攻兵器だった震洋と違い、当初は特攻ボートではありませんでした。しかし最後は特攻用に使われたのです。
実は陸軍の将校だった僕の父はこのマルレの教官でした。父たちは特攻するのではなく「ぎりぎりまで敵に近づいたら海に飛び込め」と教えたそうです。まだ特攻作戦が採用される前だったのでしょう。
しかし貧弱なボートですから、誰かが舵をとってないとまっすぐに進むこともできない。操縦士が飛び込んだらもうまっすぐ進まないのです。しかし軍部の方針は「飛び込んで泳いで帰って戦列に復帰せよ」でもんもんと悩んだらしい。この話は兄が聞いたことで僕はしてもらってないのですが・・・。

日本軍の兵士たちは本当に理不尽な命令を受け、多くの疑問を持ちながら最終的にそれを実行していきました。「上官の命令は天皇陛下の命令だ」とされていて逆らうことが許されなかったからです。徹底したリンチも伴ってそれを刷りこんでおり、いざ突撃となるとどんな不利な状況であろうとも猛烈な突撃が敢行されました。
先に「下に行けば行くほど強い」と言ったのはそんな状態から出てくる「突撃力」でそれもまた悲しみの窮みです。

ちなみに父は内地勤務で戦場にはでず、父が率いた船舶隊も結局交戦せずに済んだようです。基地は香川県の善通寺にありました。
広島に原爆が落とされたときに父たちの船舶隊は救助に向かい呉に到達。呉の海軍部隊がところてん式に広島市内に向かい入市被爆しました。

父は呉にとどまったので被曝していないと思ったまま59歳で脳溢血で亡くなりました。
しかし呉にも放射能の雲は辿りついていました。僕がそれを知ったのは福島原発事故以降のほんの数年前のことでした・・・。

ついつい熱くなってたくさん書いてしまいました。ともあれ機会を見つけてまずはこの映画を観てみたいです。
太田昌克さんの「核70年の黙示録」も読んでみますね。

「平和な夜を」と題して書き始めたのに、ぜんぜんそこに辿りつけませんでした。そう平和な夜を迎えたいですね。そのために頑張ります。

どうも内容的に書き足りないコメントになってしまいましたが、とりあえず投稿します。
また続きを書きますね。
返信する
ふたたび、憲法9条について。 (みき)
2015-10-05 02:55:28
守田様

お疲れのところ、コメントありがとうございます。

太平洋戦争時の最大の失敗と言われるものに「インパール作戦」がありますね。

戦死者の半分以上の死因が、餓死だったと言われています。

岡本喜八監督の描写はかなり激しいものです。
太平洋戦争最後の内閣の阿南陸軍大臣は、最後に自決しますが、その「切腹」のシーンを、リアルに、延々とやるんです。
しかも三船敏郎が演じています(^^;)

「特攻」「切腹」などは、やはり残念ですが、日本独特のクレージーな戦時下の現象だったと言わざるをえないのではないのでしょうか?

「カミガゼ」はすでに残念な「世界でも有名な日本語」になってしまっているし、中東の過激派組織の「自爆テロ」は、特攻をモデルにしていると言われていた時期もありました。

先のコメントでは、言葉が足りませんでしたが、実はあの先があって、あのコメントに書いたような、日本人独特のクレイジーさを、実は戦争を経験なさった方たちも「実感」なさっていて、そういうクレイジーさを内包していることを自覚しているからこそ、まさにその最大の「抑止力」として、「日本国憲法第9条」を歓迎し、日本人の宝物として、大事に「育ててきた」のではないでしょうか。

「日本のいちばん長い日」で描かれていて、恐ろしいと思ったことの一つは、守田さんが書かれていた「下に行けば行くほど強い」、そしてそういう「下」の軍人たちは「絶望的な状況でもなお繰り返し突撃してくる抗戦力」を持っていた、というところではないでしょうか。

他のコメントでも書きましたが、今夜見た丸山眞男さんが、晩年、「オウム真理教」についてコメントしています。

「オウム真理教は特別なことではない」と。
「あれはまさに先の戦争の戦時下の日本人だった。
日本を一歩出ればまかり通らないことなのに、自分たちの世界だけで物事を考え、進めていた」と。

「日本国憲法」には、公布当時にGHQ向けに作成された英文版がありますが、最近、翻訳家の柴田元幸氏がこれを和訳された「現代語訳で読む日本の憲法」という本が刊行され、これがなかなか興味深いです。

「前文」と「第9条」のみ、主語が「The Japanese people」なのですね。

柴田先生はこれを「日本の人々は」と訳されています。

・・・場合によってはこれをして「日本がアメリカから押し付けられた憲法」と受け取りかねない政治家もいるかもしれません(^^;)

諸外国でよく知られてきたような「日本は戦争をしない国」という「ブランド」は、これからも堅持していきたいですね。

それには日本国民の「不断の努力」が今日ほど求められている時はない、と、ひしひしと感じています。

いつもだらだら長くなってすみません。

こういう「政治問題」と同時に、私の頭をいつも離れないのは、「放射能汚染問題」「原発問題」です。

専門家ではない一介の市民にとってはいくつも難解な問題を常に抱えているのは大変疲れます(^^;)・・・という話を、先日、家族としました。


経済問題もそうですね。

最近、GPIFの7~9月の損失が9兆円を超えたことが判明しました。

ご存じの通り、その「投資」したお金は、私たちの年金ですよ!

どうしてみんなもっと怒らないのかわかりません(泣)
返信する
日本人の「クレージー」さについて (守田敏也)
2015-10-06 17:52:42
みき様

繰り返したくさんのコメントをいただいてありがとうございます。
そうですね。日本には特有の「クレージー」さがあります。オウム真理教のことを述べられていましたが、「連合赤軍」もそうでしたね。内ゲバ殺人の応酬もそうでした。
平和憲法下で暮らしていても、一皮むくと凄い暴力性が出てきてしまう・・・その歴史的流れの中に私たちはいるわけで、この特有のものと向かい合っていくことが大切なのだと思います。

ちなみに中東のスーサイドアタック=自爆攻撃には三つの日本からの経路があるようです。
一つは神風特攻隊です。二つは日本赤軍のイスラエル・リッダ空港での襲撃事件。無差別殺人の末に手りゅう弾での自爆が行われました。
このとき日本赤軍の「共闘」の相手はPLO傘下のPFLPなど、宗教的勢力ではなく社会主義勢力でしたが、それでもイスラム教圏で一般に自殺は禁止されているので(神から与えられた命をかってに捨ててはならないということで。これはキリスト教圏も同じです)、自ら死を選ぶ形の「攻撃」はかなりのインパクトを持って迎えられたそうです。
これらは「911事件」のときに立花隆さんが書かれていました。

一方で「自分たちこそがアラブに特攻を教えた」と語っていた人々もいました。数年前に政府軍によって完全鎮圧されたスリランカの「タミル・イーラム解放のトラ」です。この人々は日本軍が東南アジアに侵攻し、さらにインドへの勢力拡大を目指した時に、すでに軍事力が足りなくなっていたのでインド人のイギリスからの解放熱にコミットし、日本軍の共闘組織として築いた「インド国民軍」に由来しているそうです。

このとき「爆弾三勇士」の話が「インド国民軍」に日本陸軍から伝えられたのだとか。これは第一次上海攻撃のときに爆弾を抱えて敵地に突入し、自爆して「血路」を開いたと言う陸軍の武勇伝です。
これら日本軍の戦闘スタイルを自分たちが受け継ぎ、それをアラブに教えたのだと「タミル・イーラム解放のトラ」は語っていたとか。実際、この人々は旧日本軍のように青酸カリを持参し、捕獲されそうになると自決しました。
この話はスリランカ・東南アジア研究の第一人者である中村尚司さんから直接お聞きしました。

野球でもサッカーでも、日本チームは「サムライ」を名乗りますが、サムライ文化にまさに「ハラキリ」が刷りこまれているわけで、この国の人々はどこかでこの戦場の狂気を継承し続けているのだと思えます。
忠臣蔵とかずっと人気ですものね。

私たちが向かい合わねばならないのは一番近い、私たちの歴史ですからその点ではみきさんのおっしゃる通りだと思います。

ただ一方で「人間の狂気ではないですかね」と僕が書いたのは、昨年のポーランド・アウシュヴィッツ訪問を始め、僕自身が世界の「狂気」とさまざまな形で向かい合ってきたからでもあります。
僕も若い時に左翼運動の末席にいたので、左翼の歴史をかなり学びました。そうするとロシア革命からソ連邦の歴史を学ぶことになるのですが、もう本当にすさまじい内ゲバの歴史で、かつての仲間たちを片っ端から処刑してしまった逸話に溢れています。

実はナチス・ドイツはここに着目して、ソ連赤軍の誰それが実はナチスと通じているとかのデマを流すのですが、スターリンやソ連中央はこれをすぐに信じてしまい、ソ連赤軍の幹部を次から次へと処刑して弱体化してしまうのです。そのもとで行われたのがバルバロッサ作戦=スターリングラード侵攻作戦でした。その主戦場になったのがベラルーシ・ウクライナ・・・後にチェルノブイリ原発事故で最も被ばくした地帯でした。

ここでソ連赤軍は猛烈な反撃を開始し、3年ぐらいの戦線膠着の後にナチスを撃退するのですが、よく調べていくとその最前線に立っていたのは「ソ連赤軍クルド人部隊」でした。クルド人は常にそうやってあらゆる戦争の最前線に立たされてきた。本当になんとも言えない思いがしました。

ちなみに4月にポーランドにいったときにベラルーシの医師と一緒になりましたが、彼女のおじいさんはこのときに赤軍に参加して、ベラルーシ解放に貢献したのだそうでした。彼女がとても誇らしげにそれを話していたことを思い出します。

いやさらにヨーロッパで行われた宗教戦争では本当に激しく「血で血を洗う」殺りくの応酬がなされました。そののちに「もう暴力の応酬はやめよう」と、「スコットランド啓蒙思想」が生まれてきたことを少し前に連載しましたが、その心は、たったいまこれだけ広範に広がってきた民衆運動が、1960年代の後半の学生運動の盛り上がりが壮絶な内ゲバに転化してしまったようなあやまちを繰り返さないで、豊かで弾力性のある団結を培っていくことに寄与したいと思ってのことです。

またその過程で、ヨーロッパでは宗教戦争ののちに「反省」が生まれましたが、それが広がる前に新大陸に逃れた人々が作った国がアメリカであることを痛感しました。アメリカの建国の理念の根っこにはヨーロッパで受けた暴力的迫害への恐怖がしみ込んでいるように思えます。そしてこの恐怖こそが人間的狂気の源にあるように僕には思えます。

「ハラキリ」という「制度」がやがて文化ともなり、江戸時代を通じて継承され続けましたが、しかしそれでも江戸時代には島原の乱以降、それを上回るような内戦的な戦争はおきませんでした。その間、ヨーロッパは戦乱にあけくれました。そうして軍事力と文化に大きな差ができました。もちろん当時の日本は軍事力が発達せず、その分、文化が大きく発展していました。当時、世界で庶民が文字を楽しめていたのはおそらく日本だけです。

僕にはにもかかわらず幕末から明治維新を通じて、日本は近代ヨーロッパから近代という名の暴力を輸入してしまったのではないかと思えるのです。
その点で、幕藩体制を嫌悪し、明治維新を美化した「司馬遼太郎史観」とも呼ぶべきものと対決していくこと、僕としてはそこに日本の「狂気」とのイデオロギー的、歴史観的対決の軸を感じています。

ちなみに日本へのマルクス主義の移入は、ロシアマルクス主義を経て行われました。ヨーロッパで緩やかに進行した「スコットランド啓蒙思想」などの影響を受けた穏やかなマルクス主義ではなく、「マルクス・レーニン主義」として受け入れられたのです。いやそれはアジア全体に共通の傾向だったと思います。
しかもそこにはソ連共産党が全面化していたような内ゲバ体質そのものが流れ込んでしまいました。さきほど連合赤軍のことを書きましたが、「赤軍」の名も、ロシア赤軍に由来するものですし、そこでの暴力性に強い影響を受けています。その意味では後年に激しく批判されたスターリンだけでなく、レーニンその人に、激しい暴力性が見られると僕には思えます。

ただ、これらについては論文や研究の形ではなく文学のフィールドで対抗していくしかないかな、またしていこうかなとも思っています。その方がずっと波及力が強く思えること、同時に僕自身やってみたいという思いもあってのことです。
なかなかにその余裕が持てないのですが、どこかでその展開を考えたいです・・・。
返信する
「平和な夜」を紡いできた日本人 (みき)
2015-10-08 00:08:39
守田様

お忙しい中、コメントありがとうございました。
大変勉強になりました。

この国の歴史と向き合うこと、それを知ることが、平和への大切な道のりだという気持ちに変わりはありませんが、それだけでは、近視眼的になってしまう、ということを、書いて頂いたコメントで実感いたしました。

「世界の『狂気』とさまざまな形で向かい合ってきた」というお言葉と、それに続く守田さんの経験談は、日本をほとんど出たことのない私にとっては、新しい視界を開かれた思いがしました。

特に「日本は近代ヨーロッパから近代という名の暴力を輸入してしまったのではないか」という視点は、重要な示唆だと思いました。

考えてみれば、私が日本の戦争における加害者としての暴力的な過去を考える時、それは明治以降の近代に起こった出来事です。

昨年、友人から、民俗学者の宮本常一さんの「忘れられた日本人」(岩波文庫)という本を薦められ、彼女はこの本を私にプレゼントしてくれました。

彼女にとっても、私にとっても、この本の中に忘れられないくだりがあります。

それは、日本の村落には昔、200年以上も前から、「寄りあい」という制度があったということです。

「村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう」
という制度です。

話が終わらなければ、夜を徹してでも話し合い、その場で寝るものもあり、いったん家に帰るものもあり、起きて話して夜を明かすものもあり、結論が出るまでそれが続いたそうです。

「気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。」

かといって延々続くわけではなく、この方法で、「三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという」。

当時はもちろん「民主主義」などという言葉はありませんでしたが、これこそまさに「民主主義」の本質ではないでしょうか。

日本の村落では、昔から、「民主主義」がきちんと実行されていたのです。

今とは時代が違う、規模が違う、と言おうと思えばいくらでも言えるのかもしれませんが、やはりこの「寄りあい」を可能にしたのは、日本人の生来の優れた特性だと思います。

まさに「忘れられた日本人」ですが、このことを今まさに思い出したいと思います。

日本人は、やっぱり元々は、「平和力」のある民族なんだと思いなおしました。

NHKのドキュメンタリー番組「72Hours」で、以前六本木の街を取り上げていたのですが、その時、アメリカから日本に移住してきた黒人の若者が、インタビューに答えてこう言いました。

「オレは日本が好きだ。だってこの街ならオレたちは銃で撃たれたりしないから」

銃規制の問題もあると思いますが、それだけではない「環境」が日本にはあるのでしょうね。

「文学」ではないのですが、以前、河合隼雄さんと村上春樹さんは対談で、今の日本に重要なのは、共有できる「よき物語」であると、「物語」の重要性について語っていました。

「日本国憲法第9条」は、日本人が共有できる素晴らしい「物語」だと思います。

憲法の成り立ちがどうであれ、憲法9条は、日本人の民族性に、日本人の心に沿った条文だったために、ここまで日本人が、はぐくみ、堅持してきたのでしょう。

自分のことを振り返っても、そう思います。

この憲法9条という「物語」を携えて、世界にアピールし続けていきたいと思います。
「日本政府」の「声明」ではなく、「日本の市民」の「声」として。
返信する
日本人は昔の方が討論がうまかった! (守田敏也)
2015-10-16 18:03:19
みき様

いつもコメントありがとうございます。

宮本さんのお話、我が意を得たりです。
実は新著にもこの問題を書き込んでいます。江戸時代の河川管理でこうした寄り合のシステムがフルに生かされていたのです。

川は地域で管理されていた。また洪水を堤防で完全に押し込めるのではなく、あちこちに越流地点を決めておいて、いわば水を分散させて凌いでいた。
その時の被害補償をするのかを寄り合で決めていたのですね。

原則は全員一致。多数決はとらない。決まるまで延々とやる。場合によっては決まるまで寝ない。そうすると最初はそれぞれの利害を主張しあうのだけれど、途中からみんながそれぞれに全員が一致できる落とし所を探り出す。なにせ決まらないと終われないので全員が知恵をしぼるようになり、決着をみるのです。

そうするとみんなが知恵を絞り尽くした一致点だから見事に守られたのです。

ところが明治時代以降に河川管理の在り方が変わっていく。大規模な堤防が作られるとともに、河川管理が地域から中央官僚に集中していぅたのです。このため見事に機能していた自治が後退していく。その結果、流域住民は川に関わる権利を失い、自分たちは官僚に何かをしてもらう人、あるいは文句を言うだけの存在になってしまった。能動性を失ってしまったのです。

このため川の研究者は江戸時代の日本人の方が対話がうまかったなどとも言います。
現代はこの官僚化の流れをもう一度逆転し、民衆が能動性を取り戻していくべき時代だと思うのです。
それが河川管理やあらゆる災害対策でも問われています。

それらから僕は民主主義の豊かな発展、成熟をも原子力災害対策の中で目指していきたいと思うのです。
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