守田です(20200610 11:30)
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● 金融とユダヤ人とポーランド
ちなみに金融は、歴史的に共同体と共同体の狭間から発生してきました。いや金融に先立つ商品がそうでした。共同体の中で自家消費しないものが増えたときに、余剰産物が商品として他の共同体との交換に回されたからです。それが金融へもつらなりました。
ユダヤ人が金融業に多く携わるようになったのは、ユダヤ人が国家をもたず、キリスト教圏に支配的なユダヤ人抑圧構造の中で共同体の外に置かれていたため、共同体間で発生する商品や金融がユダヤ人の手に集まっていった経緯があります。
またこうした商品交換や金融に携わることは、中世社会では卑しいこととされました。特に利子を得ることは「神の支配する時間を儲けに悪用する行為」として咎められていました。いまもイスラム圏ではそうです。しかしそれは不可避的に生じることでした。
この反映を、シェークスピアの『ベニスの商人』などに見ることができますが、ヨーロッパ社会は、共同体と共同体のつなぎ役を必要とし、その役割を共同体の外にいるユダヤ人に押し付け、しかしそのユダヤ人を差別抑圧した矛盾構造の中にあったと言えます。
共同体のつなぎ役となったのは商品だった。その商品の中で特別な位置をしめたものが貨幣=お金でした。お金でこそ、同じ共同性のない人々が、つながりを持てたのが現実でした。しかしその現実は長らく「いやしいこと」とされていた。
ところがこの時期のポーランドは、ユダヤ人抑圧や差別意識に与しなかったため、一部のユダヤ人の持つ金融力がポーランドに還元される必然性を持ったのでした。そのことがこの国が豊かに発展していくことに寄与していったのでした。
共同体・お金儲け・豊かな社会の創造・・・何かとても重要なヒントがあるように思えないでしょうか。
このころ、ヨーロッパ全体も、東欧と言われる地域も、幾度も領土の取り合いをして「国家」の形を何度も変えていくのですが、その中でポーランドは「ドイツ騎士団」と衝突していくようになりました。
ドイツ騎士団はローマ法王に承認されたカソリック騎士団ですが、国家を持っていませんでした。もともとポーランドは首都のワルシャワ防衛のためにドイツ騎士団を招きよせたこともあるのですが、その後に仲たがいし、戦闘を繰り返していくようになります。
とくに1410年に「グルンヴァルドの戦い」といわれる大きな戦闘があり、ポーランドの勝利のうちに1414年、コンスタンツ公会議が開かれ、この戦いのことが話し合われます。
写真1 古都クラクフの聖マリア教会 守田撮影
クラクフには14世紀ごろ積極的にユダヤ人が招き入れられた。当時はヴィスワ川の中洲だった河川を利用した運送に適した広い土地がユダヤ人の自治都市として提供された。なお後年、ナチスはこの川岸に「クラクフ・ゲットー」を設営。そこに隔離されたユダヤ人たちが、オスカー・シンドラーが経営する工場で働き、保護も受けた。
● ポーランドはいち早く「人権」を主張した!
ヨーロッパの歴史は大変、複雑でこの時期のことを語るためには、そもそもローマ・カトリックがこの時期、大分裂(シスマ)を経験し、教皇が3人も分立していたことにも触れなくてはなりません。
この公会議は大分裂状態に終止符を打つために行われたのですが、そこでドイツ騎士団とポーランド=リトアニア連合の戦いが大問題となったのです。
というのはドイツ騎士団が、カソリックの国であるポーランドが、キリスト教を採用していない異教徒の国、リトアニアと連合したことへの非難の声を上げたのでした。異教徒と連合してキリスト教徒を討ったポーランドは天罰に値すべきだと主張したのです。
これに対してポーランド側が主張したのは、異教徒と言えど同じ人間であり、リトアニア人には自らの政府を持つ権利、平和に暮らす権利、財産に対する権利があり、これらを自衛する権利があるということでした。
つまり宗教の枠を越えた人権を高らかに主張してドイツ騎士団に対抗したのです。
分裂から一本化の道を歩みつつあった教皇庁は、これに対して異教徒であるリトアニア人の諸権利の承認に関しては留保しつつも、ポーランド側の主張を認め、ドイツ騎士団の非難を却下したのでした。
ポーランドはユダヤ人に対してだけでなく、他の「異教徒」にも対等な権利を認めることが正義であると主張し、ローマ法王に認めさせたのです。この時期では画期的なことだと思えます。
しかしヨーロッパにはその後にカソリックの「堕落」への抗議=プロテストを唱えるキリスト教新派が登場し、さらに大きな変革を経ていくことなります。
この大きな流れの中でポーランドは次第に力を失っていきます。なぜだったのかまだ僕には十分に分析できていませんが、最終的にポーランドは周辺国の力の増大の中で力を失い、1795年に三度目の分割を受けて消滅してしまうのです。
写真2 ドイツ騎士団との「グルンヴァルドの戦い」(1410年)の戦勝記念碑。この後のコンスタンツ公会議でポーランドは「人権」を主張。ただし銅像の建立は1910年。クラクフにて守田撮影
● 分割にあえぐ中、ナチス・ドイツに抵抗したポーランドの人々
このため国家としてのポーランドは一度、歴史から消えてしまい、再登場は第一次世界大戦後まで待たねばならなくなります。
その新生ポーランドもまた1939年、ナチス・ドイツとスターリンのソ連邦の密約のもとに、東西から侵攻されて滅亡してしまうのでした。ポーランドは歴史上2回も分割による国家喪失を味わったのです。
とくに「ユダヤ人撲滅」という犯罪的な主張を掲げたナチス・ドイツが行った占領政策は苛烈でした。ナチスは強制収容所を作った。有名なアウシュビッツ他、幾つもです。
そこはやがて絶滅収容所と言われるようになりました。ユダヤ人皆殺し作戦が実行に移され、貨車でこの場に運ばれてきた多くのユダヤ人が、「収容」すらされずに、そのままガス室に送られて虐殺されたのでした。
アウシュヴィッツ博物館ではこのことを展示していますが、そこには第二次世界大戦前夜にポーランドに住んでいたユダヤ人300万人のうち、生き残ったのが5万人だったというあまりに残虐な現実が示されています。
かつてヨーロッパの中で最もユダヤ人に寛大だったポーランド、いや「寛大」などという言い方もおかしい。当然にも保護されるべき人権の対象としてユダヤ人を対等な存在として扱ってきたこの国で、最も苛烈なユダヤ人虐殺が起こってしまった。
ただしおさえておくべきことは、この占領期、ポーランド人の多くはナチスの政策に非協力的で、ユダヤ人を匿う道を選んだことです。このためナチスは、占領地域の中で唯一、ポーランドに対してだけ、ユダヤ人を匿った場合の極刑を宣告しています。
それだけポーランド人の、有形無形の抵抗に、ナチスは手を焼いたのでした。
ここまででも言えることは、長い間、戦乱に明け暮れるとともに、ユダヤ人への差別と抑圧を繰り返してきたヨーロッパの中で、中世ポーランドには学ぶものが多いのではないかということです。
そこには人類にとっての普遍的な何かの提起であるのではないか。それを可能とさせたものが何であったのかについて、私たちが学ぶものが大きくあるのではないかと思えます。
現在のポーランドにもそれは何かの形でつながっているのではないでしょうか。ポーランドはOECD諸国の中で日本についで犯罪の少ない平和な国であり、さらに子どもたちの行儀がいい国としても評価されているといいます。
ペストと新型コロナの対比は、それをとりまく歴史の検証、学びの中でこそ大きな意味を持つように思えます。
「寛容」「人権」と言うキーワード、同時に「お金儲け」というキーワードにも着目しつつ、考察を深めていきたいです。
写真3 クラクフの織物会館の夜景。周辺のマーケット広場は中世から残るものとしてはヨーロッパ最大級。往時の繁栄が偲ばれる。守田撮影
連載終わり
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