明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(723)ゲルニカから広島・長崎、そして福島へ・・・空襲と原爆投下を問う(下)

2013年08月08日 09時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

明日に向けて(723)ゲルニカから広島・長崎、そして福島へ・・・空襲と原爆投下を問う(下)

守田です。(20130808 09:00) 

昨日の続きを書きたいと思います。私たちが空襲の戦争犯罪を告発していくためには、もちろん、旧日本軍の行った様々な戦争犯罪を、日本人の側から正していかなくてはなりません。僕が関わっている性奴隷制問題もその一つであり、南京虐殺をはじめとしたアジア各地での蛮行もそうであり、捕虜の虐待などなど、枚挙のいとまがありません。さらに付け加えるべきは、日本軍の兵士たちに対する構造的虐待の捉え返しでしょう。
同時に空襲の問題でいえば、一番、初めに「戦略爆撃」という名の、連続的な都市空襲を行ったのが日本軍であることも、正しい歴史認識として踏まえておく必要があります。
そもそも空襲の始まりは、ドイツ軍とフランコ軍のユンカース急降下爆撃機などを使ったゲルニカ襲撃でした。スペイン内戦のさなかの1937年4月26日のこと。200トンの爆弾が使われ、市民を中心に1600人の死者が出ました。
このとき世界は、一般の人々を巻き込んだナチスドイツとフランコの仕打ちに激怒しました。画家のパブロ・ピカソがありったけの怒りを込めて、『ゲルニカ』と名付けられた抗議の絵を発表したことが有名です。

一方で人権感覚が希薄だった日本軍は、世界の激怒に耳を貸さず、空からの攻撃の「軍事的効果」に着目し、戦争戦略に大きく取り入れました。日本軍は1938年12月4日より1943年8月23日にかけて、中国蒋介石政府のあった重慶市に大型の爆撃機を使った断続的な空襲を敢行、なんと218回もの爆撃を行いました。この攻撃で殺害された人々の数は1万人におよんだとされています。
ドイツ軍とフランコのゲルニカ空襲に怒りの声をあげた各国は、しかし日本軍の「戦略爆撃」の「効果」に着目し始め、それぞれに爆撃機を開発して空襲の準備を始めていきます。そしてドイツ・イギリス間での空襲の応酬がはじまります。この空襲は主に互いの軍事工場を狙ったものでしたが、あるときからタガが外れて、都市空襲に転換していきました。
この「バトルオブブリテン」にアメリカ軍が参戦し、空襲の規模はますます拡大していきました。ゲルニカに怒った世界は、ゲルニカをはるかに上回る空襲を相互に繰り返すようになり、こうした空襲の「効果」を最大級に高めるものとして、アメリカ軍が原爆開発を急いだのでした。

しかし原爆が完成する前に、日本軍はアメリカを中心とした連合国軍の猛攻によって敗戦を重ね、急速に瓦解していきました。1944年、フィリピン海域で行われた「レイテ決戦」において、日本軍は主力の軍艦のほとんどをアメリカ軍によって沈められてしまいました。航空機とパイロットの被害も甚大でした。フィリピンの島々に投入された日本陸軍も、アメリカの猛攻によって壊滅的な打撃を受けました。
軍と軍との衝突としての戦争は、ほとんど1944年末には決着がついていました。しかしアメリカ軍は、硫黄島をはじめ、次々と日本が占領していた太平洋の島々を奪取し、爆撃機の発進できる大規模滑走路を有した航空基地を作り、何度かの空襲が組織されました。

この頃、まだアメリカ軍は、「空襲の犯罪性」への最後の歯止めを失ってはいませんでした。空襲の対象を軍事基地や軍事工場に限定していたのです。いわんや都市部を襲い、人々を無差別に殺戮することは戒められていました。
これを痛烈に批判して登場したのが、アメリカ戦略空軍の将軍、カーチス・ルメイでした。彼は「日本はファシズム国家であり、全員が戦闘員である。東京の町はすべて軍事工場だ」といいなし、東京大空襲の敢行を主張しました。戦術としても、従来の高高度からの爆撃に変えて、低高度からの爆撃を主張し、東京をターゲットに準備を重ねました。
かくしてカーチス・ルメイの主張を取り入れて前将軍を更迭したアメリカ戦略空軍は、最後の「歯止め」をはずしてしまい、都市への大規模空襲に踏み込みます。こうして行われたのが1945年3月10日の東京大空襲でした。
このときアメリカ軍は東京の地形や気候条件を調べ上げ、北からの空っ風の吹く条件を攻撃に利用しました。また木製の日本家屋を効率よく焼き尽くすために、石油会社に「焼夷弾」を開発させました。火薬ではなく油脂を詰め、町の延焼を狙ったものでした。

周到な準備のもとに行われた東京大空襲は、計画された大量殺人でした。まずアメリカ軍は、燃焼力の高いマグネシウムを含有した焼夷弾を意図的に落とし、消防車を終結させてから集中攻撃を行い、都市の防火体制を破壊しました。そののちにB29の大編隊が、高度1000メートルを切る超低空飛行で東京の空に侵入しました。
アメリカ軍は焼夷弾を東京の下町にいくつかのラインを引くように連続的に落としていきました。このため町の中に猛烈な火の壁があらわれ、この壁と壁に挟まれた地域に火炎地獄が立ち現われました。高温化したこの地域では、火は延焼というよりも、飛び跳ねるように次々と広がっていきました。
ちなみにその中を逃げ惑った少女の一人が、深川生まれの僕の母でした。母は「火が機関車のように転がっていった」という表現をしました。火炎が町の中をいくつも駆け抜けて、人々を飲み込んでいったのです。そんなものを見て、彼女が生き残ったこと自体が奇跡と思われる炎の地獄の発生でした。
この計画的な大量殺りくによって、東京は一晩に10万人の死者を出しました。一晩での被害では、人類史上最悪でした。

その後、アメリカは日本全土への空襲に踏み切ります。4月には沖縄上陸戦も開始しました。この過程で原爆製造が急がれたわけですが、注目すべきことはアメリカは原爆使用を間に合わせるために、意図的に日本を降伏させない戦略を取り続けたことです。日本をよく研究していたアメリカは、天皇制の護持が保障されない「無条件降伏」は、当時、軍事力をほとんど失って和平交渉を渇望していたにも関わらず、日本が飲みこまない条件であることを熟知していたのです。
こうしてアメリカは原爆開発を急ぎます。そのため原爆は2つのタイプが作られました。ウラン235を濃縮させて爆縮させるタイプと、燃えないウラン238に中性子を当ててプルトニウム239を製造し、それを爆縮させるタイプです。なぜ2つのタイプが選ばれたのかと言えば、当時はどちらが早くできるか分からなかったからでした。
アメリカは7月に3つの原爆を完成させました。ウランタイプが1つとプルトニウムタイプが2つでした。このうち爆縮技術がより難しかったプルトニウム型で7月に核実験を行い、爆発に成功させています。かくしてアメリカは2つのタイプの原爆を太平洋の島々の空軍基地に運び込みました。

原爆投下のターゲットとなった広島に、アメリカ軍は繰り返し偵察機を飛ばして、たくさんの写真を撮りました。何が知りたかったのか。1日のうちで一番人が外に出ている時間帯でした。こうして原爆投下時間に8時15分が選ばれました。当時の人々は外で朝礼を行っていました。また出勤途上の人々も多くいた。この時間帯、もっともたくさんの人々が家の外に出ていたのです。
その時間を狙ったのは、明らかなる人体実験でした。アメリカ軍は原爆の熱線と放射線が人々にどのような影響を与えるのかを知りたかったのです。かくして68年前の昨日の朝、原子爆弾が広島上空に投じられました・・・。


初めに述べたように、オリバー・ストーン氏は「原爆が必要だったのは幻想」と指摘しました。その通り。原爆が戦争を終結させるために必要だったというのは嘘です。日本軍は壊滅していてとても戦争を継続する力を持っていませんでした。いやそもそも1945年過程に行われた都市空襲も、沖縄上陸戦も必要などありませんでした。
にもかかわらず、アメリカ軍は猛攻撃を繰り返し、都市住民の虐殺を繰り返しました。この過程がまたアメリカ軍に大量虐殺への「戒め」を次々と破らせ、原爆投下までも可能にしていく道でした。アメリカは今なお、この大量虐殺をとらえ返していません。謝罪も反省もしていません。そのことが私たちの世界に、構造的暴力をはびこらせ続けています。
事実、アメリカは第二次世界大戦後、空襲戦略をどこまでも強化していきました。1950年から始まった朝鮮半島を戦場とした戦争において、アメリカは戦略爆撃を繰り返しました。さらにベトナム戦争において空襲はよりエスカレートし、沖縄から飛び立ったB52が、繰り返し北ベトナムの諸都市を襲いました。2000年代になってもアフガニスタンで、イラクで、アメリカ軍は空襲を繰り返してきました。
アメリカ軍の空襲戦略を飛躍的に「高めた」のは先にも述べたように、カーチス・ルメイという将軍でした。日本全土への空襲と、原爆投下の空軍の最高責任者でしたが、なんと私たちの国は、この虐殺の首謀者に1964年12月7日、朝勲一等旭日大綬章を送っています。航空自衛隊の育成に対する功績に対してだそうです。僕はこういうことを・・・あまり好きな言葉ではないですが・・・「国辱」というのだと思います。

歴史はいまだまったく正されていない。正義は踏みにじられたままであり、批判の声、嘆き、苦しみ、悲しみの声は、無視されたままです。こんなことが続いていいはずがない。絶対に正さなければいけない。
そのためにも私たちは、日本軍の戦争犯罪にも厳しい目を向けて、反省を深めていく必要があります。日本軍の犯罪も、アメリカ軍の犯罪も「戦争だったから仕方がない」とあいまいにしてきたこの国の歴史認識を大きく問い直す必要があります。

同時にここで強く主張しておきたいのは、アメリカ軍による広島・長崎への原爆投下の正当化が、いまなお私たちを直接に苦しめているのだということです。何によってか。放射線の人体への危険性への評価においてです。戦後、占領者であるアメリカは、広島・長崎の被爆者調査を独占しました。そして原爆投下国であるアメリカにとって都合の悪いこと一切合財を伏せてしまいました。その最たるものが原爆の放射能による人体への深刻な被害でした。
なんのためにアメリカはそれを行ったのか。一つには原爆投下という戦争犯罪への批判、訴追を免れるためでした。二つに、戦後、急速に拡大した核戦略への批判をかわすためでした。この戦略上の必要性から、アメリカは放射線の人体への影響を非常に小さく見積もる必要があったのです。
そしてそのことが、核実験によって全世界に生じた被害者、アメリカの核兵器製造工場の事故などの被害者、そしてスリーマイル島、チェルノブイリ、福島と続く原発災害の被害者を直接的に苦しめ続ける根拠となってきました。その意味で広島・長崎と、福島は直接につながっているのです。

この負のつながりの歴史を断ち切りたい。断ち切って、人類の「野蛮」の時代を終わらせ、新しい時代を切り開きたい。切に思います。またそのことをこそ、戦争と放射能で失われたすべての命に対して誓いたいと思います。
平和へとともに歩んでいきましょう。

終わり

 

 


 

 


 

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