明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(912)イスタンブールからゲルゼへー脱原発町長に招かれて

2014年08月05日 10時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20140805 09:00 トルコ、シノップ時間)

 
シノップの中心街のメチンさんのお宅からです。素晴らしい時を過ごしています。
昨日は通信環境が良くなくて、岡さんの文章の転載は3本までで断念しました。また試みますが、今回はその前に、この間、あったことをご報告します。
 
イスタンブール訪問の最後の日、8月1日は、朝から記事を書いた後にやはりホテルから歩いていけるトプカプ宮殿に向かいました。オスマン・トルコ時代の遺跡で今はミュージアムにもなっています。中でお祈りなども行われていますが、さまざまな旧王家の財宝も展示されています。
建物の内外を色とりどりのタイルで覆った部屋なども幾つもあり、とにかく美しい。全盛期の帝国の姿をかいま見るような気がしました。しかしあまりにスケールが大きくて、途中でも疲れてしまいました。
僕にとっては、「オスマン・トルコ」というこれまでは記号としてしか接することのなかった旧帝国がにわかにリアル化したことが大きく、とにもかくにももっときちんと歴史を学ばないとという思いが喚起されたのがトプカプ宮殿でした。
 
この日の夕方には再びプナールさんと合流し、東京からのフライトでこの日、イスタンブールに着いたFoE JAPANの吉田明子さんを迎えることになりました。プナールさんが選んだ合流地点はタクシムスクエアでした。2013年5月にこのスクエアの中のゲジ公園の使用をめぐって政府の方針に抵抗していたデモ隊に警官隊がガス銃を持って襲撃。合計で10名前後が亡くなった場所でした。
少し前についたので、問題のゲジ公園を取材させてもらいました。タクシムスクエアは基本的にはあまり造形物のない広い空間としてあって、人々がさまざまな催しに使えるようになっているのですが、その中のゲジ公園は日本で言えば東京の日比谷公園を少し小さくしたような感じの公園で、樹木も多く、噴水やベンチ、子どもたちの遊び間も設置してあって、人々が思い思いに憩おえる場でした。
夏のイスタンブールは全体として日差しが大変強いのですが、湿度が低く、海風も流れてくるため、木陰にいくととても快適です。そのためこの公園の中でも、木下で人々が輪を作って談笑していたり、ベンチに座ったまま気持ち良さそうに昼寝をしている人などがいました。
 
トルコ政府はこの公園の樹木をすべて伐採し、新たな建物などを作り、人々の自由な使用を阻害しようとしたのですが、そのためにたくさんの人の抗議活動を受けることになりました。とくにここ数年の間に政治活動に参加するようになった新しい世代、10代後半から20代の若者たちが積極的に行動し、一部では警官隊への投石などお起こり、衝突が激しくなったようです。
細かい経緯や今後の見通しは聞き漏らしてしまいましたが、それらの結果として、今なおゲジ公園は人々の憩いの場としての位置を保持し続けています。この素敵な公園が長く人々を楽しませて欲しいものだと思いました。
 
翌日早朝に空港に行ってゲルゼ方面に向かう飛行機に乗らなければならなかったこともあって、この日の夜はプナールさんのお宅に吉田さんとお邪魔して泊めていただくことになりました。プナールさん宅はタクシムスクエアからバスに乗って40分ぐらいだったでしょうか。海沿いの町にありました。
イスタンブールはボスポラス海峡を隔てて、ヨーロッパ側、アジア側という言い方をします。かつてリスボンからイスタンブールに向かっていたオリエント急行の終着駅がヨーロッパ側にあり、ヨーロッパから訪れた人々はそこで降りてボスポラス海峡を渡って、アジアに入るのです。僕らを乗せたバスも、近代になってアメリカが建てた大きな吊り橋を渡ってアジア側に入り、それからまた長く走って海沿いの町に着きました。
 
プナールさんは「私の家はとても小さいのであなたたちがくつろげるか心配です」とおっしゃっていたのですが、ついてみてびっくり。とてもきれいで広々とした美しい部屋が私たちを待っていました。そこにプナールさんが10年前に拾ったという猫ちゃんが。しかしこの猫ちゃん。毛並みが凄く美しい。とくにおなかから背中にかけての模様は、現代アートのパッチワークのようで拾われた猫とは思えないほどに上品な猫ちゃんでした。
この日は3人で近くのレストランにおもむいてケバブを食べ、すぐに部屋に戻ってビールなど飲みながら翌日に控えて寝ることになりました。
僕と吉田さんは互いにベッドに横になるや夢の中に落ちていったようですが、今回の私たちのゲルゼ行きの手配や、同時に行っているフセインさんという方の原発反対を訴えた黒海からイスタンブールまでの手漕ぎボートでのローイングイベントのプロモートをしてきたプナールさんは、ようやくそれから旅の準備を始めたそうで、この夜寝たのは3時頃だったそうです。
 
一行は朝5時に起床。荷造りをして近くのバス停まで行って空港を目指しました。空港の名前は忘れましたが、トルコ空軍の初の女性パイロットの名前を冠した空港だそうです。彼女はかつてトルコ政府が東部のクルドの人たちを激しく攻撃したときに爆撃を行った女性でもあるそうです。「それではクルドの人たちはこの空港の名を聞くと嫌な思いがするでしょうね」と僕が言うと、プナールさんが悲しそうに顔をしかめました。
 
朝8時半の飛行機でイスタンブールからサムソン空港に向かいました。およそ1時間のフライトでした。空港からはバスでゲルゼ町に向かうとのことだったのですが、町役場の方が車をまわしていてくださり、黒海沿岸をおよそ1時間半、快適にドライブしてゲルゼ町につきました。
案内されたのは海岸から少し小高い丘をあがったところに建っているリゾートホテル。きれいなプールが付帯していてなんだかびっくりしました。通された部屋も素晴らしいオーシャンビューに恵まれていて、1、2キロぐら離れたとことにあるゲルゼの中心街がよく見えます。思わず「わあ」と声を上げてしまうほどのゴージャスさでした。
この素敵なホテルは役場の所有だそうで、経費のすべてを持ってくださっています。もちろん食費もです。ありがたい。ゲルゼ町に感謝です。
 
ホテルには町長さんが待っていてくださいました。また前回の訪問の時にイズミルで一緒に講演させていただき、今回も講演でご一緒するアメリカ在住の物理学者、ハイレッチン・クリッチさんもすでに到着されていました。この他、前回のシノップ訪問のときに出迎えてくださったアシュキュルさん、ナヒデさんという二人のおばさま方も待っていてくださいました。
特にナヒデさんは今回の僕の訪問のきっかけを作ってくださった方です。前回のシノップでの僕の話にとても共感してくださった彼女は、ゲルゼ町長さんに同じような企画をゲルゼでもやりたいと強く進言。当日の僕の話がたくさんのマスコミで紹介されたこともあって町長さんも僕のことを知っており、それでは夏に呼ぼうということになったのだそうです。
 
このことが可能になったのは、ゲルゼ町長が非常に明確に原発反対の姿勢を貫いているからでもあります。この点では実は「今のところ一応反対」‥という感じのシノップ市長より立場がはっきりしているそうで、そのために町の経費で僕の滞在をまかなうことも可能になりました。
日本で僕は兵庫県篠山市で、やはり原発反対の意思を非常に鮮明に掲げられている酒井隆明市長のイニシアチブのもと、原子力災害対策検討委員会に委員として迎えられ、原発災害に関するレクチャーを繰り返させていただいていますが、こうした首長の存在は非常に貴重です。とてもありがたいし、今後、世界中でこうした首長さんたちのイニシアチブが強くなって欲しいものです。
 
実は今回はそうしたこともあって、FoE JAPANの吉田明子さんが、日本の「脱原発をめざす首長会議」の事務局に掛け合い、シノップ市長やゲルゼ町長への公式レターを書いてもらって持参してくださっていました。ともに核のない世界を目指そうと熱く書かれたもので、脱原発のムーブメントでは日本の首長たちからの初めてのレターになると思います。それを企画のときにセレモニーとして渡すことになりました。
さてその肝心の企画自身は8月3日に設定されていました。ゲルゼは2、3日が町をあげてのお祭りです。ゲルゼは海岸に面していて、海沿いにたくさんのオープンレストランがあり、そのすぐそばに漁船が繋留されている町ですが、この海岸沿いの場をメイン会場に二日間、さまざまな催しがされます。僕が参加する反原発企画はその中のメインの一つとして設定されていました。
 
2日夜にはオープニングセレモニーが始まりました。民族衣装で身を固めた高校生ぐらいの若者たち数十名が集まり、ブラスバンドも出てきて町の中心部にある、この国の創設者であるアタテュルクの銅像の前で一礼し、まずは町長さんが挨拶。その後に町の中での行進が始まりました。お祭り大好き人間の僕はそれだけでもう嬉しくなってしまい、パレードの前後を行ったり来たりして写真を撮りまくりました。
やがて海岸沿いの会場に着くと、若者たちがダンスを披露。集まったたくさんの人たちを楽しませてくれました。こうしてオープニングセッションは終了。
 
その後、みなさんと海辺の素敵なレストランで食事をすることになりました。この頃にはドイツから駆けつけてくれたアンゲリカ・クラウセン、アルパー・オクテムさんも合流しました。アンゲリカさんは核戦争防止国際医師会議(IPPNW)ドイツ支部長を務めている方で、今後はヨーロッパの代表にもなられるそうです。僕は3月のドイツとベラルーシでの国際会議のときに仲良くさせていただきました。
アルパーさんは在ドイツトルコ人医師で、前回の僕のトルコ訪問をコーディネートしてくれ、同行してくれた方。あの時、腹痛で苦しむ僕の傍らでずっとケアしてくださった方でもあります。
ドイツからは僕を3月にヨーロッパ・アクション・ウイークの一環としてトルコに送り込んでくださったドイツのドルトムントを中心としたIBBという組織からファゼラーさんも来てくださいました。
IBBは2016年チェルノブイリ30年、福島5年に際しての大きな企画をうつつもりでいて、10月にポーランドで大きな国際会議をする予定でいます。そこに僕も紹介されているのですが、ちょうど彼女が僕のフライトチケットを予約してくださったばかりでした。ちなみに10月の会議には吉田さんやプナールさんも招かれています。
 
その場にシノップの反原発運動の中心人物であるメチンさんをはじめ、さまざまな方たちが集まってきてくれました。ハイレッチンさんをはじめ、英語の使える幾人かの男性が僕をブラザーと呼んでくださった。こういうのは嬉しいですね。
ここでみなさんと魚を中心とした美味しい食事をしたあと、場所を変えて飲みにいきました。トルコのレストランはお酒を出すのが一般的とは言えず、酒類のない店もたくさんあります。この日の食事の場でもお酒はなかったので、場所を変えることになりました。しばらく歩いてたどり着いたやはり海岸沿いのお店のそばでは夏祭りのメイン企画のひとつであるコンサートが継続中。喧噪の中でわーわーとやりとりがはじまりました。会話の中心はトルコ語、もちろん僕は入れません。プナールさんがそばにいれば訳してくれますが、こういう場はそうもいかない。そんな時はアンゲリカさんのそばにいると彼女がトルコ語も話せるので英語でそれを伝えてもくれる。そんな感じでわーわーやっているうちに気がつくともう12時過ぎ。やっとお開きになり、車でホテルに戻りました。
 
そのホテルではプールサイドで結婚式の宴の真っ最中。花嫁さんがずっとスポットライドをあびて踊っていました。何時までやるんだろう?少し離れたゲルゼ中心街からは海を隔ててコンサートの音が聞こえてくる。窓を閉め、それらの喧噪を遠く耳にしながらこの日は眠りの中に落ちていきました‥。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 明日に向けて(911)ハマースを... | トップ | 明日に向けて(913)トルコより... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

明日に向けて(901)~(1000)」カテゴリの最新記事